佐倉哲エッセイ集

「わ」の思想の源流

--- 十七条憲法以前の和の思想 ---

佐倉 哲


聖徳太子の時代から現在に至るまで、日本において「和の原理」とか「和の思想」とか呼ばれているものが根強く生き続けてきた事実に、わたしはいつも驚きを感じざるを得ない。しかも、例えば、中国大陸における儒教思想や西欧におけるキリスト教思想が、無数の著作や教育機関や宗教施設や国家権力を通して、計画的に意図的に、またときには生命をかけて情熱的に伝えられてきた事情と比べて、日本における和の思想は、きわめて対照的に、学派も生まず、著作もほとんどなく、誰も意図せず、ほとんど以心伝心的に大衆の中で伝えられてきた。このようなものが、たとえば聖徳太子のような個人の思想やある宗教の影響による結果であるはずがない。もっとなにか日本人にとって根元的なものでなければならないはずだ。わたしはそう思うようになった。本論文は、それを求めて、「十七条憲法以前の和の思想」にさかのぼろうとする、ささやかな試みである。

1997年2月20日



従来の説

十七条憲法にある和の思想がどこから来たのかという問いに対する従来の答えは、仏教思想あるいは中国の儒教や老荘思想の中に求めるものであった。例えば、福永光司氏によれば和の思想は中国の荘子の影響が大きいとされる。

冒頭の「和を以て貴しと為す」は、『礼記』儒行篇の言葉をそのまま用い、「さからうこと無きを宗と為す」は、『荘子』刻意篇に「さからうところ無きは居の至りなり」、同じく天道篇に「帝王の徳は天地を以て宗と為す」とあり、「党有り」は『左伝』僖公九年に「党有れば必ずあだ有り」、「さとれる者」は『荘子』斉物論篇に「唯ださとれる者のみに通じて一たるを知る」などとある。(『日本の名著:最澄・空海』)
しかし、思想内容そのものを検討してみると、仏教説も儒教説も老荘思想説も、和の思想の由来として考えるには無理がある。十七条憲法には確かに仏教思想と中国思想の影響が顕著である。しかし、和の思想はどうしても仏教や儒教の思想にうまく収まらない。そもそも、和の思想の由来に関して、従来の説に仏教説や儒教説や老荘説などの諸説があって一致がないという事実が、そのことを雄弁に語っている。仏教思想は本来無知を克服して悟りを得るのをその本質としており、「和」が一番大切であるという教えはない。仏教にはまた慈悲の教えもあるけれど、それもまた「和」とは違う。また、儒教は「仁、礼、信、義、智」をその徳目としているが、「和」という徳目はない。また、老荘思想も人為を捨てて自然に生きることを説くのであって、自然との神秘的な合一のことを「和」と表現していることもあるけれど、人と人の間の「和」を説くものではない。つまり、思想内容に焦点をあてて見ると、和の思想の由来を仏教や儒教や老荘思想のなかに見つけることは無理があるように思える。


日本古来説

和の思想の由来を仏教や儒教などの外来思想に求める説に対して、その由来を日本古来の伝統的な考えに求める学者も、例外的にではあるが、存在する。例えば、小野清一朗氏は次のように述べる。

第一条に「和を以て貴しと為す」云々の規定のあることはあまねく知られてゐるが、これを以て道徳的訓戒であると為すは未だ其の義を解せざるものである。私見によれば其れは実に日本国家の倫理的基礎を明らかにするものである。其れは個人的な道徳を含んで、しかもより高次なる国家的共同体の倫理であり、道義である。……[和とは、]人倫の差別的秩序に即して、しかも本質的に平等なる共同体精神の一致を実現することである。これこそは国家の永遠性と全体性と統一性とを担保する倫理でなければならない。……

かくのごとき和の倫理は如何にして自覚されたものであらうか。おもふに其の実体において日本民族固有の精神であった。此の大八州(おおやしま)における有史以前からの民族的生存は、氏族的・家族的な社会組織を有し、其の上に天皇の統治があった。いはば血縁的な共同体の階層であり、其れは自ずからなる「和」の生活であった……。憲法第一条は実に大氏族的「党」の跳梁によって生じた、古き日本民族的精神の新たなる自覚であると謂い得るであらう。(『憲法十七条に於ける国家と倫理』)

この小野清一朗氏の日本古来説にはあきらかに昭和初期のナショナリズムの影響が強いけれど、ひとつ見逃せない指摘がある。それは、和の思想は単なる「道徳的訓戒」ではなく、むしろ「国家の倫理的基礎を明らかにするもの」である、とされているところである。つまり、和の思想は、個人のあり方に関する思想ではなく、国家共同体のあり方に関するものであると指摘されている点である。これは重要な指摘だと思う。

同じような指摘をされるのが梅原猛氏であるが、氏は「主観的道徳」と「客観的道徳」の違いに注目して、次のように述べておられる。

問題は「和」がいかなる教えから来ているかということ、儒教か、仏教か、道教か --- ということにあるのではなく、なぜ太子が「仁」という主観的道徳ではなく、「和」という客観的道徳を、憲法即ち国の決まりの中心に据えたかということである。「仁」が主観的な原理であるのに対して、「和」は客観的原理である。それは人と人との関係の道徳である。聖徳太子は人間の主観的な内面的倫理より、人と人との関係の倫理が必要だと考えたのである。この関係の論理が日本では何よりも重要だと考えて、それを「憲法十七条」の中心に置いたのである。私はそれは太子の日本の歴史と現状に照らしての状況判断であったと思う。……この「和」の原理は今でも日本社会で通用している。それは日本社会の最もよい部分である。太子は正に日本社会の根本原理を見いだした人と言わねばならない。(『海女と天皇(上)』)
和の思想が個人に関する思想ではなく、「人倫」、すなわち社会思想・政治思想であるという事実に注目された両氏が、和の思想の由来をこのように日本古来の社会に見いだそうとされたことは決して偶然ではないだろう。和の思想が個人の「徳」に関する教えではなく、共同体社会の運営そのものに関する思想であることに気がつけば、それが仏教や儒教や老荘思想でないことがより明らかになるからである。

