佐倉哲エッセイ集

日本の国際援助(二)

--- 西欧型援助と日本型援助 ---

佐倉 哲


友人Kは、日本の国際援助に関する日経記事に対するわたしの批判に納得がゆかない。そこでわたしは、なぜ西欧型無償援助より「見返り」を期待する日本型有償援助の方が優れているか、についてもっと詳しい説明を試みた。



K君:確かに、欧米ばかり気にしなくてもいいのですが、そうは言っても、「我は我が道を行く」と言っていたのでは、国際的に孤立してしまいます。やはり、ヨーロッパやアメリカの意見に耳を貸さないとまずいでしょう。

ボク:もちろん、欧米や他の諸国の意見を参考にするのはよいことです。他国から学ぶこと、それは日本が遣随史や遣唐史の昔から、日本が実践してきた日本の素晴しい伝統です。それはどんなに反対してもなくなるようなものではないと思います。ところが、福沢諭吉の脱亜入欧主義以来、特に大戦後、何でもよいものは欧米にある、という考え方もまた日本にはあります。すなわち、欧米を<権威>として、欧米の言うことの内容を自分で吟味しないまま、受け入れる姿勢です。それが僕の反対するものです。たとえば、この間の日経の記事です。「欧米諸国からは、環境問題や人権問題への取り組みの遅れを批判している国に経済援助している日本の姿勢を問う動きが出ている」というだけで、記者自身の事実報告も分析も見えません。かつて戦時中、日本の記者は大本営の報告をそのまま国民に流しましたが、同じことを、まだ現在の多くの日本の記者もやっているのだと思います。欧米が、現在の日本の天皇あるいは軍部となっているだけです。

ロシヤ軍がチェチェンでの戦いをはじめたとき、ロシヤの国営テレビはロシヤ軍が反乱軍を完全に抑えたことを報道しましたが、モスクワ独立テレビはロシヤ軍に多くの死傷者が出たことや、反乱軍が勝利したようすを報道しました。それは、独立テレビのジャーナリスト達が、自分の国の政府の報告をそのまま信じるようなことをせず、独自の記者を現地に送って彼ら自身による事実報告をしたからです。その記者のひとりエレーナ・マシュークさんは、こう言っています。「ジャーナリストは戦場に行って、自分の目で見なければなりません」と。

宗教指導者や天皇や軍部や欧米の権威に寄りかかるのではなく、事実と真理だけに頭を下げる。そう決意すれば、必然的に、自分の目で物事を見、自分の頭で物事を考える、そういう姿勢を誰でも持つようになります。「我が道を行く」ために、そうするのではないのです。国際的に孤立するかどうかより、日本の行動が事実と真理を土台にしているかどうか、を心配すべきでしょう。どんなに国際的に賛美されても、誤謬と非真理の上に行われる行動なら、結局、世界のためにも日本のためにもならないのではないでしょうか。


見返りを期待する援助は悪か

K君:日本の援助は、「経済優先」だから困るのです。もっと相手国の立場に立った援助に切り換えるべきだと思います。日本人は損得ばかり計算しすぎます。あなたの言う「感謝されない援助」すなわち「恩を着せない」援助でいいのですが、日本の援助は経済的見返りを計算しすぎます。

ボク相手本位の無償の援助より自己中心の見返りを期待する援助の方が優れた援助の仕方である、という僕の主張は、確かに普通の考え方とは逆です。君が「あなたは少しひねくれています。あなたの意見は論理的ではあるのだけれど、論理に少し無理があります」と言うとき、おそらく僕の意見のこの部分のことを指しているのでしょう。

僕は12年近くクリスチャンとして宗教活動に専念したのですが、その理由の一つは、自己を犠牲にして他人のために生きることはもっとも大切な人間の行為だ、と信じていたからです。ところが、そのとき「僕は助けてやる立場にあり相手は助けられる立場にある」という、ある種の傲慢さを僕が持っていたのも確かです。この僕の経験は、「世話好きで親切な人というものは、ほとんど例外なく、まず助けられる人を用意してかかるという愚かしい策略をするものである。たとえば、相手は助けてやるに値し、こちらの助けをまさに求めているところであり、すべての助力に対して深く感謝して以後は輩下となって服従するであろう、と思い込む。かく自惚れて、彼等は所有品を左右する如くに困窮する者を左右する。もともと彼等は所有品に対する欲求からして、世話好きで親切なのである」(ニーチェ『善悪の彼岸』)という深層心理分析と対応しています。ここでニーチェが批判しているものは、西欧キリスト教文明の自己犠牲的無償援助です。ニーチェの正しさは、助けようとした相手に援助を拒否されたとき、助ける立場の者が怒りだすことに証明されます。

