佐倉哲エッセイ集

「日の丸」と「君が代」

佐倉 哲


最近、ある高等学校の校長が、卒業式に「君が代」を歌うべきかどうかという問題で、県の校長会議と日教組との板挟みになり、自殺するという事件が起こりました。この事件について、わたしは、詳しいことは知りませんが、読者の方から、「日の丸」や「君が代」についてわたしがどのように考えているか知りたい、というご質問のお便りをいただきました。

1999年3月28日、5月3日更新



佐倉さまはアメリカの事情も詳しいと思いますので、どのように感じるか?お聞かせ願えれば幸いです。私は、強制されて、「君が代」を歌うなんていうのは、まっぴらです。(河野さんのお便り
愛国主義(patriotism)という言葉は日本では禁句です。愛国主義者は日本では狂人扱いされます。しかし、アメリカでは愛国主義者であることは、たとえば、大統領選挙などで得票に結びつく重要な要素です。そのため、国歌や国旗に対する態度は、日本とアメリカでは、まったく違います。つまり、アメリカ人は、日本人と違って、国歌や国旗が大好きです。

アメリカ人は、まるで、みんな愛国主義者のように見えます。アメリカ人は、機会あるごとに国歌を斉唱したり、国歌を掲揚します。たとえば、野球を観戦しにいけば、野球のすべての試合はシーズンを通して全試合、選手も観客もみんなたちあがり、国旗(星条旗)掲揚し、合衆国国歌を斉唱することよって始まります。これは野球だけに限らず、スポーツだけに限りません。人類(アメリカ人)がはじめて月に着いたとき、一番最初に何をしたかご存じでしょうか。月に国旗(星条旗)を立てたのです! それが月面における人類(アメリカ人)の最初の行為でした。

わたしの住んでいる町には公立の小学校がいくつかあります。毎朝、子供たちは各クラスで手を胸に当てて教室にある国旗の前で、国歌を歌わされます。毎朝です! 知り合いの5年生のS君に聞くと、歌わないと先生に注意され、とても歌わずに済ませる雰囲気ではないのだそうです。日教組のひとたちがアメリカで一年でも生活すれば、国歌や国旗に関するかれらの考え方はひっくり返るだろうと思います。

わたしはいままでとくに「日の丸」や「君が代」に関して深く考えたことはありませんが、以下は、わたしのいくつかの思いつきです。「日の丸」や「君が代」に反対する人があることは知っていますが、何故かれらは反対するのか、その論理的根拠をわたしはくわしく調べたわけではありませんので、彼らの立場に関するわたしの理解は、単にわたしの受けた印象ぐらいのものでしかありません。誤解があるかもしれませんが、とにかく、この問題に関する論議がスタートすることをねがって、わたしの考えるところを率直に述べてみたいと思います。

(1)国際交流における国家のシンボルとしての国歌と国旗

まず、国旗や国歌は、国際社会で一般に認められている国家の象徴であり、国際的な交流(たとえば、オリンピックなどの国際的祭典、国賓の歓迎など)にしばしば利用されており、それ自体「悪い」ものではなく、相手国への尊敬を形式的に表現するのに(したがって国際交流のために)便利なシンボルであり、時には必用なもの(船舶などでは所属国家を他に知らせるエチケット)だと思います。世界に日本しか存在しないとか、日本の外交方針が鎖国であるなら、国旗や国歌は無視してよいと思いますが、国際社会の一員として諸外国とつき合うつもりなら、現在の国際社会の慣例となっている、自国や他国の国旗と国歌については、義務教育で教えるべきだと思います。

(2)「君が代」拒否と護憲運動の矛盾

「君が代」は、その歌の内容に天皇の世が永く続くことを願っている、という点において、天皇制を認めない一部の人々には、受け入れることのできないものであるかもしれません。しかし、現日本憲法は反天皇主義ではなく、むしろ、「国民統合の象徴(第一条)」としての象徴天皇制なのですから、天皇の世が永く続くことを願う歌を国歌とすることは、現憲法の精神に反するものではありません。

わたしの見るところでは、「君が代」に反対する人々(日教組・左翼)は、同時に、現日本憲法擁護の立場であり、したがって、彼らの主張は論理的に矛盾しています。現日本憲法擁護の立場とは、とりもなおさず象徴天皇制擁護の立場であり、現日本憲法を永遠に変えたくないと願うことは、天皇制が永遠に続くことを願うことです。天皇制が永遠に続くことを願うというのが、まさに「君が代」で歌われている内容です。天皇の世が永く続くことを願う歌(君が代)は拒否するが、実際の行動においては、天皇の世が永く続く努力をする(現日本憲法擁護)、というのでは、論理に一貫性がありません。正々堂々と、天皇制を廃止するために憲法を改正する(あるい新しく作る) -- そのために国民の賛同を得る、という方法が、「君が代」を歌わないための正道だろうと思います。

