佐倉哲エッセイ集

日本と世界

On Japan and World

ホームページ

新作・更新
 新作紹介
 更新紹介

日本と世界
 憲法
 和の思想
 人権思想
 日米関係
 いじめ自殺
 少年犯罪
 他

キリスト教
 聖書の間違い
 死後の世界
 他

仏教
 無我の思想
 空の思想
 魂と神々
 他

他の宗教
 オウム
 幸福の科学
 終末論
 宗教殺人
 他

思索
 幸福論
 真理論
 他

日本の知的遺産
 日本思想史年表

言の葉

リンク


来訪者の声



最新・更新エッセイ


社会問題


胎児は人間か
2001年1月19日

「人間の生命はどこから始まるのか」とか、「胎児は人間か」という質問のメールを頂きました。アメリカ合衆国のような個人主義的キリスト教の支配する社会では、しばしばこのような問題が起きますが、日本ではほとんど問題になりません。「胎児は人間か」という問いに関するわたしの考えを述べます。


「妊娠中絶術について」
2001年10月21日

「ひとつお聞きしたいことがあるのですが更新ページにあった胎児の問題です。我々も現実には様々な理由で妊娠中絶術をする立場なのですが、いわゆる親の経済上の理由での妊娠中(22週未満)の処置に関してどのようにお考えですか。これを殺人で許されない行為であるとするものや胎児であるがゆえに許容されるという妥協や諸々考え方があると思います。国によっても法的な対応は千差万別です。お考えを聞かせていただければ幸いです。」

というおたよりをいただきました。妊娠中絶の倫理問題について考察します。


「現金輸送車襲撃事件と日本人の愚かさ」
2001年10月3日

人間というものは失敗する動物です。しかし、同じ失敗を繰り返すのは馬鹿と言われます


オウム信者と住民
2000年1月28日

わたしは、オウムの仕掛けた犯罪は凶悪なものであり、オウムの思想はくだらないものだと思っています。しかし、ただオウム信者(オウムだけではありませんが)であるからといって、居住権を認めなかったり、信者の子供の教育権を認めない市町村のやり方など、とても認められません。


いじめ自殺、悲劇の英雄か
1995年12月12日

いじめはそんなに異常な事件だろうか。ちょうど一般社会に犯罪があるように、学校においても子供たちのいじめがあるのではないか。本当に異常なのは、そして痛ましいのは、いじめそのものより、むしろ、いじめにあった子供が、そのことを理由に自殺を選ぶという事態なのではないか。


いじめ自殺の心
1996年x月x日

わたしの「いじめ自殺、悲劇の英雄か」に関して、埼玉県所沢市の作田さんから「全て違います」という反論をいただきました。作田さんの反論は大変重要なものと思われるので、本論は、作田さんの反論の全文とそれに対するわたしの応答を載せました。


少年の凶悪犯罪について(1)
98年2月14日

「最近の中学生の凶悪事件について頭を痛めています・・・」、というお便りをいただきました。家庭教育が問題なのでしょうか。ホラービデオなどが悪いのでしょうか。この問題に関するわたしの一考察です。


少年の凶悪犯罪について(2)
98年3月5日

再び、少年の凶悪犯罪に関するお便りをいただきました。この問題のさらなる考察です。「愛」や「徳」は他人に教授できるようなシロモノではないことを主張します。


少年の凶悪犯罪について(3)
98年3月21日

さらに、少年の凶悪犯罪に関連して、親と教育者と政府の責任についてのわたしの考えを簡単に紹介します。また、親や教師は、(犯罪防止のための)子どもに対する人格教育など決してなすべきでないことを主張します。


少年の凶悪犯罪と親の責任
98年4月10日

少年の凶悪犯罪に関して、「親が悪いのでは?」と思っている読者の方から、お便りをいただきました。少年の凶悪犯罪の責任は、親ではなく犯罪を犯した本人にあることをさまざまな点から主張します。


戦争と平和



「報復の悪循環からの論理」
2001年9月19日

今回の民間機を利用した米国におけるテロ事件に関して、「報復は報復を呼ぶのだからきりがなく、問題解決にはならない。だから、米国は報復をすべきではない」というような議論が聞かれます。たしか、社民党の土井たか子さんがそう言っていたし、ちょっと、ネットを見回してみると、そのような<報復の悪循環からの論理>が、とくに日本のサイトに、たくさん見受けられます。この<報復の悪循環からの論理>を吟味します。


