佐倉哲エッセイ集

人権と民権

佐倉 哲


わたしの人権思想批判に対して、柳田さんより「基本的人権って、とても大切なものと思ってるんですが」というご意見をいただきました。わたしが問題にしているものは、もちろん「人権思想」であって、いわゆる、信教の自由や言論の自由などの「基本的人権」ではありません。しかし、人権思想と基本的人権(民権)の二つの概念が、日本において大変混乱していることに対する、わたしの認識が甘すぎたために、わたしの説明が足りなかったことも否めません。ここで、その説明不足を補いたいと思います。

1996年6月24日
1998年2月7日(更新)



柳田さんが問題とされた私の主張

この [井上ひさし氏と樋口陽一氏との] 対談で指摘されているように、日本国憲法の基本思想は「人権思想」である、という主張は正しいのです。そして、二人が嘆いているように、この憲法の基本思想の上にこそ日本人の日々の生活がなりたっているはずなのに「われわれ日本人はどうもそのように思っていないところがある」というようなことが語られているのです。それも、正確な指摘です。しかし、このあとが僕と彼等の意見が別れるところなのです。彼等は、「だから日本人は遅れている」という結論を出すのですが、僕は、この「人権思想」なるものは西洋に特殊な思想であるから、それは価値観の相違の問題であって、要するに「人権思想は」日本人の心を魅了する力を持たないのである、と考えるのです。
(「新日本憲法の必要性」より)


柳田さんのご意見

僕は日本人ではないのかなあ(笑)。「基本的人権」って、とても大切なものと思ってるんですが。インターネットでこのように、自分の思想信条を堂々と述べることができるのは、基本的人権が日本では守られているからでしょう? これが中国や北朝鮮だったら、とても無理ですよね。


柳田さんのご意見に応えて


日本国憲法の構造

わたしの人権思想、民権、基本的人権などに関する説明不足を補うために、まずもう一度、わたしが「新日本憲法の必要性」の中で引用している、井上ひさし氏と樋口陽一氏との対談の一部を再現します。

樋口:何が日本国憲法のアイデンティティなのかについて、一般的説明では、その三本柱(主権在民、平和主義、人権尊重)というのは正しいのですが、もう一歩突き進めば、三つ束ねる「遡った価値」というものがあって、それは個人の尊重です。(中略)

井上:つまり、日本国憲法の基本的な考え方として、その根本規範は、国民主権、人権尊重、永久平和の三つの原理であること、さらにこれらの原理にの根底に大原理として「個人の尊厳」というものがあるということですね。

樋口:(中略)日本国憲法もまた(欧米の近代憲法と同じように)そういう人権思想の嫡流を継いでいるんです。

ここでは、日本国憲法は「主権在民、平和主義、人権尊重」という三つの原理で成り立っているのであるけれど、さらにこれらの原理の根底に「人権思想」があるのだ、と語られています。しかも、「人権思想」のことを「個人の尊重」あるいは「個人の尊厳」とも表現されていて一貫性がありません。この構造を図でしめすと次のようになります。
      ┌─────────┐
      │  日本国憲法  │
   ┌──┴─────────┴──┐
   │ 主権在民・平和主義・人権尊重│   ‥‥ Civil Rights、民権、市民の権利、人民の権利
 ┌─┴───────────────┴─┐
 │ 人権思想(個人の尊重、個人の尊厳) │ ‥‥ Human Rights、人権、人間の権利
 └───────────────────┘

これが 樋口憲法論の構造です。柳田さんが「基本的人権」と呼び、「とても大切なものと思ってる」思想や言論の自由を規定する権利というのは、実はこの構造の真ん中にある、三つの原理のひとつである「人権尊重」のことです。それは日本国憲法の第三章(国民の権利及び義務)にある、思想および良心の自由(19条)や信教の自由(20条)などに相当します。ところが、憲法学者である樋口陽一氏は、日本国憲法が人権尊重などの三つの柱の上に成り立っているという「一般的説明」に満足しないで、それを下から支えている、さらに根本的な原理があることを主張し、それを「人権思想」と呼んでいるのです。それは何かというと「人権尊重」の哲学的根拠のことなのです。わたしが問題にしているのは、実にこの哲学的根拠としての人権思想なのです。