しかし、和の思想の由来が日本古来の伝統によるという説には、もっと積極的な根拠はないのだろうか。それを示唆するものが、両氏の説に見られるもう一つの共通した主張である。すなわち、和の思想が先にあって、それに従って和を重視する社会が日本に造られたのではなく、逆に、日本がもともと和を重視する社会であったからこそ、その事実が十七条憲法に取り上げられる結果になったのだ、という両氏の主張である。もし、十七条憲法以前の日本社会が、何らかの方法で、「和」を重要視する社会であったことが証明されれば、それが日本古来説の積極的な根拠となる。残念ながら、この点についての詳しい解答は両氏によって与えられていない。ただ直感的な意見が述べられているだけなのである。


井沢元彦説

和の思想の由来を日本古来の社会認めようとする立場は、最近、『逆説の日本史:封印された倭の謎』の中で、推理作家の井沢元彦氏によっても主張されている。

言うまでもなく聖徳太子が「和を以て尊しとなせ」と命じたから、「わ(和)」が日本人の原理になったのではない。そうではなくて、これは古代から、それこそ「日本」という名すらなかったころからの「環」の住民たちが、基本原理としてきたことなのである。だからこそ聖徳太子は、自らは仏教徒でありながら、日本人全体にさとすべき言葉としては、まず「和を大切にせよ」と言ったのである。(『逆説の日本史:封印された倭の謎』)
しかし、伊沢氏は、小野清一朗氏や梅原猛氏の直感的主張を一歩前進させて、実際に日本の古代社会が「和」を重視する社会であったことを証明する手がかりを発見された。それが、「和」とはもともと「環」であった、という説である。古代の日本国家は「倭」と呼ばれていた事実があったが、中国人が日本を「倭」と呼んだのは、古代の日本人自身が自分たちの共同体国家を「わ」と呼んでいたからであり、その「わ」はもともと古代日本人の環濠集落の「環」を意味していたのではないか、と主張される。
倭とは実は「環」であり、古代日本人は、集落のことを「環」と呼んでいたのではないか。(同上、81頁)

「和」とは何か。これは本来「ワ(環)」という原日本語で、英語で言えば circle (サークル)にあたる。つまり、環濠集落である国を表し、同時に人の集団、仲間を表す。そして、それが発展して、その集団における「協調の精神」あるいは「アイデンティティー」のようなものを意味するようになり、その時点で「和」という漢字(中国の文字)があてられた。(同上、86頁)

『漢書』『後漢書』『魏志』倭人伝などの中国書の記録において、西暦1世紀から3世紀にかけての古代日本が「倭」と呼ばれ、日本人が「倭人」と呼ばれていたことはよく知られた事実である。また、7世紀から8世紀にかけて、日本人自身によって「倭」が「日本」あるいは「(大)和」にを改められていったことも、『古事記』『日本書紀』や他の記録から明らかである。それ以後、今日にいたるまで、例えば「日本食」や「和食」のように、「日本」と「和」が、ともに日本をあらわす語として定着した。伊沢説の指摘の新しさは「和」を古代日本国家「倭」と関連づけ、さらに古代集落の「環」と関連づけられたところにある。


新仮説:「和」の源流は縄文時代の環状集落であった

しかし、せっかく『逆説の日本史:封印された倭の謎』において「環」ということに着目されたにもかかわらず、伊沢氏の論はいつのまにか横道にそれ、なぜか、死人のタタリ(怨念)を恐れることが和の発生の原因である、というふうな話になってしまい、「環」そのものについても、また古代の集落そのものについても、ほとんど分析はなされなかった。したがって、例えば、弥生時代の環濠集落と縄文時代の環状集落の間に横たわる根本的な相違にさえ言及されることもなかったのである。伊沢氏が指摘される「環濠集落」とはもちろん弥生時代における集落形態であるが、わたしの考えでは、弥生時代は決して「和」の源流とはなり得ない。和の思想の源流は、後に述べるように、縄文時代の環状集落の「環」にまでさかのぼらなければならない。したがって、本論文において、わたしはこの伊沢説に修正を加えながら、「和」の源流に関するこの新しい仮説の根拠となりそうなものを掘り起こしてみたいと思う。


和の思想の論理的構造

もちろん、和の思想の源流なるものを突き止めるためには、和の思想とは何であるかを明確にしておかねばならない。なにごとも正体を知らずして探し出すことは出来ないからである。

伊沢氏によれば、和の思想とは「話し合い至上主義」であり、それはどんな形であれ、争い事は避けるべきだという考え方だとされる。そこで、例えば、自民党総裁選が選挙ではなく「話し合い」で決定されることの理由が「総裁選を争うと怨念が残るから」であるという話から、「和を乱さないためには、怨念が発生しないようにつとめることが大切だ」という話しになり、結局、

「わ人」の世界には、[聖書にあるような] 神はいないので、個々の霊のタタリを恐れねばならない。こんな世界ではタタリが恐くて、とても大虐殺はできない。一万人大虐殺をすれば一万人のタタリを恐れなければならなくなるからだ。だから、できるだけ、人が死ぬような争いは避けようという発想になる。つまり、これが「わ」の発生原因である。(注)
という結論が引き出される結果になっていった。いったい「環」の話は何処にいってしまったのかだろうか。