「平和活動家の偽善」
2001年10月13日

「米国の同時多発テロに対する報復攻撃に反対する市民集会が[9月]24日、東京・代々木公園で開かれた。護憲、平和、消費者団体などでつくる実行委員会主催。約1800人(主催者発表)が参加し[た]」(asahi.com)そうです。 かれらは本当に平和主義者なのでしょうか。かれらの正体を暴きます。


「平和運動と生命尊重」
2001年11月21日

現代の平和運動家は、「生命尊重」の看板を掲げるが、本当は、生命を救うつもりなど全然ないのだ。そもそも、かれらは、始めから防衛手段(戦争行為)を放棄しているのだから、攻撃にさらされている生命は見殺しにするほかないだろう。


憲法と人権思想


「日の丸」と「君が代」
Japan's Controversy over National Flag & National Anthem
1999年3月28日

ある高等学校の校長が、卒業式に「君が代」を歌うべきかどうかという問題で、県の校長会議と日教組との板挟みになり、自殺するという事件が起こりました。この事件について、わたしは、詳しいことは知りませんが、読者の方から、「日の丸」や「君が代」についてわたしがどのように考えているか知りたい、というご質問のお便りをいただきました。


新日本憲法の必要性
Why We Need a New Constitution in Japan
1995年7月10日

中学校以来の親友であるKは護憲派であり、改憲運動に対して軍国主義の復活を懸念している。わたしは改憲派よりさらにラディカルな新憲法の必要性を説く。これはKにあてたわたしの手紙の一部である。


人権思想と日本
Human Rights in Japan
1997年3月30日更新

「我々は、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、創造主によって、誰も奪うことのできない生来の権利を与えられ、その中には生命、自由、および幸福の追求が含まれることを信ずる。またこれらの諸権利を守るために人間は政府を樹立すること、そしてその権力は被治者の同意に由来するものであることを信ずる。そしていかなる政治の形態といえども、もしこれらの目的を毀損するものとなった場合には、人民はそれを廃し、彼らの安全と幸福をもたらすべきと認められる主義を基礎として、そのような権限の機構をもつ新しい政府を樹立する権利を有することを信ずる。」(「アメリカ独立宣言」より)
本論は、この美しい人権思想が、なぜ日本では通用しないのかを考察する、わたしの人権思想批判である。


人権と民権
Human Rights and Civil Rights

わたしの人権思想批判に対して、柳田さんより「基本的人権って、とても大切なものと思ってるんですが」というご意見をいただきました。わたしが問題にしているものは、もちろん「人権思想」であって、いわゆる、信教の自由や言論の自由などの「基本的人権」ではありません。しかし、人権思想と基本的人権(民権)の二つの概念が、日本において大変混乱していることに対する、わたしの認識が甘すぎたために、わたしの説明が足りなかったことも否めません。本論は、その説明不足を補います。


和の思想


和の思想と天皇主義
Wa and Japanese Mornarchy
1995年8月17日

「新日本憲法の必要性」において、「日本人の、日本人による、日本人のための憲法が必要だ」とわたしが主張したことに対して、友人であるKは、わたしの思想は「国粋主義」ではないかと危惧の念を示した。本論は、わたしのKへの応答の手紙である。


和の思想と空の思想
Wa and Philosophy of Emptiness

無常の思想であり、縁起の思想であり、無我の思想である仏教が日本に深く根を下ろし、絶対神の思想であり、永遠の魂の思想であり、独善的排他主義の思想であるキリスト教が日本に根を下ろすことが出来なかったのは、日本人の根本的人間観が和の思想のそれであったからである。人間は皆凡夫であり、それゆえ誰も自己の正義や価値観を他人に押し付ける権利をもたない、また他人の意見が自分と違うからといってそれを排斥してはならない、むしろ、皆和して衆議によって得られる理によって共同体を運営せよ、というあの十七条憲法の和の思想が日本人の根本的人間観・社会観であったからである。


