佐倉哲エッセイ集

いじめ自殺の心

--- なぜ彼らは自殺を選んだのか ---

佐倉 哲


わたしの「いじめ自殺、悲劇の英雄か」に関して、埼玉県所沢市の作田さんから「全て違います」 という反論をいただきました。作田さんの反論は大変重要なものと思われるので、以下に作田さん の反論の全文とそれに対するわたしの応答を載せました。



作田さんの反論

全て違います。

マスコミが報道するから自殺が増えるのではなく、自殺が増えるからマスコミが 報道するのです。どこをどうつついてもこれ以上の結論は出ようがありません。

子どもが自殺するのは「自殺以外に解決の方法があるにもかかわらず」 自殺するのではなく、「自殺以外に解決の方法がないから」自殺するのです。 そもそも自殺した当人にとって「他の解決の方法」が本当にあるのであれば、 迷わずそれを選択するというのが自然と言うものです。

 それと、くだんの文面からは社会の犯罪が根絶できない以上、いじめだって なくならないのだから、いじめられっ子は現実を甘んじて受けよとも読みとれ ますが、いかがでしょうか。

まあ現実としていじめがなくならないと言うのであれば、今後ますます子どもの 自殺は増え、自殺自体にニュースバリューがある以上マスコミはそれを報道せざるを 得ません。(なぜって自由主義経済の原則からすれば、それが当然だからです。) そして海外の人々は、日本という国はいじめと自殺が絶えない国という認識を 持っていくことになるでしょう。 最後に、私は自殺と言う手段は否定しません。

埼玉県 所沢市 作田



作田さんの反論に応えて


いじめ自殺とマスコミ報道

作田さんの考え方が普通なのです。

いじめ自殺についての過去数年のマスコミの論調はほとんど例外なく、作田さんのような考え方と同類のものでした。すなわち、(1)いじめ自殺はいじめが原因で行われたのだから、これを解決するにはまず、いじめをなくさねばならない。先生は何をしているのだ。学校はもっと真剣にいじめに取り組まなければならない。(2)悪いのはいじめる側であって、いじめられる弱いものを非難するのは筋違いである。いじめられるものは同情をしてくれる相手をこそ必要としているのであり、いじめられた上に、さらに「いじめられる側も悪い」などと非難するのは言語同断である。さらに、もう一つ加えれば、(3)いじめの犠牲者となった子供たちの死を無駄にしてはいけない、この悲惨な事実を教訓として、さらにいっそうの努力をしていじめをなくさねばならない。等々。だいたい、このような意見が圧倒的にマスコミを支配してきたのです。

ところが、マスコミの意図に反して、このような主張がなされればなされるほど、いじめ自殺は増えていったのです。わたしは「マスコミが報道するから自殺が増える」とは主張していません。そうではなくて、いじめ自殺が後を絶たないのは今までのような報道の仕方が影響しているのではないか、と疑問を投げかけたのです。つまり、上記のような報道の仕方(1〜3)が、マスコミの意図とは逆に、結果的に、いじめを理由に自殺する子供たちが、自己を「悲劇の英雄」と化する手助けをしているのではないかと、マスコミに自己吟味を促したのです。もしかしたら、マスコミは自殺した子供たちに利用されたかもしれないからです。


いじめ自殺の原因

いじめが自殺の原因ではなく契機にすぎないことは、いじめられた者が必ずしも自殺をするとは限らないという事実から、はっきり分かります。もし、いじめられれば必ず自殺するというのならば、いじめと自殺との関係は、必然的因果関係にあると言えます。しかし、実際は、いじめられても自殺をしない者の方が圧倒的に大多数なのです。明らかに、自殺はいじめの必然的結果ではないのです。いじめ自殺という結果が生じるには、「いじめ+アルファ」の原因が必要なのです。いじめだけでは自殺の結果は生まれてこないのです。そしてこの「+アルファ」にあたるところが、自殺者が自殺行為に与えるあるポジティブな意味である、というのがわたしの主張なのです。

