佐倉哲エッセイ集

国家の物語

佐倉 哲


「一般論を言えば、国家とくに近代国家という集団は人類に多大の厄災をもたらしており、国家というものが存在するに値するかどうか疑わしく、国家の廃絶は人類の理想と言えるが、現代社会においては、国家に所属しないと個人の存在が危うくなるのが実状であるから、いろいろ問題はあるにせよ、一応国家の存在を前提として話を進めよう。実際、日本列島に住む、今のところは日本人と呼ばれている人類の一部が日本という国家を失ったとすれば、他の国に吸収されてそのなかの少数民族として差別されるか、あるいは隔離されたリザーベーションに住むいわゆる未開民族のように、他の国家の、決して当てにならない善意に頼って保護されるか、あるいはかつてのユダヤ人のようにあちこち国家を邪魔にされながら渡り歩くか、あるいは消滅してしまうしかないわけで、アメリカ、ソ連、中国などの住民も一緒にその国家を捨ててくれるのでない限り、日本国家の放棄も問題にならないであろう。

日本という国家を存続させるとすれば、この集団を集団として支える物語が必要である。…」

(岸田秀「国家の物語と天皇制」より)

1998年1月1日


心理学者の岸田秀氏は、フロイドの精神分析の方法を、国家という共同体の分析に応用して、たいへん興味深い国家論を展開しています。それによれば、個人の存在が「自我」という物語に依存しなければならないように、国家というものも、それ自身の「物語」をもつことがその存在のために「必要不可欠」である、と主張しています。「国家の物語と天皇制」(『吹き寄せ雑文集』文春文庫)という一文のなかで、氏は近代日本における二つの日本国家の物語として、「大日本帝国の物語」と「戦後民主主義という物語」を検討し、そのどちらも欠陥が多く、国家を支えるための物語の条件を満たすには十分でないと判断を下されます。

わたしは、すでにあちこちで主張しているように、日本という共同体の運営にもっとも適切な政治思想は、十七条憲法の「和の思想」であると考えています。本論においてわたしは、「和の思想」が、「大日本帝国の物語」や「戦後民主主義という物語」に比べて、日本にとってはるかにすぐれた国家の物語となりうることを指摘したいと思います。


共同幻想

岸田氏は、この「国家の物語」のことを、吉本隆明氏の概念を借りて、「共同幻想」とも表現していますが、「物語」とか「幻想」という言葉が示すように、それは、現実あるいは実体とは反対のこと、つまり一種の虚構あるいは人工的なものであることを意味しています。しかし、それは虚構あるいは人工ではあるけれど、それなくして現実の個人も個人が所属する共同体も存在することのできない、ひとつの「必要不可欠な幻想」であると考えられています。くわしくは、氏の代表作『ものぐさ心理学』の「国家論」を見ていただけねばなりませんが、それは、次のような氏の言葉に集約されるでしょう。

文化は矛盾する二つの要請を同時に満たすものでなければならない。一つは、曲がりなりにも現実の個体保存または種族保存を保証する形式を提供するものでなければならない。もう一つは、できる限り各人の私的幻想を吸収し、共同化し、それに満足を与えるものでなければならない。文化は、前者の意味において、本来の現実の代用品、つまり作為された社会的現実、疑似現実であり、後者の意味において共同幻想(集団幻想といってもいいが)である。かつては本能に支えられていたつながり(男と女、親と子)は、いまや共同幻想によって支えられることになった…。

集団と個人は共同幻想を介してつながっている。集団を支えているのも、個人を支えているのも共同幻想である。集団の共同幻想は、個人の私的幻想の共同化としてしか成立し得ず、個人はその私的幻想を共同化することによってしか個人となり得ない。

しかし、なぜ、個人も共同体も「幻想」によって支えられねばならないのでしょうか。ここには、フロイドの精神分析学の人間観が横たわっています。それは、わたしの理解するところによると、本能に従うことがそのまま自己保存の方法でもあるような動物と違って、人間は「現実原則に従う自我と快感原則に従うエスとの対立」あるいは分裂状態にあるところにその根本的原因があります。人間は、自己の快感原則にそのまま従っていては、まわりとの絶え間ない衝突を生み出して、自己や種族の保存どころか、自己や種族の破滅に陥る(「人間は本能が壊れている」)ため、むしろ、それ(快感原則に従うエス)を抑圧し、環境との折り合いをつける、自己や種族を保存をするための「自我」が形成される。この自我が「共同幻想」である。この自我は通常、母親の自我をコピーすること(identification)によって幼児期に形成される。つまり、個人は人間社会という環境のなかにおける自己保存方法を、(通常)母親から得、また、社会はその母親を通して、共同社会保存方法として、個人が守るべき行動規約をその母親(の持つ共同幻想)を通して生まれてくる個人に付与する。こういうわけで、「自我すわなち共同幻想」が個人にとっても共同体にとってもその存在を支える重要なものとなるわけです。

