佐倉哲エッセイ集

新日本憲法の必要性

--- 十七条憲法と明治憲法と昭和憲法 ---

佐倉 哲


中学校以来の親友であるKは護憲派であり、改憲運動に対して軍国主義の復活を懸念している。わたしは改憲派よりさらにラディカルな新憲法の必要性を説く。これはKにあてたわたしの手紙の一部である。



平和憲法は和の思想の復活

 昭和憲法(日本国憲法)の平和条項に対する、君の熱い思いには僕も共感します。この憲法は、押し付けられた憲法でありながら、それが日本人に受け入れられたのは、この平和条項の故であると思います。多くのアメリカ人や韓国人は、日本人のことを好戦的で冷血な国民だと信じていますが、ほとんどの日本人は、心から平和を望んでいることを自分で知っているから、この憲法の平和条項に特別の好意を抱いているのです。

 これを押し付けたアメリカ進駐軍は、日本が二度と軍事的に強くならないようにするために、反日政策(永久半植民地政策)として、この平和条項を加えたのだけれど、日本人がこれを受け入れた背後には、まったくアメリカ人の意図や思想とは関係のない理由があったのです。それは日本人がもともと、「和を以て尊しとなす」という和の思想として、日本の社会で永いあいだ培ってきた、平和に対する強い思いを持っていたからだと思います。日本人は原則的に、争いで勝つ喜びよりは、譲り合って共存する喜びの方に価値を置いてきたのです。

 日本最古の成文法である十七条憲法は、和を国事の第一の原理として、その第一条に置きました。共同社会を運営してゆくうえで最も大切なのは、争って強いものが生き残ることではなく、理を生み出すための論議を可能とする、和の確立である、としたのです。

 元寇のときは神風が吹いたが、第二次大戦の時には吹かなかった、と言われていますが、僕はやっぱり神風が吹いたのだと思います。戦争に勝つよりはもっと大切な和の思想の復活という大事業を、まったく偶然に、実現したからです。


平和憲法と天皇制

 君は改憲に反対だそうですが、改憲がいつでも軍事主義の復活を意味するとは限らないのではないでしょうか。僕としては、改憲どころか、まったく新しい憲法が必要だと思っています。というのは、昭和憲法は第九条に平和主義を置いていますが、第一条から第八条は天皇制に関するものです。これでは、平和憲法としてまだ十分ではないのです。聖徳太子の十七条憲法のように、平和条項を第一の原理として、それが最も大切な原理であることを明確にしなければならないと思います。そして、天皇制は、第一原理としての平和条項に拘束されるように、再定義されねばなりません。具体的にどういう形をとるかまだ深く考えていませんが、たとえば、天皇 は単に「日本国の象徴」ではなく、「平和を愛する日本国の象徴」というふうに定義して、平和に反する時はその存在理由が失われるように、平和の目的以外には天皇制が存続し得ないように、天皇制が侵略戦争に利用される可能性をゼロにするように、再定義しなければなりません。

 このように、天皇制を平和の原理より下方に置くことは、天皇を愛する右翼の反対するところとなるかもしれませんが、天皇陛下や皇室自体は、世界制覇の王となるよりは平和の使徒であることを心から望まれるだろう、と僕は考えています。なぜなら、権力だけが目的であった数々の西欧歴史上の国王たちと違って、日本では天皇でさえも和の思想に影響されていた、と考えられるからです。たとえば、「和」や「平」がいかにしばしば年号に使われるているかが、このことを示唆していると言えるかもしれません。和銅、天平、承和、仁和、承平、応和、安和、寛和、長和、庚平、庚和、平治、養和、正和、貞和、正平、文和、永和、弘和、元和、天和、亨和、 昭和、平成。また、外交官を目指されていた雅子様が、最終的に皇太子妃となられることを決定された理由のひとつは、親善使節としての皇室の平和外交に意義を見い出されたのだ、とも聞いています。

 実際、絶対権力としての天皇制は、日本の歴史の中ではむしろまれであり、ほとんどいつでも、天皇の権威は豪族や武士の権力闘争に利用されたのではないでしょうか。「天皇制イコール軍国主義」という図式が実現したのは、むしろ最近のことで、欧米の外圧に対抗して、幕末・明治維新のとき即席に作り上げられた、富国強兵のイデオロギーだったわけでしょう。その意味で、軍国主義的天皇主義は、日本が西欧キリスト教文明の征服のイデオロギーをマネて作り上げた、日本式キリスト教だったといえるでしょう。

 軍国主義的天皇主義は輸入品を日本的に粉飾したものに過ぎなかったのです。明治の初期、福沢諭吉はアジア諸国に対しては「西洋人がこれに接するの風に随て処分すべきのみ」だと主張したし、また、井上馨外務卿は「我帝国及び我人民を化して、欧州的新帝国」とする以外に、日本の独立維持の方法はない、と主張したのです。西欧キリスト教文明が「神の名の下に」世界を侵略したように、「天皇の名の下」で同じ様なことをアジア諸国に対して日本がしたのです。

 ノーベル文学賞を得た大江健三郎氏などは、日本が民主主義を取るとすれば、天皇制を廃止しなければならない、と主張しています。これに比べて、井上ひさし氏は「日本国憲法で決めてある以上は象徴天皇制も大切にしよう、そうしないと第九条も大事にできないから」と主張しています。明らかに、大江氏の方が論理的に筋が通っています。しかし、僕が想像するに、護憲派の日本人の多くは井上氏のような、不可解な意見を持っているのではないでしょうか。護憲派の天皇制に対する考え方が、僕には見えてこないのです。「改憲反対・憲法擁護」を叫びながら、憲法の象徴天皇制を心から支持しているわけではないのです。それは、あいまいで、知的に不正直で、偽善的な日本憲法に対する態度です。