確かに、自民党総裁選の例にあげられるような、いかなる争い事も避けようする社会的風潮が日本にあり、そのような風潮を「和の精神」と言ったりするのは事実であるけれど、それを十七条憲法にある「和の思想」と単純に同一視されたところに、伊沢説の限界があると思われる。和の思想は、座右の銘として壁にかけておくような性質のものではなく、思想としての論理的構造を持っている。つまり、「話し合い」の重要性を主張すると共に、その主張を支える哲学的根拠を持っている。伊沢説にはこの和の思想の論理的構造に関する洞察が欠如しており、その結果、和の思想の正体を見極めることが出来ず、十七条憲法とはまったく関係のない、現代日本の社会風潮に関する思いつきから、「タタリ」の観念を持ち出され、あまりにも不用意にこの二つを同一視されたのであった。

では、和の思想の論理的構造とは何か。十七条憲法における和の思想は、まさに憲法としてふさわしく、国家共同体をいかに運営するかに関する基本原理を示すものであるが、それは第一条と第十条と第十七条に余すところなく語られている。

第一条では、和が先ず確立すれば論議が可能となり、論議の中から合理性による政治が行われる。それゆえ、国家共同体がうまく運営されるためには、先ず和の確立が大切なのだ、と主張する。これが和の思想の総論とでも言うべきものである。第十七条では、この和を具体的に実践するために、独断・独裁を禁じ、政治が衆議によって行われねばならないことを説く。おそらく梅原猛氏の影響であろうが、この第一条と第十七条の二条だけをもって、伊沢氏は和の思想をあらわすものとされるのであるが、それが、衆議主義に言及しながら、何故衆議主義でなければならないかという哲学的根拠に気づかれなかった原因である。氏は第十条を見逃されたのである。第十条はいう。

心の怒りを絶ち、おもての怒りを棄てて、人の違うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば、われは非とし。われ是とすれば、かれは非とす。われ必ずしも聖にあらず。かれ必ずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ。是非の理、たれかよく定むべけんや。あいともに賢愚なること、鐶(みみがね)の端のなきがごとし。(第十条、中村元訳)
和の思想の哲学的根拠とは、「価値観の多様性」と「人間皆凡夫」という基本的人間観である。つまり、人間一人一人の価値観はときには是非の判断が逆になることさえあるほど多様である事実、そして、完全な賢者も純粋な愚者も世の中には存在せず、人は皆「賢愚合わせ持つ凡夫」にすぎない事実、これら二つの事実から、人々の持つ価値観の多様性に対する寛容の必要性が語られ、いかなる者も自己の価値観を他人に強制する根拠を持たないことをが説かれる。人はすべて「賢愚あわせもつ凡夫」にすぎないことにおいて平等である。これが、国家運営の様々な方針決定において、自分だけを「聖」とし他を「愚」とするような独善や独断が禁止され、衆議の必要性が説かれる根拠となっている。

このように、十七条憲法の和の思想には、単に衆議主義(「話し合い」の大切さ)だけでなく、それが依って立つ哲学的基盤となる平等主義的人間観がある。もし、伊沢氏が、和の思想に内包するこの平等主義の重要さに気がついておられたら、「わ」から「タタリ」へと迷い込まれることなく、「わ」から「環」へとまっすぐ進まれたかも知れない。

しかも、興味深いことに、この平等主義を説明するために、この第十条では「環」のイメージが使用されているのである。

われ必ずしも聖にあらず。かれ必ずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ。是非の理、たれかよく定むべけんや。あいともに賢愚なること、鐶(みみがね)の端のなきがごとし。
ここでは、人間は皆例外なく凡夫であることにおいて上下がないという事態が、端のない「鐶(みみがね)」つまりイヤ・リングの輪のようである、と表現されている。つまり、「環」の形の持つ平等性のイメージが、和の思想の人間観にぴったりと符合すると考えられている。そこで、わたしはこの平等主義と衆議主義の糸をたどって、いよいよ、「和」から「環」へと歴史をさかのぼってみようと思う。


日本は、なぜ「倭」と呼ばれたか

「和」の歴史的由来が縄文時代の環状集落の「環」にまでさかのぼるという仮説の根拠の一つは、古代日本が「わ」と呼ばれていた事実にある。中国の古書は日本のことを「倭」、そして日本人のことを「倭人」と記しているが、中国人がそう記すようになったのは、彼らに出会った古代の日本人が自分たちのクニのことを「わ」、あるいはそれに近い発音で呼んでいたからであろう。楽浪の中国人の役人に「お前は何処の国から来た」と聞かれた日本人が「我(わ)」(わたしだ)という答えをしたので、その役人が「倭」という字を当てたのだ、というような話が『弘仁私記』と『釈日本記』に残されているが、新井白石は「そうではあるまい」といって否定している。白石によれば、「倭」の発音は「大(おほ)」に近く、古代の日本人が自分たちのクニのことを「大国(おほくに)」と呼んでいた事実があるので、中国人がそれを音訳して「倭」という字を当てたのだろうと想像している。(新井白石『古史通』) しかし、白石自身が「倭の字の音は鳥和(ウワ)の反切で呼んだ」と書いているように、「倭」はやはり「w」音で始まると考えるべきだろう。 日本人が自分たちのクニを「わ」と呼んでいた事実があったからこそ、中国人が「倭」の字を当てた、と考えるのがやはり最も自然だと思う。