ところで、この精神分析学によれば、自我によって抑圧されたエス(快感原則に従う衝動、私的幻想)は決して消滅してしまうようなものではなく、ただ意識下に押しやられただけであり、常に様々な形で自己の衝動を実現しようとします。したがって、人間の共同体は大なり小なり、メンバーの私的幻想を出来るだけ救いあげるような「共同幻想」をつくるわけですが、かならずしも、すべてのメンバーに対してそれが成功するとは限りません。そこで、「別の共同幻想」「別の物語」をひっさげて、さまざまな革命家や共同体内集団が生まれてくるわけです。精神分裂症者は「その私的幻想のほとんどを共同化し得なかった者」であると考えられます。このように、個人と共同体は、自我という共同幻想によって、相互依存と保存が保たれているだけでなく、個人のエスという意識下の私的幻想によって、個人とその共同体は、絶えず、緊張をうちにはらんだ関係を持ち続けるものでもあります。

以上が、わたしが理解する岸田氏の共同幻想論のおおまかな説明ですが、次に、これを国家という共同体に焦点をあてて考察します。


国家は必要か

人間は一人ではもちろん生存を続けることはできないわけで、個体保存と種族保存のためには、共同体が必要となります。しかし、国家という共同体が果たして人類の生存に必要かどうかはきわめて疑わしく、岸田氏の言うように「国家の廃絶は人類の理想」とも考えられます。たとえば、日本の歴史を見ても、縄文時代という国家のなかった時代に、人々ははるかに平和な生活をしていたようです。

しかしまた、国家を造った人々と国家を造らなかった人々が、何らかの理由で対立抗争をするようになると、国家を造らなかった人々は「いつでも戦えば負ける」(吉本隆明、『日本人は思想したか』)のも明白な歴史的事実で、それもまた、西欧の植民地主義や日本のアイヌの歴史などに示されています。したがって、岸田氏の言うように、「アメリカ、ソ連、中国などの住民も一緒にその国家を捨ててくれるのでない限り、日本国家の放棄も問題にならないであろう」と思われます。

つまり、国家は人類にとって必ずしも必要なものではないけれど、現実問題として、いますぐ国家を放棄して個人や家族が生存してゆくことはきわめて困難なことのように思われます。


国家の物語

しかし、国家はそれが存在するためには様々なものを必要とします。岸田氏の国家論の最大の特徴は、国家は(国家だけではありませんが)何よりもまず「物語」を必要とするということだと思います。すでに指摘した共同幻想論がその根拠です。国家はいうまでもなくそのメンバーである国民によって存続させられねばなりませんが、そのためには、国民が、なぜ国家は存在すべきか、国家はいかなるものであるべきか、などという「国家の物語」を信じる必要があります。

岸田氏によれば、国家を支えるための物語の必要条件は次のようなものです。

(イ)国家のアイデンティティの連続性を保証するものであること。
(ロ)国家の構成メンバーである国民の心情をできるかぎり自覚的に汲み上げていること。
(ハ)国民の誇り、価値などを支えるものであること。
(ニ)それ自体としてできるかぎり内部的に論理的首尾一貫性があること。
(ホ)できるかぎり他の諸国に承認されるものであること
氏の解説によれば、(イ)は本質的なもの。(ロ)はそれがなければ国民に「すばらしい物語」として信じられることがなく、役に立たない。(ハ)と(ホ)は一般に矛盾しがちであるが、他国に承認されない自分だけの物語を信じるのは誇大妄想であり、結局破滅に陥るであろうが、国民の誇りや価値を支えるものでなければ、国民に相手にされない。(ニ)は当然で、一貫していなければ「物語」ではない、ということになります。

この条件に沿って、近代日本が経験した二つの物語「大日本帝国の物語」と「戦後民主主義の物語」が評価されます。


大日本帝国の物語

大日本帝国の物語は、よく知られているように、ペリー率いる米国軍の強制による開国と、それに引き続く西欧列強とのさまざまな不平等条約によって権威を失墜した徳川幕府が、尊皇攘夷の諸藩連合に倒された直後、欧米諸国への屈辱感を内的エネルギーとして生まれた、天皇中心主義と富国強兵をモットーとする国家のイデオロギーであったと考えられます。