和の思想と個人主義
Wa and Individualism
1997年3月30日更新

数年前、日本の未来をテーマとするあるテレビの放送で、「和を以て尊しとなす」という和の思想は、個人が自分の意見を主張せず、集団に追従してゆくことだから、改めるべき悪い日本の習慣である、というようなことを元出雲市長の岩国哲人氏が語られていた。また、確かその番組の司会者であった評論家の田中直毅氏も、現在日本に必要なのは「個の確立」である、とも語られていた。日本の明るい未来は、古い和の思想を捨てて、個人主義に切り替えるところから始まる。今日、そういう考え方の人が多いように見受けられる。 しかし逆に、和の思想がなくなることに大きな危惧を感じている人たちもいる。例えば、哲学者の梅原猛氏は映画監督伊丹十三氏との対話の中で、「和の社会を失ったら、もう日本はいいところがなくなっちゃうでしょう」と語られているが、伊丹氏も「それで僕は大変危機感を持っております」と、同意されている。 日本はどちらの道を歩むべきだろうか。


和の思想と言論の自由
Wa and Freedom of Speech
1996年5月30日

論議を可能にするものである「和」とは他人の意見や価値観に対する寛容のことであるが、個人の意見や価値観への寛容とは、現代的に言い換えれば、言論あるいは思想の自由のことに他ならない。


「わ」の源流:十七条憲法以前の和の思想
Wa Before the Constitution of 604
1997年2月20日

聖徳太子の時代から現在に至るまで、日本において「和の原理」とか「和の思想」とか呼ばれているものが根強く生き続けてきた事実に、わたしはいつも驚きを感じざるを得ない。しかも、例えば、中国大陸における儒教思想や西欧におけるキリスト教思想が、無数の著作や教育機関や宗教施設や国家権力を通して、計画的に意図的に、またときには生命をかけて情熱的に伝えられてきた事情と比べて、日本における和の思想は、きわめて対照的に、学派も生まず、著作もほとんどなく、誰も意図せず、ほとんど以心伝心的に大衆の中で伝えられてきた。このようなものが、たとえば聖徳太子のような個人の思想やある宗教の影響による結果であるはずがない。もっとなにか日本人にとって根元的なものでなければならないはずだ。わたしはそう思うようになった。本論文は、それを求めて、「十七条憲法以前の和の思想」にさかのぼろうとする、ささやかな試みである。


国家の物語
Stories of a Nation
1998年1月1日

心理学者の岸田秀氏は、フロイドの精神分析の方法を、国家という共同体の分析に応用して、たいへん興味深い国家論を展開しています。それによれば、個人の存在が「自我」という物語に依存しなければならないように、国家というものも、それ自身の「物語」をもつことがその存在のために「必要不可欠」であると言います。「国家の物語と天皇制」という一文のなかで、氏は近代日本における二つの日本国家の物語として、「大日本帝国の物語」と「戦後民主主義という物語」を検討し、そのどちらも欠陥が多く、国家を支えるための物語の条件を満たすには十分でないと判断を下されます。

わたしは、すでにあちこちで主張しているように、日本という共同体の運営にもっとも適切な政治思想は、十七条憲法の「和の思想」であると考えています。本論においてわたしは、「和の思想」が、「大日本帝国の物語」や「戦後民主主義という物語」に比べて、日本にとってはるかにすぐれた国家の物語となりうることを指摘したいと思います。


日本と世界


日米貿易摩擦とわたしの疑問
On Japan-US Trade Imbalance
1993年8月6日

クリントンが大統領になってしばらくすると、次第に彼の対日貿易政策が明確となっていった。それは、米国の赤字貿易は日本の犯罪的貿易政策の結果であり、しかもそれは外圧による強制的変更を迫る以外に真の解決方法はない、とみなすリビジョニストと呼ばれる米国の新しい世代の日本観がクリントン政権の対日政策の方針の土台となったこと、を意味していた。しかしそれに対して日本は、例のように出来るだけ物事を荒立てないように小刻みに米国に妥協しアメリカをなだめようとした。しかし同時に日本でも、米国の高圧的な姿勢に「NO!を言える日本」になることを期待する声もしだいに高まり、米国の赤字貿易は米国自身の経済政策の失敗の結果である、と反論する経済学者や政治家や評論家なども増えていった。その結果、日米間の貿易摩擦が表面化し、米国ではジャパン・バッシングが、日本では嫌米傾向が台頭する事態となっていったのである。そのような状況のなかでわたしは貿易摩擦の原因とされている米国の赤字貿易や日本の貿易黒字が本当に訂正を要する悪なのかどうか疑問を持つようになっていった。本論は93年8月6日付けの米国の日系新聞「OCSNews」に掲載された当時のわたしの日米経済摩擦に関する疑問提起です。