西欧キリスト教文明の自己犠牲的無償援助という概念は、神の人間に対する救い、という聖書のテーマをモデルにして出来上がったものです。このモデルの欠陥は、僕が考えるに、それを人間の人間に対する援助に活用したとき現われるものです。まず第一に、人間は神と違って全知全能ではないから、何が相手にとって救い(幸福、価値)なのか、知ることが出来ないことです。だから、どうしても自己の価値観を相手に押し付ける結果になります。(どうして宗教家が押し付けがましいかわかりますか。)第二に、救われた人間はそれ以後、救ってくれた主に感謝し、彼に対して従順になることを、期待されている。そこで、人間と人間との間に従属関係が作り上げられます。(アメリカ人が、日本がNOを言うと特別に怒るのは、彼らが戦後の日本の復興のために無償で助けてやったからだ、と信じていることと深く関係があるのです。)第三に、救われるべき者の存在が永遠に必要とされる。神は自分が最高存在であるというアイデンティティーを確立するために、自分と同等でない、下等な人間の存在を必要とします。キリスト教的無償援助の愛を人生観の中心に置くと、同じように、自分よりは不幸な運命にある人達、自分の救いを必要としている人達の存在を常時必要とします。

このような理由で、キリスト教的無償援助は、必ず、助けられる者に精神的な負担をかけます。それはプライドを持つ人間(すなわち、すべての人間)の心を傷つけずにはおかない、というのが僕の意見です。それは「恩を着せない」純粋な動機の援助であればあるほど、相手に与える傷は深くなります。だから、例えば「経済大国日本の援助や貢献は当たり前のこと」と援助される国家が考えようとするのは、「援助は欲しいが従属的位置にあることは認めたくない」という分裂した心のバランスを保とうとする、彼等の当然な考え方だと思います。(感謝されない援助こそ理想的だ、と僕が言ったのはこの理由からです。)だったら、始めから、有償援助、見返りを期待する援助を明確にして、相手に精神的な負担をかけないようにするのがよいのではないか、というのが僕の意見なのです。別の言葉で言えば、もし相手を尊敬するなら、決して無償援助をしてはならない、ということです。日本人がアジアの諸国に無償援助したがるのは、アジアの諸国を日本よりは低い国だと見下げているからです。


あるべき日本のアジア外交

K君:私があなたに聴きたいのは、日本はどんな哲学をもってアジア諸国に対処したらいいのかということです。

ボク:簡単です。西欧キリスト教文明のまねを止めればよいのです。クリスチャンでもないくせにクリスチャンのまねをするから、うまくいかないのです。日本人がみんなキリスト教に改宗するのならばともかく、そうでないなら日本人は日本人として行動すればよいのです。彼等のまねをして、アジア諸国を植民地しようとしたから、日本は失敗したのです。僕は、今、また日本が、西欧文明のまねをして、日本の文化がアジア諸国に拡大するのを見てを喜んでいるのではないか、と心配しています。自己の価値を絶対化して、それを他に押し付けようとするのは西欧キリスト教文明のマネ以外のなにものでもありません。

日本人には日本人の心にもっと納得できる原理があるのです。それが、いわゆる、和の思想とよばれているものです。聖徳太子の十七条憲法の「和を以て尊しとなし、さからふことなきを宗とせよ」という、あの思想です。これは現在でも日本人の心に生きていて、共同体を成り立たせるための行動原理となっています。ただ、この思想はよく誤解されています。たとえば最近、出雲市長の岩国哲人氏が、和の思想は、個が自分の意見を主張せず、集団に追従してゆくことだから、改めるべき悪い日本の習慣である、というようなことを語っておられます。おそらく、岩国氏は『日本書記』を自分で読んだことがないのでしょう。