この物語りは、昔からあった日本神話をネタに使い、わが国の伝統的幻想である家幻想、血縁幻想を採り入れ(「万世一系の天皇」、「陛下の赤子としての国民」)、同時に、欧米諸国(主としてドイツ)の物語の中の都合のいい要素をコピーし、慌ててつくったにしてはなかなかうまくできた物語であった。それぞれの国家の物語を持っていた欧米諸国に対抗するためには、軍事力がどうの経済力がどうのというよりまず先に、わが国も国家の物語をもたねばならなかったのであって、国家の物語をもってはじめてそれに沿って軍事力も経済力も築くことができるのである。もし、大日本帝国の物語をつくることに失敗していたなら、わが国は、その種の物語をつくらなかった、またはつくれなかった他のアジア諸国と同じように植民地化されていたであろう。(53頁)
しかし、この物語は同時にさまざまな欠陥を持っていた。(ロ)や(ハ)の条件はかなりうまく満たしていたが、(ニ)の点で問題があった。「わが国の伝統的要素と欧米の近代国家の物語から借用した要素とのツギハギ細工の面があり、首尾一貫性にいささか欠けていた」のである。しかし、もっとも「致命的」であったのは、(ホ)の点であった。大日本帝国の物語は国内でしか通用しない誇大妄想体系であり、したがって、それを根拠にした国際関係は、悪くはなっても良くなることはなかった。また(イ)に関しても、一応は日本の伝統に根ざしていることを主張はしていたものの、実際は、数百年のあいだ国民の間ではとっくに忘れ去られていた天皇を担ぎ出して、インスタントにつくられた西欧列強のものまねにすぎなかった。このように、大日本帝国の物語は評価されています。


戦後民主主義の物語

「大日本帝国の物語」は敗戦によって崩壊し、そのあとがまに据えられたのが「戦後民主主義の物語」ですが、岸田氏の評価によると、これは、アメリカによって押しつけられたものであるから、まず(ホ)の点については「申し分なく」、(ニ)の点でも「まずまず」であるけれど、(ハ)の点で「大いに劣っており」、(ロ)の点でも「多くの国民の心情を置き去りにしている」し、とくに、(イ)の点では、

明治維新から敗戦まで、とくに戦争中のわが国の歴史を単に「過誤」とか「愚劣」とか「無謀」とかいって無視するだけで、その当否は別としてそれなりに理由があったことを否定するから、連続性を切断して空白の部分をつくる。これでは国家の物語としては失格である…。

よく言われるように、敗戦前、本土決戦を呼号する「気違いじみた」軍部に対して民衆が反乱を起こして革命政権を樹立し、その政権が連合国と講和して敗戦を迎えたのであれば、戦後民主主義の物語は日本国家の物語としての連続性と正当性を獲得していたであろうが、そうではなかったのだから、この物語が国民に根を下ろしているとは言いがたい…。

民主主義がまだ十分に国民のうちに根付いていないのはまだ教育が足りないからだ、民主主義を徹底させれば根付くようになるというのは、国民を馬鹿にした反民主主義的考え方である。百万遍聞かされたところで、人間が自分の心情を汲み上げていない物語を信じるようになることはない。

と、「戦後民主主義の物語」を評価されます。


和の思想の物語

さて、もし「大日本帝国の物語」も「戦後民主主義の物語」もダメだとすると、いったい日本はどんな物語を持ったらよいのでしょうか。このことについて、岸田氏は「そのような物語を構想するのは筆者の能力をはるかに越える。ただ、先に列挙した諸条件をできるだけ満たすような物語ができることを期待するだけである」と言われますが、実は、その物語りはすでにあるのです。

わたしは、十七条憲法の「和の思想」について考察しながら、岸田氏とは別に、天皇主義戦後民主主義が持つ問題について考えていましたが、結論として、岸田氏と同じように、どちらも否定することになりました。しかし、果たして、「和の思想」は岸田氏が列挙した国家の物語の条件を満たすことができるのでしょうか。以下において、それを考察します。