「わ」は「環」であったか

しかし、たとえ古代日本人が彼らのクニを「わ」と呼んでいたのが事実であったとしても、それがサークルを意味する「わ」であったかどうか分からないのではないか。このことについて少し検討してみよう。そもそも「わ」という発音をもつ日本語の絶対数そのものが少ない。この単純な事実だけから見ても、「わ」が「環」であった確率は極めて高いことになる。「話」「倭」「和」などの中国語の音読みにすぎない「ワ」を除いて、日本語で「わ」と発音する言葉をならべてみると、せいぜい「我」「わ(感嘆詞)」「環」「輪」「鐶」「曲」ぐらいである。このうちの「我」「わ(感嘆詞)」を除くと、すべてもともと「サークル」を意味する「わ」である。

しかも、「我」や「わ(感嘆詞)」はたまたま「和」と同音であるに過ぎないが、サークルを意味する「わ(環、輪など)」の場合、すでに十七条憲法第十条の例にもあるように「平等主義」のような意味の関連が認められる。

しかし何よりも重大なのは、縄文時代の集落が「環状集落」と呼ばれているように、縄文人がきわめて「環」に執着していたという確固とした歴史的事実があることだろう。したがって次は、縄文時代の環状集落そのものを調べることによって、日本の古代国家「倭」の「わ」は、実は「環」を意味していたという仮説の更なる検証を試みたいと思う。


縄文時代の環状集落

縄文人たちは環状集落という集落形態に執着していた。その環状集落はその中央に空間広場を持っていたことが大きな特徴となっている。ムラが少しでも大きくなると、縄文人たちは必ずまず環を描いて中央広場の部分を決定し、その周りに住居を建てたのである。

縄文時代の村には、広場を持つ大きな村とそれを持たない小さな村とがあった…。大きな村をつくるときには、まず村の中央の広場の範囲を決め、以後この広場の周りの環の部分に家を建てていくことにした…。新築・改築に際しても、この環は尊重、重視されて守られたから、いま、その数世代数十世代分の住居跡を発掘すると、環状あるいはその一部として半環状・馬蹄形に連なって数十から数百軒以上も見いだすことになる。環状集落と呼ばれる所以である。(佐原眞『大系日本の歴史1:日本人の誕生』)
後に建築の技術が発達し、共同施設用の大型建築が可能となったときでも、例えば秋田県の上ノ山遺跡に見られるように、その大型共同施設もやはり広場を囲んで立てられ、空間広場は尊重された。そればかりでなく、縄文人は、例えば、秋田県の大湯遺跡に見えるように、いわゆるストーン・サークル(環状列石)と呼ばれる環状墓地を作るようになり、それが日本各地で発見されている。
縄文世界では集落域にも墓域にも「円形」基調の意識が底辺にあり、かつ空間広場としての内部を確保する意識も働いていた。(水野祐監修『逆説の日本古代史』)

[縄文人は]生の世界と死の世界を共に環の原理で貫き、何世代、十数世代にわたってその環を忠実に守って犯さなかった…。(佐原眞、同上)

このほかにも、廃棄場所そのものさえ環状にした「環状貝塚」や、まだ正体のよくわからない巨大な木柱でつくられたウッド・サークルなどもあり、縄文人が「環」に執着していた人々であったことを疑うことはできない。

しかし、何よりも注目すべきは集落中央につくった空間広場である。彼らが集落の中央に空間広場を意図的に計画的に設けるようにし、しかもそれを数千年の間続けたのには、それなりにきわめて重大な理由がなければならない。縄文の空間広場は、たぶん、共同作業場、祭り、共同墓地、談話や協議、子供の遊び場など多目的に使用されたものであろうが、そこが共同体の方針を決定するための協議の場であったことはほぼ間違いない。なぜなら、縄文社会の特徴として明らかになっていることは、彼らの間に支配・被支配者階級の区別がなかったことであり、このことは共同体の政治的決定が、何らかの形の話し合いによっておこなわれたことを意味するからである。

世界の民族例に環状集落を求めると、中央の広場は公共の場、祭りの場であって、住まいの環は、平等の象徴、あるいは宇宙観をあらわすなどとされている。広場を持つ縄文の村もまた、そのように考えてよいであろう。 (佐原眞、同上)
縄文社会は、その後にできてくる様々な日本社会に比べて、きわめて平等な社会であった。中央の広場はその平等社会のシンボルであっただけでなく、そのような共同体の存続になくてはならない重要な機能を持っていたに違いない。そうでなければ、数千年もこのような施設を存続させるはずがないからである。古代ギリシャの都市国家の民主政の運営にも、市民たちが自由な議論をするための場としてアゴラ(広場)が重要な機能を果たしていたことがよく知られている。広場と平等主義。この二つから想定できるものは、やはり衆議による共同体運営しかないのではないか。つまり、彼らの集落形態(環)は、その共同体運営理念(和=平等主義・衆議主義)と深くかかわっていたと思われる。

古代日本人の平等主義を想起させる「倭人の習俗」に関する記述が『魏志』倭人伝に残されている。

会合での座席や起居の順序には、父子や男女の区別がない。人々は生来酒を好む。大人(たいじん)の敬意のあらわし方を見るに、だだ拍手をするだけで、それでひざまずいて拝する礼の代わりとしている。(杉本憲司、森博達 共訳)
「大人」(たいじん)とは長老を指すのであろうが、支配・被支配、あるいは主従関係に大きな注意を払う大陸思想が日本に入ってくる前の、素朴な日本社会の姿がここに一瞥できる。有る意味では現在の日本社会にそっくりと言えるかも知れない。十七条憲法の衆議主義も、今日まで、日本社会のあらゆるレベルで見られる会議重視主義(飲み屋でのそれも含めて)も、もとをたどれば、この縄文集落の「環の広場」をその由来とするのではないだろうか。日本人の「和」に対する執着は、その源流を辿れば、おそらく、この縄文人の「環」に対する執着にたどり着くのではないだろうか。そして、古代ギリシャの都市国家が「ポリス」と呼ばれたように、古代日本のムラ国家は「わ」と呼ばれていたのではないだろうか。