アメリカ神話のウソ
Deceptions in American Myths
1994年4月15日

94年3月4日付け日系新聞「OCS News」 において、ジョイス・エディンバーグ女史はその連載「ディスカバー・アメリカ」において開拓時代のアメリカを日本人読者に紹介された。彼女が専門の歴史学者ではないことは読めばすぐわかるが、彼女の連載は典型的アメリカ人が信じさせられているアメリカ史とはどんなものであるかを教えてくれるまことによい例である。多くのアメリカ人は、このジョイス・エディンバーグ女史のように、今だにアメリカ版「皇国史観」を信じている。本論は94年4月15日付けの「OCSNews」に掲載されたわたしの批判である。


ヒロシマとナガサキの相違
Differences between Hiroshima and Nagasaki
1995年3月3日

広島と長崎への原爆投下の意義には、少なくとも二つの重要な違いがある。そして、この違いを認識することは、米国の原爆使用の動機をより正しく理解するために大変重要なことだ、と私には思われる。本論は1995年3月3日付け米国の日系新聞「OCSNews」に掲載されたものです。


日本はWTOで解決を求めよ
Seek Solutions through WTO
1995年5月

これは95年の春、自動車およびその部品に関する日米貿易交渉が決裂し、米国がスーパー301条を使用して、日本の高級車輸入に百パーセントの関税をかける経済制裁を決定し、日米貿易戦争前夜の様相をもよおしていた最中にわたしの思いを書き綴ったものである。その後、結果として米国はかたくなに要求していた数値目標を断念して貿易戦争は避けられることとなったが、わたしは、この事件は日米関係史において、太平洋戦争以来の最も重大な事件のひとつだったと思っている。ペリー以来の日本の対米従属史に、まったく新しいページが綴られたからである。


アメリカとは
What is America?
1997年3月3日更新

アメリカとは何か。好きであろうと嫌いであろうと、世界はアメリカとつき合って行かねばなりません。しかし、そのためにはアメリカとは何か知っておかねばなりません。これは、アメリカ自身の自己解釈を集めたものです。


日本の援助の仕方は悪い?
So Japanese Economic Aid is Motivated by Selfish Interests

友人Kは「会社で拾った」経済新聞のある記事の内容を電子メールでわたしに送ってきた。日本の国際援助が世界から非難されている、という内容のものであった。Kはこの例をあげて日本の外交は何をやってもうまくゆかない、と嘆いた。本論はこの日経記事とそれに対するわたしの批判である。


西欧型援助と日本型援助
Economic Aid: Western Way and Japanese Way

友人Kは、日本の国際援助に関する日経記事に対するわたしの批判に納得がゆかない。そこでわたしは、なぜ西欧型無償援助より「見返り」を期待する日本型有償援助の方が優れているか、についてもっと詳しい説明を試みた。


国連革命
UN Revolution
1998年7月15日

日本の国連における第一の使命は、むだ金をばらまくことでもなく、自らの信念もないくせに「国際的に認められるために」PKOに自衛隊を派遣することでもなく、常任理事国入りして、なにをやるのか誰にもわからない「国際的責任」を全うしようとすることでもない。


日本が世界征服者となるための条件
Requirements for a World Conqueror
1996年6月16日

日本が世界征服者となるための条件を考察します。


その他



「寅さん」と「STAR TREK」
"Tora-san" and "Star Trek"
96年8月8日

渥美清さんの突然の死に、わたしは深い悲しみに襲われています。本サイトはご承知のとおり、「和の思想」が中心テーマとなっていますが、実は「和の思想」が目標とする理想的社会とは、渥美清さんが長い間演じてこられた「寅さんの世界」である、とわたしは以前から密かに考えていたからです。本論文は、一年以上も前に書き始めたものですが、未だに書き始めだけの未完成品です。時間をかけてじっくりと分析をするつもりだったからです。しかし、今、渥美清さんの突然の死を迎えて、ご焼香に代えて、未完成の拙論ですが、本論文を渥美清さんに捧げたいと思います。

著者
著作権