それは何故かと言えば、人は単なる「逃避の場」のような消極的な理由で死を選ぶことはないからです。自殺に対する何らかのポジティブな思いがなければ自殺することはないのです。「苦しくて苦しくてたまらない、もう死にたい」とだけ考える人は結局自殺をしていません。それに比べて、自己の自殺に何らかの「意味」を見いだす人だけが、苦しみの大小にほとんど関係なく、自殺をしているのです。逃げ場のない逃避なら、いかなる余裕もなく消え去って行ったはずです。わざわざ、他人に分かるような仕方で自殺し、用意周到に遺書など書き残したり、自分の死を「犠牲」だなどと解釈して死ぬのは、自殺を計画的に理性的に積極的に利用しているからです。自殺の当事者は、明らかに、自殺という行為に単なる逃避以上の「意味」を与えているのです。いじめという苦しみは自殺への契機とはなっても、原因にはなりません。それは最後の線を越えさせる力は持っていません。その力を持っているのは自殺者自身が自殺行為に与える、あるポジティブな意味なのです。それこそが彼らを自殺行為へと踏み切らせるのです。他の動物と違って人間だけが自殺をするのは、この「意味づけ」という行為を人間がするからです。また、どんなにいじめられても、小学生低学年の子供たちが自殺することがないのは、彼らが「意味付け」という行為をする能力をまだもたないからです。作田さんは、その反論のなかで、ぽつんと「最後に、私は自殺と言う手段は否定しません」と、もらされていますが、それは、自殺行為がある目的を達成するために意味をもっていることを認められているからです。自殺はそれが実行されるためには、ポジティブな意味を持たさねばなりません。

自殺に与えるポジティブな意味づけの最も典型的な例は犠牲です。例えば、太平洋戦争末期の神風特攻隊やキリスト教の殉教に見られるような、「国のため」あるいは「神のため」に犠牲死を志願する行為です。いじめ自殺の場合にも、この「犠牲としての自殺」の考え方がみられます。「わたしが犠牲になります」と、ある自殺した少年の遺書には書かれています。自殺によって、いじめという悪に社会の注目を集めさせ、いじめ仲間やそれを許す学校制度を糾弾し、犠牲の悲惨さによって、社会の同情を一身に集め、よって、社会がいじめをなくそうと動き出す契機となる悲劇のヒーローとなること、それが、いじめ自殺者が自己の自殺行為に与えたポジティブな意味付けです。そして、この悲劇の悲劇性を成立させるために、すべての悲劇がそうであるように、本人の意思ではどうにもならない外的力によって悲惨な結末にいたらされた、という解釈が必ず持ち込まれます。そういう悲劇の脚本が彼らの心の中に描かれ、それを演じてしまった、というのがいじめ自殺の真相です。

しかも、その悲劇の脚本を演じたのは、自殺当事者だけでなく、マスコミや学校もその脚本通りに踊らされたのです。いじめ自殺が社会あるいはマスコミによって、脚本通りに、大きく取り上げられる、という予測の上にこそ、「社会的意義を持った犠牲」といういじめ自殺の脚本が、また成り立っているからです。


マスコミの罪

繰り返しますが、わたしのマスコミ批判は、「マスコミがいじめ自殺を報道するから自殺が増える」というようなものではありません。いじめ自殺に社会が騒ぎ、マスコミが報道するのは当然のことです。わたしの指摘するマスコミの罪とは、彼らが事実を報道しなかったところにあるのです。彼らが報道したものは、いじめを理由に自殺した者が描いた脚本にすぎないのです。つまり、自殺はいじめの必然的結果であったという自殺者の個人的主観的な思い込みにすぎないものを、マスコミは無批判的に、いじめがあるから自殺が起きるのだという普遍的客観的事実であるかのように報道したことであり、この前提の上に、自殺をなくすためには先ずいじめをなくさねばならない、と繰り返し繰り返し主張することによって、いじめと自殺が必然的因果関係で結ばれているという思い込みをさらに助長させたことです。いじめは自殺の原因ではなく契機にすぎないことを見抜くことのできない知的怠慢。いじめられても自殺しない子供が圧倒的に大多数であるという事実の無視。自分たちの報道が自殺当事者に利用されていることに気づかない無神経さ。それらがマスコミの罪です。