すべての日本の憲法学者が樋口氏と同じような主張をしているわけではありません。誰でも日本国憲法を見れば、上部の二層はすぐわかりますが、それを支えているもう一つの土台があるということは日本国憲法をちょっと一覧しただけではわからないからです。しかし、樋口氏の日本国憲法解釈は正しいのです。憲法前文や第11条などに人権思想がちりばめられているし、第13条の歴史的背後を調べれば、そこに人権思想が宿っていることが解ってきます。樋口氏は、この人権思想故に日本国憲法を賛美し、わたしは、この人権思想故に新しい日本国憲法が必要だと主張するわけです。


人権と民権の違い

日本における「基本的人権」という言葉と「人権思想」という言葉の混乱は、別々の概念(Civil Rights, Human Rights)に同じ日本語「人権」という訳語を与えたところにあります。上の対談の例でも解るように、一つは「人権尊重」と呼ばれ、もう一つは「個人の尊重」あるいは「個人の尊厳」あるいは「人権思想」と呼ばれていて、日本語だけを見ると相違がまったくわかりません。また、例えば、松井茂記教授の『アメリカ憲法入門』という本を開いて見ると、Civil Rights Legislations という言葉が「人権保護立法」と誤訳されています。憲法学者でさえこれですから、一般の日本人が混乱するのも無理はないと思われます。Civil Rights (Rights of the People) とはまさに「市民の権利」「人民の権利」「国民の権利」のことであって、絶対に、「人間の権利」を指す Human Rights のことではないのです。

しかし、日本の憲法学者の多くが、この二つの概念を明確に分別できない重要な理由は、言語に対する無理解ではなく、彼らが宗教音痴で哲学的洞察力に欠けているからだと、わたしには思われます。樋口氏はこの点でむしろ例外です。

樋口氏が上図のような上部構造と下部構造を考え、日本国憲法が保護する民権が、実は人権思想によって支えられているのだ、と考えられるのは、樋口氏には民権と人権の間にある根本的相違が見えているからです。どこが違うのでしょうか。これについては、もうすでに、「和の思想と個人主義」や「人権思想の終焉」で語りましたが、民権というものは、国家のような社会共同体が決め、そのメンバーに保障する諸権利のことを意味します。これに対して、人権というものは、自分たちが信じている諸権利が、国境や時代を越えて人類普遍に有効な権利である、と考えるところにあります。つまり、人権の特徴はそれが「人類普遍の原理」(日本国憲法前文)であり「永久」(日本国憲法第11条)に有効であることです。

そういうわけで、「人類普遍の原理に従いつつ一つの社会のアイデンティティーを生かしていこうというときに、普遍そのものが余計なお世話だという立場はよくない」と樋口氏は語られるのですが、わたしは、一体、ある特定の時代の、ある特定の人物たちが決定したことが、地球上のあらゆる民族の社会に有効なだけでなく、未来のすべての世代の人々の社会にも有効である、と考える彼らの根拠はなにか、と疑問を投げかけるのです。(くわしくは「和の思想と個人主義」や「人権思想と日本」をどうぞご覧下さい。)


日本国憲法と合衆国憲法

ところで、民権と人権の違いに関して、日本人が知っておくべき重要な事実のひとつは、アメリカ人が日本人のために作った日本国憲法には人権思想があるけれど、アメリカ人が自分たちのために作った合衆国憲法には人権思想がないことです。合衆国憲法にあるのは民権の保障だけで、人権思想に関連する言葉は完全に欠如しています。それは、みごとと言えるほど徹底しています、なぜ、合衆国憲法には人権思想がないのか。合衆国憲法に権利の章典を加えたのは、ジェームズ・マディソンの憲法修正提案によったのですが、彼は、合衆国の建国の父と呼ばれる人々の中で最も知的で慎重な政治思想家だったのです。彼は、人権思想が、ある特殊な宗教思想であり、憲法の政教分離の原則に抵触することを知っていたのです。