弥生時代の環濠集落

弥生時代に現れた「環濠集落」は、それまでの縄文時代の環状集落とはまったく根本的に異なる種類の集落形態であった。環濠集落は、縄文の環状集落が次第に変化していった結果ではなく、弥生文化そのものがそうであったように、大陸・朝鮮半島からの渡来人たちがもたらしたものである。例えば、韓国の検丹里(ケンダンニ)遺跡の環濠集落は西暦前5世紀のものであるが、現在までに発見された日本最古の環濠集落は福岡県の板付遺跡であり、それはおよそ西暦前3世紀のものである。基本的に、日本における環濠集落の出現は九州から始まり、次第に東日本へ伝わってゆく。環濠集落が濃尾平野に出現するようになるのは前2世紀から前1世紀になってからであり、関東地方に現れるのは西暦紀元前後である。このように、環濠集落の形態が、他の弥生文化とともに西から東へと普及していった事実は、それが弥生文化の担い手の中心となった大陸・朝鮮半島からの渡来人のもたらしたものだったことを示している。

環濠集落という名前が示すように、その集落形態は、まわりに堀をめぐらせて外敵から集落をまもる要塞集落であった。空間広場としての環の周りに住居を建てた縄文人と違って、防御としての環の内側に散在した住居を建てたのが弥生人である。実際、弥生時代には環濠集落だけでなく、多くの高地性集落もつくられているが、そのうちの多くはやはり、外敵から集落を守る施設であった。そして、一万年近くも続いた縄文時代のおびただしい数の遺跡にはほとんど見られなかった武器や戦争の跡が、弥生時代の遺跡には沢山出てくるのであるが、それは、弥生時代が戦争の始まった時代だったことを意味する。環濠集落はそういう時代の状況に合わせて造られた防御的集落形態であった。

弥生時代をその直前の縄文時代と分ける特徴としては、土器の型式の違いや金属器の使用、また、水稲耕作の展開などがあげられるが、それにもまして重大な変化は階級の発生である。身分差別は同時に衣食住の差別であり、縄文人たちの場合と異なって、弥生人たちの生活の特徴を、複雑で多様なものにしたのである。また、権力を持つ者の出現は、さらに大きな権力を目指しての戦争を生んだ。「ムラ」同士の戦いの中で、有力な「ムラ」は弱い「ムラ」を従えて勢力を広げ、やがて「クニ」としてのまとまりを持つようになっていった。そして、三世紀ごろに三十ほどの「クニ」を従えたのが、女王卑弥呼をいただく邪馬台国である。(水野祐監修『逆説の日本古代史』)
縄文時代から弥生時代に移る歴史の中で、いったい、なにが起こったのか。歴史家の通念に従えば、農耕を始めた弥生人は富を蓄えるようになったので、富の奪略をめぐって争いが始まった、というものである。それが世界文明史に広く見られるパターンであり、日本列島においても同じ様な発展段階を通過したに過ぎない、と。しかし、
原始古代の世界年表を広げると、日本に農耕社会が成立したのがひじょうにおそかったこと、そして、いったん農耕社会が成立すると、たちまちのうちに古代権力が生まれていることが注目される。(佐原眞、同上)
と言われるように、日本における環濠集落や王権の出現は、世界文明史の発展の通例とは大きく異なって、農耕という経済形態から自然発生的に生まれた政治形態ではなく、水稲耕作も、環濠集落も、ほとんどみんな一緒に、渡来人が日本に持ってきたものであった。
    前1万年  前8千年  前6千年  前4千年  前2千年 前3百 1千年 現代
     ┌──┬──┬──┬──┬──┬──┬──┬──┬──┬─┬┬┬─┬──┐
     │        日本食料採集社会(縄文時代)      │弥│古墳天皇│   
     │                            │生│幕府近代│ 
     ├──────────────┬─────────┬───┴─┴────┤
     │  東アジア食料採集社会  │ 食料生産社会  │ 殷王朝・漢王朝  │   
     │              │         │ 唐王朝・他    │
     ├─────┬────────┴─────┬───┴──────────┤
     │西アジア │    食料生産社会    │ シュメール・アッシリア  │   
     │食料採集 │              │ ペルシャ・ローマ帝国   │ 
     ├─────┴─────┬────────┴──┬───────────┤
     │  ヨーロッパ    │  食料生産社会   │ミケーネ・ギリシャ  │    
     │  食料採集     │           │ローマ・ゲルマン・近代│
     └───────────┴───────────┴───────────┘
       (ドイツ民主共和国科学アカデミー『世界史:封建主義形成まで』より)
つまり、共同体に関してまったく異なる考え方をもつ渡来人と彼らが持ってきた文明が、ほとんど突然と言っていいほどのスピードで日本を変えていったのが弥生時代であった。それは、近代日本が否応なく西欧文明を受け入れざるを得なかった事態と、きわめてよく似ている。つまり、縄文時代から弥生時代への移行は、自然発祥的、内発的に縄文人がおこなったものではなかった。ほっておかれれば、いつまでも存続しそうなほど、きわめて平和で安定した緩やかな発展を経験していた文明が、外からの圧迫(大陸・半島からの移住民と彼らのもたらした文明)で急激に変化を余儀なくされた結果であった。