 擁護派にしても改憲派にしても、現在の論争のように天皇制の問題を避けて通っていては日本の憲法問題の解決はありえません。欧米に学ぶべできでしょうか。フランスやロシヤでは王制をギロチンでかたずけました。アメリカは王政を無視して、英国から独立しました。英国の王や王女はタレント化し、マスコミのスキャンダルのギロチンに日々掛けられています。日本は天皇制をどうすべきでしょうか。この問題を避けて平和条項だけに関心を持つことは、憲法を支えている基本思想に対する無関心を示しているのであり、それは許され ないでしょう。

 いずれにしても、憲法のある部分には協調しても他の部分は無視するという事態が起るのは、憲法を支えている基本原理に関して無関心だからでしょう。そして、このことが、実は、僕が最も心配している点なのです。


現憲法の基本思想

 井上ひさし氏は憲法学者の樋口陽一氏との対談(『日本憲法を読み直す』講談社)のなかで「憲法は、樋口さんのおっしゃるコンスチチューション、社会の基本構造そのものでしょう。語の意味としても、憲法はその国の『本質をなす』ものでしょう。自分たちが生きて仕事をして、恋をして結婚して、泣いたり笑ったりしているのも、その基本的な構造の上で、つまり、憲法の上でなりたっているはずなのに、われわれ日本人はどうもそのように思っていないところがある」と嘆いていますが、 井上氏は「護憲、護憲」と叫びながら、実は、心の底から象徴天皇制を支持していないのですから、彼自身が憲法を国の本質として受け入れてないのです。

 ここに、昭和憲法の持つ最大の問題があります。憲法を心から受け入れることができないのは、その憲法を支えている基本的な思想の部分で、日本人が価値観を共有していないことを示しているからです。この問題に比べれば、第九条の解釈のあいまいさの問題など、後回しにしても良いくらい小さなものです。極端に言えば、現憲法はその一部にすぎない平和条項だけが突出して支持され、他の部分に何が書かれているか、興味も示さないのが、日本人の憲法観ではないでしょうか。とすれば、その憲法を支えている基本的な思想とはなにか学ぶことも考えることもなく、第九条だけを、反戦などの政争の道具に使っているだけ、と僕には思えるのです。

 樋口氏は、だから、「社会のありようにとって決め手となるような意味を持つ基本価値というものを大事にするという点では」日本が欧米に遅れている、日本人はこの点でダメなんだ、と言われます。井上氏もこれに同調しています。そして、その基本的価値とは「個人の尊重」すなわち人権である、と指摘されます。

樋口
何が日本国憲法のアイデンティティなのかについて、一般的説明では、その三本柱(主権在民、平和主義、人権尊重)というのは正しいのですが、もう一歩突き進めば、三つ束ねる「遡った価値」というものがあって、それは個人の尊重です。(中略)

井上
つまり、日本国憲法の基本的な考え方として、その根本規範は、国民主権、人権尊重、永久平和の三つの原理 であること、さらにこれらの原理にの根底に大原理として「個人の尊厳」というものがあるということですね。

樋口
(中略)日本国憲法もまた(欧米の近代憲法と同じように)そういう人権思想の嫡流を継いでいるんです。

 この対談で指摘されているように、日本国憲法の基本思想は「人権思想」である、という主張は正しいのです。そして、二人が嘆いているように、この憲法の基本思想の上にこそ日本人の日々の生活がなりたっているはずなのに「われわれ日本人はどうもそのように思っていないところがある」というようなことが語られているのです。それも、正確な指摘です。しかし、このあとが僕と彼等の意見が別れるところなのです。彼等は、「だから日本人は遅れている」という結論を出すのですが、僕は、この「人権思想」なるものは西洋に特殊な思想であるから、それは価値観の相違の問題であって、要するに「人権思想は」日本人の心を魅了する力を持たないのである、と考えるのです。

 なぜ、人権思想は日本人の心を魅了する力を持たないのか。それは、日本人がクリスチャンではないからです。1776年のアメリカの独立宣言は「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、創造主によって、なに人も奪うことの出来ない天賦の諸権利を与えられていて、それらは生命、自由、および幸福の追及を含んでいる」と謳っています。すなわち、人権とは「天賦の人権」のことであり、人間を創造し、これらの権利を人間に与えた神の存在を前提としているのです。そういう宗教的土台の上で初めて意味を持つ人権思想が、日本人の心を魅了する力を持たないのは、当然と言えるでしょう。人権思想は、それゆえ、日本人にとっては頭のなかの概念に過ぎず、「そう言えば、どこか教科書にあったなあ」ぐらいのものなのです。日本人の心を打つ力に欠けているのです。それは「日本人は遅れている」とかどうとかの問題ではないのです。


新憲法の必要性

 井上氏は「そこでぼくらの課題は、そういった(西欧)世界の歴史からの贈り物を身体にしみ込ませ、自分の本能にすること。頭だけの理解では、ときには杓子定規になり、ときに教えたがり屋、啓蒙主義者になってしまう」などと、全く不可解なことを言っていますが、本末転倒の極致といえるでしょう。 しかし、日本という国を動かすための基本的指針となるべき憲法を支えている思想がその国民の心を魅了しないということは、その憲法の基本思想が日本人の価値観に沿ったものではないということです。これは国の一大事です。だから、平和主義という大切な原理を復活させたことには意義のある憲法であるけれど、現憲法は改憲などでは解決できない深い問題を抱えているのであるから、平和主義を受け継ぎながら、新しい憲法を作らなければならないのです。すなわち、日本人が共有する価値(平和主義、和の思想)を基本思想にした、日本人の、日本人による、日本人のための憲法が必要なのです。僕は、そう思っています。