(3)シンボルとその意味付け

「君が代」は言葉であるためにそれ自体の中に意味(天皇の世が永く続くことを願う)がありますが、「日の丸」は物であるためそのシンボルの意味は、物の中ではなく、それを意味付けするわたしたち人間の意思にあると考えられます。

わたしの見るところでは、「日の丸」に反対する人々は、「日の丸」を日本の象徴としてではなく、国粋主義あるいは軍国主義の象徴として見ているのでしょう。しかし、たとえ国粋主義者や軍国主義者が「日の丸」をそのように意味づけているとしても、「日の丸」自体にそのような意味(国粋主義や軍国主義)はないのですから、「日の丸」自体に反対する理由にはなりません。一般の日本人は、わたしも含めて、単純に、「日の丸」は「日の本」の「日=太陽」を表現していて、日本のシンボルである、ぐらいにしか意味付けしていないのではないでしょうか。それは「日本」という言葉と同じような意味です。

ひるがえって、「君が代」の意味付けについて考えてみるに、「君」とは「国家の主権者」を意味すると考えられます。この歌が国歌と認められるようになったときは、「国家の主権者=天皇」という公式が当然だったのでしょう。しかし、現代は、国家の主権者は国民ですから、「君が代」の「君」は国民であり、この歌は国民の永遠の繁栄を願う歌である、と意味付けできないこともありません。

実際、もともと「君が代」と同じ意味を持つ「万歳」は、現在では、天皇抜きで、個人や会社や学校や町や村など、何にでも適用されています。「万歳」を三唱するとき、天皇を思い浮かべる人がいないように、「キイ〜ミイ〜ガア〜ヨオ〜ワア〜」と歌っているとき、「キミ=天皇」というふうに、天皇を思い浮かべる人など、今日(極左と極右の一部を除いて)誰もいないと思います。すでに「万歳」から皇帝や天皇が脱落しているように、「君が代」から天皇は実質的にすでに脱落してしまっていると思います。

(4)国旗かかげる目的

国粋主義者や軍国主義者が国旗を掲揚するとき、国家(天皇)への忠誠を表現するのでしょう。しかし、国旗掲揚には、その他いろいろな意味があります。船舶などで国旗を示すのは、所属国家を他船にしらせる、国際関係におけるエチケットと考えられます。オリンピックやさまざまな国際試合(ボクシングの世界チャンピオン戦など)では参加者(の国)を「歓迎する」意味であり、また、「勝者(の国)を讃える」意味で使われます。正月その他の祝日などに掲揚されるときは、まさに、「祝い」の気持ちを表現するためでしょう。アメリカでは祝日には至る所で国旗が掲げられます。サッカーのワールドカップでファンが日の丸を振るのは、もちろん、「日本チーム、頑張れ!」の意味でしょう。

(5)卒業式

以上、国歌や国旗についてすこし考えてきましたが、それを基にして、卒業式における、国旗の掲揚や国歌斉唱の意味を考えてみます。

現在卒業式で行われているような形での国旗や国歌の使い方は、上記のどれにもうまくあてはまらないように思われます。わたしの想像では、おそらく、ただ以前からやってきた(とくに戦前戦後の国家主義的教育)慣習を、あまり深く考えもせず、ただ、今までやってきたから、という理由だけで形式的に続行しているだけだろうと思います。

はなはだ個人的な意見ですが、卒業式における国旗や国歌の使用がわたしに納得できる唯一のものは、義務教育過程の終了を祝うためになされるものだけです。それだけが国家的祝祭にふさわしいものだと思われるからです。人間の社会というものには古代から現代に至るまで、子どもが大人の仲間入りするイニシエーションの儀式があります。少し前の日本なら侍の元服がありました。義務教育とは子どもが社会で自立できる最低限の知識と能力を与える訓練期間であり、その過程を終了するということには、国家的レベルにおいて、卒業する子どもたちを祝うに十分な意義があるようにおもわれます。現代の義務教育のシステムをそのまま認めるというわけではもちろんありませんが、おおいに日の丸を振って祝ってもよいのではないかと思います。

高校や大学の卒業式における国旗や国歌の使用は、一般に、ふさわしくないと思われます。高校や大学の卒業は個人的な選択の問題であり、国家的レベルの意義は皆無であると思えるからです。

(6)強制

私は、強制されて、「君が代」を歌うなんていうのは、まっぴらです。・・・
強制というものは、「歌え」という(委員会)側の強制も、「歌うな」という(日教組側の)強制も、どちらも同じように、いやなものです。歌いたいものは歌いたくないものを強制せず、歌いたくないものは歌いたいものを強制しない、その方法を見つけて欲しいものです。

佐倉 哲