弥生時代の意義

弥生変革の最大の意義は集落の中央広場の消滅と王権政治の誕生にある。共同体の広場の消滅は、おそらく、共同体の方針の決定が、しだいに王のような特権を持つ者たちによってなされるようになり、共同体の住民が平等な立場で集まって政りごとをする広場の意味は失われていったからであろう。支配することを価値と見なす王権政治の思想が出現したのである。魏の明帝は西暦239年に、邪馬台国の卑弥呼に対して「親魏倭王」のタイトルを与え、金印その他の贈り物を与え、「これらすべてを汝の国内の者たちに示し、わが国が汝をいとおしく思っていることを知らしめよ」という詔書を送った。これは、弥生時代が、まさに、大陸の王権思想の強大な影響のもとに、衆議の政治が消滅し、権威と権力による国治が始まった時代だったことを示す象徴的なものといえよう。

衆議によってではなく、王権によって決定がなされるとき、意見の相違や利益の相克は、力と力の競い合いとへと発展せざるを得なくなる。縄文時代とうって変わって、弥生時代が戦乱の時代となったのは、農耕が始まったからではなく、新しい政治思想が出現したからであろう。その戦乱の中から中央集権的なヤマト政権への道が開かれていったのである。弥生時代とは、やがて次々と日本中に姿を見せるようになる巨大古墳が、かつての縄文時代の集落の中央広場に代わって、日本の政治形態のシンボルとなっていった過程でもあったのである。


十七条憲法の矛盾

「和の思想」を高らかに謳った十七条憲法は、実は、一方ではこの王権による政治を完成させようとする意図を持っていた。それが天皇を中心とした中央集権制度の確立である。特にその第三条と第十二条はこのことを明瞭に表現している。

三にいう。天皇の詔を受けたらかならずつつしんで従え。君を天とすれば、臣は地である。天は上を覆い、地は万物を載せる。四季が正しく移り、万物を活動させる。もし地が天を覆うようなことがあれば、秩序は破壊されてしまう。それゆえに君主の言を臣下がよく承り、上が行えば下はそれに従うのだ。だから天皇の命を受けたら必ずそれに従え。従わなければ結局自滅するであろう。

十二にいう。国司(くにのみこともち)や国造(くにのみやっこ)は百姓から税をむさぼってはならぬ。国に二人の君はなく、民に二人の主(あるじ)はない。国土の内のすべての人々は、みな王(天皇)を主(あるじ)としている。仕える役人はみな王の臣である。どうして公のこと以外に、百姓からむさぼり取ってよいであろうか。(宇治谷 孟訳、『日本書紀』)

ここに主張されている政治思想は、地方の小国家群の連合国としての代表政権ではなく、全国を直接天皇の支配下に置こうとする大陸伝来の王権政治思想である。政治的意志は上(天、王)から下り、人々に要求されているものは従順である。弥生時代から古墳時代へ、古墳時代から律令制の時代へと移り変わろうとする歴史の流れを見れば、十七条憲法に見られる天皇主義による中央集権制度の確立の動きは起こるべきして起こった政治改革と言えるかもしれない。

このような歴史の流れの中で見るとき、むしろ、十七条憲法に和の思想が書き残された事実がいかにに驚くべき事件であったか想像できる。環の思想の衆議主義はまっこうから王権思想を否定するからである。

十七にいう。物事は独断で行ってはならない。かならず衆と論じ合うようにせよ。些細なことはかならずしも皆にはからなくてもよいが、大事なことを議する場合には、誤りがあってはならない。多くの人々と相談し合えば、道理にかなったことを知りうる。(同上)
一方では天皇への絶対的従順の思想があり、他方では独善・独断主義否定の思想がある。十七条憲法はこの矛盾した二つの原理が混在している。いったい何故このようなことが起こり得たのか。


十七条憲法の矛盾の解明

もし、弥生文化が縄文文化の内側から自然発生的に生じたのなら、縄文人は過去の価値観を自主的に捨てたわけだから、彼らの「わ」の思想は後々まで生き残ることもなかったであろう。しかし、弥生時代の王権政治の思想は、あれよあれよというまに渡来人たちが日本列島に持ち込んだ大陸思想であり、縄文社会の内側から縄文人たちの自由意志によって自然発生的に生まれたものではなかった。つまり、縄文時代の共同体に関する考え方は、それを守ってきた人々にとって非価値となったわけではなかったから、たとえ縄文集落の形態が、農耕や青銅器や鉄器などの高い技術をもった弥生社会にとってかわられ、社会の表舞台からは消えていったとしても、日本の近代化による西欧化が日本古来の伝統的価値観を消滅させることがなかったように、生きつづけたのであろう。

しかも、すでに見たように、日本の縄文の文明は食料採集社会としては、世界文明史の中でも極度に長く続き、例えば、ヨーロッパや中国大陸では西暦前5000年から6000年も昔に、食料採集社会から食料生産社会に移行していったのに比べて、日本ではつい最近まで、西暦前300年頃まで続いていたのである。

さらに、ヨーロッパの白人たちがアメリカ大陸のインディアンたちを虐殺し、彼らを狭い領域(インディアン保護地域)に閉じこめ、彼らとはまったく隔絶した社会を築き上げた場合と大きく異なって、渡来してきた人々の築いた社会は、縄文人たちを皆殺しにして彼らの社会を築いたわけではなかった。彼らは縄文人の社会と共存し、入り交じっていった。