まず、(イ)の点ですが、「和」という言葉ほど、日本のアイデンティティーを示す言葉は他にありません。わたしたちは、日本食のことを「和食」と呼び、日英辞典のことを「和英辞典」と呼び、最初の日本国家を「大和国」と呼んで、「日本=和」を当然のこととしています。また、わたしたちは、日本における最初の憲法(604年)が「和を以て尊しとなし」たことをよく知っています。そして、現代においても、スポーツからビジネスにいたるまで、「和」を尊重する事実はあらゆるところに発見できます。しかも、もしわたしの仮説が正しければ、「和の思想」は縄文時代の環状部落のムラ国家の「環の思想」にまでさかのぼることにもなります。「和の思想」は、最もすぐれて、日本人のアイデンティティーの連続性を保証するものと思われます。

次に、(ロ)と(ハ)の点ですが、たとえば、「和の社会を失ったら、もう日本はいいところがなくなっちゃうでしょう」(梅原猛『混沌を生き抜く思想』)とさえ語られるように、「和」は多くの日本人の心情や価値観を代表していると思われます。一部では、現代の日本に必要なのは「個の確立」(個人の自由と権利の尊重)であって、旧い「和の伝統」ではない、などという声もありますが、わたしの考えでは、それは「和の思想」の誤解から生まれたものであって、和の思想と「個の確立」と矛盾対立するものではありません。(「和の思想と個人主義」参照)。

次に、(ニ)の点ですが、多くの人には意外に思われるかもしれませんが、和の思想はきわめて論理的に一貫した合理的な政治思想です。十七条憲法にあらわれる和の思想は「和・論・理」の三段階構造を持っていますが、それは、「和」が確立されれば「論議」が可能となり、「論議」が可能となれば国家を治めるための「理」が導き出される、という考え方です(第一条)。この政治思想には、その根底に、人間の価値観の多様性と人間の不完全性の認識があり、そのために、おのれの価値観を絶対化して他人に押しつける独善主義・独裁主義が否定され(第十条)、衆議の必要性が説かれます(第十七条)。それは、単に論理的に一貫しているのみならず、きわめて的確な人間凝視によって支えられている、すぐれた政治思想と思われます。したがって、和の思想は(ニ)の条件をかなり満たしていると考えられます。

しかし、和の思想を「国家の物語」とするとき、ひとつの矛盾が露出します。それは軍隊の問題です。和の思想は、共同体の運営に関して、個人の価値観を他に強制することを禁じて衆議主義の必要性を説きます。しかし、国家を持つということは軍隊を持つということであり、軍隊の手段は強制以外のなにものでもありません。これが和の思想のもつ、おそらく唯一の、内的矛盾ですが、大変重要な矛盾であり、これが解決されなければ、和の思想は「国家の物語」とはなりえないでしょう。

最後に、(ホ)の点ですが、個の相違に対する寛容を説く和の思想を諸外国との外交に実践すれば、一つの明確な基本的姿勢が見えてきます。和の思想とは、まずなによりも、価値観の多様性を認める思想ですから、おのれの文化や価値観を世界に押しつけようとする覇権主義に批判的なものになります。したがって、西欧諸国、とくに、日本にその覇権主義の手先となってもらいたいと考えるアメリカ合衆国の一部には、必ずしも受けがよいとは限らないでしょうが、世界の大多数の国、とくにアジア諸国からは、もっとも歓迎されることになるでしょう。また、アメリカ合衆国についても、アメリカ人は、たとえば、ベトナム戦争の時に見せたように、心の深層ではおのれの覇権主義に愛想を尽かしているところがあるのであって、これも結局、日本が和の国家となることを歓迎するに至ると考えられます。

以上、和の思想は「国家の物語」としての条件をかなりうまく満たしており、とくに、「大日本帝国の物語」や「戦後民主主義の物語」と比較して、はるかにすぐれた「国家の物語」になり得ると思われます。


参考資料

岸田秀『ものぐさ精神分析』(中公文庫) … 岸田秀の代表作品。「国家論」など
岸田秀『続ものぐさ精神分析』(中公文庫)
岸田秀『ふき寄せ雑文集』(文春文庫) … 「国家の物語と天皇制」など
岸田秀、バットラー『黒船幻想』(河出文庫) … 対談
岸田秀『幻想の未来』(河出文庫) … 「対人恐怖と対神恐怖」など
岸田秀『ものぐさ箸やすめ』(文藝春秋)
岸田秀『二十世紀を精神分析する』(文藝春秋)
吉本隆明『共同幻想論』(河出書房新社)
吉本隆明、梅原猛、中沢新一『日本人は思想したか』(新潮社)
梅原猛『混沌を生き抜く思想』(PHP文庫)