佐倉哲エッセイ集

いじめ自殺、悲劇の英雄か

--- なぜいじめ自殺が繰り返されるのか ---

佐倉 哲


これは95年12月12日付けの読売新聞の気流欄に掲載されたものです。



 いじめはそんなに異常な事件だろうか。ちょうど一般社会に犯罪があるように、学校においても子供たちのいじめがあるのではないか。一般社会において犯罪防止に努力することが大切なように、学校においてもいじめが起こらないように努力することは大切ではあろう。しかし、社会の犯罪を根絶できないのに、学校でのいじめだけは根絶しなければならないかのごとく思い込み、それを学校(教師や生徒)に要求することは、学校が社会の一部であり、子供たちは天使ではなく、過ちも犯す人間にすぎないという単純な事実を無視した不合理的要求ではないか。

本当に異常なのは、そして痛ましいのは、いじめそのものより、むしろ、いじめにあった子供が、そのことを理由に自殺を選ぶという事態なのではないか。つまり、自殺はいじめの必然的帰結ではなく、いじめの対応には自殺以外に無限の方法があるにもかかわらず、自殺がそのなかから自主的に選ばれているという現実である。

こうした問題の本質を見つめず、いじめを理由にした自殺が起こるたびに、どうしたらいじめがなくなるか、などと永遠に解決の出ようのない問題にいたずらに時間を費やしているから、自殺が繰り返されるのではないか。

 また、自殺した子供たちやその肉親たちの気持ちを察してでもあろうが、その自殺行為に対する率直な価値評価をまったくせず、その子たちへの同情といじめや制度批判だけで埋め尽くされるマスコミ報道も問題とせねばならない。なぜなら、わたしたちはこうしたマスコミを通して、自殺した子どもたちを悲劇の英雄と化しているかもしれないからである。もしかしたら、まさにそのことゆえに自殺が絶えないのではないか。つまり、社会の同情を一身に集める悲劇の英雄となることを望んで、子供たちは自殺を選んだのではないだろうか。

いじめの対象となったことに関してはその子たちに同情しても、自殺を選んだ行為に対してはもっと率直な批判をぶつける必要があると思う。



なお、本論に関しては埼玉県所沢市の作田さんから「全て違います」という反論をいただきました。作田さんの反論は大変重要なものと思われますので、作田さんの反論の全文とそれに対するわたしの応答を別論「いじめ自殺の心」に載せてあります。