したがって、聖徳太子の時代までに、縄文時代の風習や考え方が消滅していたと考える方が、はるかに無理であろう。だからこそ、縄文の共同体運営に関する智恵は、7世紀の始めに、国家共同体の運営に関する基本思想を成文化しようとした十七条憲法の草案者の中の誰かによって、和の思想として歴史の表面に引き出される運命となり得たのである。つまり、この憲法に和の思想と天皇思想という矛盾する二つの原理が混在している理由は、縄文時代の共同体に関する考え方と、弥生・古墳時代のに現れた共同体に関する考え方の、両方の考え方がこの時代に存在しており、それが十七条憲法にも反映されるようになったと考えられる。


女帝の登場

弥生時代は戦争の時代であった。『魏志』倭人伝は「倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり」という記録を残している。しかし、わたしたちの注目を集めるのは、女帝の誕生である。

その国、もとまた男を以て王と為す。住まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり。すなわち共に一女子をたてて王と為し、名づけて卑弥呼という。鬼道を事とし能く衆を惑わす。年すでに長大なるも夫扶なく、男弟ありて国を治るをたすく…。

卑弥呼以て死す…。更に男王をたてしも国中服さず。更に相誅殺し当時殺すもの千余人なり。また卑弥呼の宗女の台与(とよ)、年十三なるを立てて王と為し、国中ついに治まる。 (魏志倭人伝、山尾幸久訳)

すなわち、倭国では、はじめ男をたてて王としていたが、やがて乱がおき何年も過ぎた。そこで、卑弥呼という女帝を立てることにした。ところが彼女自身はむしろ神事に仕えることを主な仕事とし、実際の政務は弟がこれを助けた。卑弥呼の死後、再び男の王を立てようとするるが、人々は従おうとしない。そこで結局、わずか13歳の少女、台与(とよ)を女帝とすることによってやっと国が治まったという。

これはいったいいかに解釈すべきだろうか。旧来の説によれば、女帝のシャーマン的機能が理由であるとされてきた。しかしわたしは次のように思う。つまり、女帝が立てられることによって争いが治まったという事は、女帝には実際の力はないのだという安心感があったからではないだろうか。もちろん女性であるというだけで、力を持たないとは一概には言えないが、13歳の少女を擁立することによって乱が治まったということは、やはり無力ということが倭王として認められた要因になったと考えざるを得ないのではないか。

これは、縄文の広場の政治原理と、弥生の王権の政治原理という、二つの政治原理の妥協の産物だったのだと思う。縄文時代の政治の中心は広場であった。人間の平等を前提とする広場が共同体の中心になるということは、その共同体は専制的権力者を意図的に欠如させていることを意味する。この集落形態は、住民がお互いに他を支配する単独的支配者にならないことを共同決意とすることによってその秩序が守られる社会である。そういう縄文社会に、突如として、まったく別の方法で社会の秩序を守る考えを持った人々が現れたのである。すなわち、支配者に絶大な権威と権力を持たせることによって秩序を守ろうとする大陸・朝鮮半島からの渡来人たちであった。女帝はまさにこの矛盾する新旧二つの原理を妥協させるものだったのではないだろうか。一方では、秩序は王に権力を集中させることによって維持されるという新しい考え方があり、もう一方では、共同体の中心となる者が圧倒的権力を持つことを許さないという縄文以来の古い考え方が強く残っており、その結果、形だけは専制的君主であるが、実際の力を欠いている女帝が選ばれたのではないだろうか。

十七条憲法の中にみられる和の思想と天皇思想という矛盾した二つの原理の混在は、数百年も前から、すでに生々しい現実だったと言えるかもしれない。卑弥呼や登与などの女帝の登場は、縄文時代の政治思想と弥生時代の政治思想の妥協の産物であった。そして、このことは、それ以後、今日に至るまで日本の政治に深く影響を与え続けた。そもそも聖徳太子自身、女帝推古天皇の摂政として、実務を預かる立場にあり、彼のときから、日本のいわゆる「女帝の時代」(推古、皇極、斉明、持統、元明、元正、孝謙、称徳)が始まったのであった。中国では女性が皇帝になることは通常考えられない。唯一の例外が即天武后であるが、日本では女帝の時代に国の形が固まったといってよい。このようにして、日本の王権制度は、日本が真似ようとした大陸の王権制度とは、きわめて異なるものになっていかざるを得なかった。なぜ日本ではたくさんの女帝が現れたのか。旧来の説によれば、まだシャーマン的要素が残っていた、とか、適当が後継者がいないときのリリーフ役に過ぎなかったのだ、というものだが、それだけではなく、中央集権への動きとともに、政治の中心に絶対的権力を持たせまいとする周辺の力が働いた結果の妥協と考えるべきだろう。この相反する二つの力の妥協が、結局、権力をもたない、権威だけの日本の天皇制つくりあげてゆくことになったのだろうと思われる。


日本の天皇制

日本の王制はこのようにしてほとんど初めから、権力を持たない者をクニの中心に据える、という世界史的に類を見ない奇妙な王制であった。

権威と権力をわけるという考え方は、もともとヨオロッパやアジアのほかの国々にはない。君主が権力を失ったときには、王朝そのものが消滅するのである。(村松剛『日本人と天皇』)
いわゆる万世一系といわれるように、日本の天皇制がこれほど長く続いた理由も、皇室が基本的に権威としてのみ存在し、それ自身が政治的軍事的権力そのものを持たなかったことがもっとも大きな原因であろう。藤原氏も、源氏も、足利氏も、戦国大名たちも、徳川幕府も、維新の薩長勢力も、大戦当時の軍部も、マッカーサーの占領軍も、すべて日本史において実際の権力を持っていた勢力が、結局、皇室を絶滅しようとしなかったのは、皇室が権威ではあっても、西欧や中国に見られるような、純粋な意味での専制君主的権力ではなかったという特殊な事情によるからである。また、実権をもっていた者が、権威と権力の両方を一手に握ることによっておのれに危険をもたらすよりも、朝廷の権威を利用する方が得策だと考えたからであろう。現代の象徴天皇制も、まったく新しい制度というより、もともと専制君主的権力を持つことのなかった日本の天皇制の特殊な伝統の延長線上にある、と言った方が正確なような気がする。