聖徳太子の和の思想は、十七条憲法のなかの第一条、第十条、および第十七条にもっともよく現われています。

第一にいう、和を尊しとし、さからうことなきを宗とせよ。人は徒党を組むものであり、また賢きものも少ない。そのゆえに、あるときは君主や親に従わず、またあるときは近隣同士の間でも異同を生ずる。しかし、皆がお互いに和して仲睦まじく論をなせば、自然に理が通るものである。そうすれば、何事でも出来ぬことはない。

第十にいう、こころの憤りを絶ち、思いの怒りを棄て、人が自分と異なっていることを怒ってはならない。人はそれぞれ心をもち、心には各々執着するところがある。相手が良いと思うものを自分は悪いと思ったり、自分が良いと思うものを相手は悪いと思ったりするものである。自分が必ずしも聖人であるというわけでもなく、相手が必ずしも悪人であるというわけでもない。お互いに、凡夫に過ぎない。善悪の理を完全に知っている人などどこにいるか。お互いに、賢いところもあり、また愚かなるところもあるというのが事実である。それゆえ、相手が怒るときは、かえって自分が間違っているのではないかと恐れ、自分だけが正しいと思っても、皆の結論にしたがって行動せよ。

第十七にいう、何事も独断で行ってはいけない。必ず皆と論議すべきである。些細な問題は皆と論議する必要はないが、大切な問題の場合は、失敗することもあることを知って、必ず皆と論議すべきである。そのようにして、皆と相談すれば理が得られるのである。

和をこそ尊ぶべし、という第一条の要求は、その理由として、和が先ず確立すれば論が可能となり、論が行われれば理が通るようになるからだと主張している。第十条では、自分がどんなに正しいと確信していても、それを他人に押し付けてはいけない、相手の立場から見れば価値観が逆転することもあるのだから、と主張している。その根拠は、人間の考え方には相違があり、しかも完全な正あるいは知を独占する者はどこにもいないからだ、とされる。第十七条では、念を押すように、独断が禁止され、衆議の大切さが強調され、第一条でも述べられた信条、すなわち衆と論議するところから理の結果が生まれること、が繰り返し主張されています。

明らかに、個の相違を否定するのが聖徳太子の語る和の目的ではないのです。個の相違に対する寛容が彼の語る和なのです。個が論を控えるのが聖徳太子の語る和の実践ではないのです。なぜなら論がなければ国事に必要な理が出て来なくなるからです。むしろ、そのような論を可能とする原理こそが、実に聖徳太子の語る和なのです。しかも国事に必要な理は、ある絶対的完成者から来るのではなく、不完全な人間たちの論議から出てくるのものだとされる。従って、ここで否定されているものは、誰かが絶対的な真理を持っていて、それ故それを他に強制することができる、という独善的絶対主義である、と考えなければなりません。

したがって、平等主義で、独善主義を否定し、個の相違に対する寛容を説く、聖徳太子の和の思想は、傲慢で、独善的で、自己の価値を他に押し付けたがる非寛容な西欧キリスト教文明との間には、水と油のような、性質の違いがあるといえるでしょう。日本人がクリスチャンのまねをしても、うまくいかないわけです。

個の相違に対する寛容を説く和の思想をアジアとの外交に実践すれば、一つの明確な基本的姿勢が見えてきます。自己の価値を押し付けるな。アジアの諸文化を尊重せよ。アメリカの覇権主義に屈従せず、多文化の共存できる世界を目指せ。アメリカの代わりに世界あるいはアジアのリーダーになろうとか、欧米の仲間に入って一緒に世界のリーダーシップの一翼を担おうなどとか、ゆめゆめ考えてはならない。むしろ、スペインとポルトガル、英国とオランダ、そしてソビエト共産主義とアメリカ合衆国へと、移り変わってきた西欧キリスト教文明の覇権主義にとどめをさすことを、日本の歴史的使命とせよ。そして、小さな国も大きな国も、誰にも干渉されず独自の文化を育て発展させて行くことの出来る、そういう世界造りに努力せよ。そんなことを、和の思想から、僕は考えたりするのです。