どうすべきか

それでは、どうしたらよいのでしょうか。マスコミの報道に関しては、基礎的なことですが、事実だけを報道することに徹することでしょう。「いじめられたから自殺した」というのは事実報告ではないのですから。「いじめられたから、自殺以外に対応の仕方がない、あるいは自殺が一番良い対応の仕方である、と思い込んで自殺した」というのが事実報告なのです。この二つは全く性質の違う報道なのです。さらに、いじめだけに注目するのではなく、自殺を決意させた「+アルファ」の部分に解明の光をあてることに努力すべきだと思います。そして、いうまでもなく、いじめにもかかわらず自殺しない子供が圧倒的に大多数であるというより大きな範囲の事実にたいする視点を決して忘れることなくいじめ自殺の問題を報道することでしょう。

具体的な、いじめ自殺対策に関しても同様の事が言えると思います。つまり、一番大切なことは、いじめと自殺を一直線に必然的因果関係で結ぶことをやめて、それらを明確に区別して、別々な問題として取り込むことです。自殺を生じても生じなくても、いじめは、社会における犯罪と同じように、根気強く対応しなければならない、いわば慢性の問題であるけれど、自殺は必然性のなかった行為であるだけでなく、取り返しのつかない行為でもあるからです。いじめの増大と自殺の増大は全く比例していません。いじめは昔からあったし、これからもあるでしょう。しかし、いじめを理由に自殺するという事態はここ数年の特殊現象です。だから、たとえいじめが増加したとしても、いじめ自殺は減少させることが可能なのです。しかも、自殺が取り返しがつかないという意味において、いじめそのものの解決よりも、はるかに緊急解決を要するものなのです。「先ず、いじめを根絶して」などと言っているわけにはいかないのです。

以上のようなわたしの分析が正しければ、いじめ自殺対策はそんなに困難な仕事ではないのです。いじめと自殺の間には必然的因果関係はない、という認識を徹底するだけで、いじめ自殺は激減するはずです。何故かと言えば、いじめと自殺の間には必然的因果関係がないという事が一般に理解されるようになれば、いじめ自殺の悲劇性が薄れるからです。つまり、自分の意志ではどうにもならなかったというような筋の脚本が、自殺を考える当事者の心の中に描けなくなるからです。そして悲劇性がなくなれば、いじめ自殺の価値がなくなり、いじめを理由に自殺することが馬鹿らしくなるからです。


最後に

壁にボールを投げつけると、ボールがどのように跳ね返ってくるかはかなり正確に予測することが出来ます。強く投げれば、強く返ってくるし弱く投げれば弱く返ってくる。上向きに投げれば、予想した角度で上向きに跳ね返り、下向きに投げつければ、地面にバウンスして返ってくる。つまり、壁がどのようにボールを跳ね返すかは、ボールを投げる者がコントロールする事が出来ます。ところが、壁ではなくて、人間に対してボールを投げつけると相手がどのようにボールを投げ返してくるかは、予測がつかない。こちらの投げ方に関係なく相手は投げ返してくるからです。あるいは投げ返さないで無視されるかもしれない。壁と違って、人間には独立した意志が働いているからです。いじめというボールを投げつけられて、それにいかに対応するかは、一人一人の解釈と意志によって異なっています。だから、自殺をする者もいれば自殺をしない者もいるのです。壁を相手にしたときの投げつけるボールと跳ね返るボールとの間には必然的因果関係があります。しかし、人間を相手にしたときの投げつけるボールと投げ返されるボールとの間には必然的因果関係ないのです。何故なら、投げ返されるボールは、ボールを投げつけられた人の心の中で起こる解釈と意志に作用されるからです。いじめ自殺の原因は「いじめ+アルファ」であるとわたしがいったときの、「+アルファ」とはまさに、いじめられる者の心の中の解釈と意志のことなのです。ここに究明の光を当てねばならないのです。