では、なぜアメリカ人が日本人のために作った日本国憲法には人権思想があるのか。憲法前文は、その日本語訳では、「日本国民は‥‥を決意し、‥‥宣言し、この憲法を確定する」となっているが、原文の英語では We, the Japanese people, ... determined that ..., do proclaim... establish this Constitution... となっている(「マッカーサー草案」参照)。日本人でないアメリカ人がいかに、We, the Japanese people... などと大嘘を言うことができたのか。彼らは、いかなる良心をもって、他国の人民の憲法を作ることができたのか。その回答がわたしの考えによれば、「人類普遍の原理」という名の人権思想だったのです。人類普遍の原理という神の言葉によって、アメリカ人草案者たちは彼らの良心を乗り越えることができたのです。人類普遍の原理なら、誰が誰の法律を作るかというようなことは、ほとんど意味のないことだからです。日本国憲法のあちこちに散らばっている人権思想は、アメリカ人草案者たちの宗教的信条が、形をとって現れたものである、と思われます。例えば、人権宣言の最高文書として米国において賛美されている、かの有名な独立宣言の

我々は、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、創造主によって、誰も奪うことのできない生来の権利を与えられ、その中には生命、自由、および幸福の追求が含まれることを信ずる
というトーマス・ジェファソンの言葉を、多少姿を変えた形で、日本国憲法の第13条に、わたしたちが発見することができるのは、まさにそのことを物語っていると言えるでしょう。


人権と米国の外交政策

現在でもアメリカにおいては、例えば黒人の権利のような国内における権利の問題はすべて、民権 Civil Rights として対処されます。人権 Human Rights が使用されるのは、外交政策のなかだけです。具体的には、他国の内政に干渉するときにのみ、アメリカはいつでも「人類普遍の原理」である人権思想を持ち出してくるのです。特に、ジミー・カーター元大統領は、最もキリスト教信仰の篤い大統領の一人として有名ですが、「他国の人権問題に無関心ではいられない」と言って、就任期間中、彼が人権を米国の外交政策の中心においたことは、決して偶然ではなかったのです。

このように、アメリカでは、民権 Civil Rights と人権 Human Rights が混乱することなど、絶対にあり得ません。言葉が違い、意味が違い、使用範囲が全く違うからです。

            
    ┌───────────────┐       ┌─────────────┐
    │外交政策(独立戦争・内政干渉)│       │    合衆国憲法    │
  ┌─┴───────────────┴─┐  ┌──┴─────────────┴──┐
  │   人権思想(人類普遍の原理)   │  │     主権在民・民権尊重     │ 
  └───────────────────┘  └───────────────────┘
                        (人権とか人類普遍の原理等に関する言及は皆無)
この観点から言っても、日本国憲法が人権思想の影響を受けている事態がよく理解できます。米国にとって日本国憲法はひとつの外交文書にすぎないからです。他国の基本的政治体制を決定するという究極的内政干渉です。


「基本的人権」の問題

最後に、「基本的人権」について少し、わたしの意見をのべてみたいと思います。米国においてはこれほど明確に区別されている人権と民権が、日本においては絶望的に混乱している理由については、すでに述べましたが、この混乱を倍増しているのが「基本的人権」という言葉です。というのは、「基本的人権」という言葉は、ある時は民権 Civil Rights の意味に使われたり、ある時は人権 Human Rights の意味に使われたりして、もっとも意味不明の言葉の一つとなっているからです。しかも「基本的人権」という言葉は、人権には、基本的な権利と基本的でない権利とがあることを前提としていますが、何と何が「基本的な」権利なのか、客観的に決定しているわけでもないのですから、さらに大きな混乱の原因となります。例えば、米国の憲法は基本的人権の一つとして

よく規律された民兵は自由な州の安全にとって必要であるから、武器を保持し携帯する人民の権利は侵害されてはならない(アメリカ合衆国憲法、修正2条)
と規定していますが、米国においては武器を保持し携帯することが人民の「基本的人権」として、憲法の権利の章典によって保障されています。このような権利を「基本的人権」のうちに数える日本人が何人いるでしょうか。

わたしは、このような、人権、民権、基本的人権、などにまつわる混乱を避けるために、Civil Rights (Rights of the People) を指すときは必ず「民権」を使用し、Human Rights を指すときは必ず「人権」を使用し、「基本的人権」の使用はできるだけ避けるのが一番よいと考えています。少なくとも、本サイトの諸論文においては、以上の意味において、人権および民権という言葉を使用しています。