このような日本の王権の特殊なあり方(天皇制)の原因として、村松剛氏は、「日本の君主は随や唐の皇帝のような覇王ではなく、祭祀をつかさどる祭祀王(プリースト・キング)だった」からであり、国の巨大化・複雑化と共に、祭祀と政治の両方の職務を司ることが困難になったために、政治の職務は他人にこれを代行させるようになったからであろう、と言われている。しかし、この村松説では、何故、祭祀職の方を誰か別の者に代行させ、天皇は自ら政治の方を司ることにしなかったのか、ということが説明できない。実際、世界中の古代社会の祭祀王たちは、祭祀職の方を部下に代行させ、政治権力の方を自分の手中に入れておくのが常であった。日本においても例外ではなく、律令の制度の初めの意図は、中央官庁を神祀官と太政官に大別し、祭祀職も政治職も共に天皇の直接の支配下におこうとしたのである。また、後醍醐天皇の例に明らかなように、権力を遠慮したのではなく、手中にしたくてもできなかったのである。日本の天皇制というものが、基本的には政治的権力の欠如した権威しか持たない制度になったのは、そうさせた力が、皇室の意志に反して、働いたからと考えなければならないだろう。そしてまた、皇室自体が、権威だけに甘んじていればその存続は安全であることをよく知っていたからであろう。要するに、日本歴史における様々な政治的諸力は日本の政治の中心(皇室)を実質的にはできるだけ無力にしておきたかったのである。


日本の神々

「神は人なり」と言ったのは新井白石である。300年前に日本が生んだこの一人のすぐれた合理主義的思想家によって、日本の神々は非神話化された。

神とは人である。わが国の習俗では、およそ尊ぶ人を「加美(かみ)」と呼んだ。いにしえもいまも、そのことばはたがいに同じである。これは尊尚という意味であろう。漢字を仮に用いるようになって「神」と記したり、あるいは「上」と記したりするというような分化も現れてくる。(新井白石『古史通』)
天照大神(アマテラスオオミカミ)という女神は邪馬台国の卑弥呼である、と言う説があり、今日一つの有力な説となっている。これも新井白石のいう「神は人なり」流の解釈にもとづく。卑弥呼はシャーマンであり、政治事は弟にまかせ、自分は神事をつかさどっていた。実は、このアマテラスという神もシャーマン的であり、何よりも最終的な神ではない。アマテラスや彼女の弟スサノオの上にはイザナギノミコトがあり、更にイザナギの上には「天つ神」と呼ばれる神々がいる。ところがこの「天つ神」も最終的な神々ではない。「天つ神」も卜占をしてお伺いをする神々である。それでは、この「天つ神」の上にどんな神がいるかと調べてみると、もう誰もいないのである。日本の神話には究極的な神が存在しない。このことに気づいたのは和辻哲郎であった。
天つ神の背後にはもう神々はない。しかもこれらの神たちがなお卜占を用いるとすれば、この神々の背後になお何かがなくてはならぬ。それは神ではなくしていわば不定そのものである。即ち最後の天つ神たちさえも不定者の現れる通路であって究極者ではない。究極者を神として把握しようとする意図はここにはないのである。……究極者は一切の有るところの神々の根源でありつつ、それ自身いかなる神でもない。いいかえれば神々の根源は決して有るものにはならないところのもの、即ち神聖なる「無」である。(和辻哲郎『日本倫理思想史』)
すると、日本の神々は祭られるだけでなく、おのずから祭る神々である。祭られるだけの神、つまりユダヤ教やキリスト教の神のように、能動的に支配だけする神は日本の神話にはいない。「神は人なり」という解釈方法を用いれば、そのような日本の神々の姿勢は古代日本の支配者の姿勢を現していると言えるであろう。もちろん、記紀の神々は、「国譲り」の物語などの例に明らかなように、意図としては、大和朝廷の支配者としてのイメージを物語ったつもりなのであろうが、それにもかかわらず、究極の支配者としての姿がそこに描かれ得ていないのは、日本の支配者の運命のようなものなのであろう。日本の社会にはおそらく究極の支配者をゆるさない見えない力が働いているのである。それは、縄文人たちが数千年もの長い間守り続けてきた空間広場の「環」の伝統からの見えないプレッシャーなのではないだろうか。それが後には十七条憲法に「物事は独断で行ってはならない。かならず衆と論じ合うようにせよ。」という形で表現される結果ともなったと考えられる。ところが、意識の上では、絶対的王制を確立するつもりであって、支配者が論ずべき相手とはもともと衆であったということなど完全に忘れているから、わが日本の天つ神たちは「無」にむかってお伺いを立てるという奇妙なことを演じることになったのである。


徳川幕府

弥生時代の王権理想をほぼ完成したのは、大和朝廷を受け継ぐ皇室ではなく、徳川幕府であった。徳川幕府は権力だけでなく、新しい権威ともなり、皇室はほとんど忘れられた存在となっていった。徳川幕府は儒教、特に朱子学を国家のイデオロギーとなし、四民階級制をつくりあげ、強力な中央集権制度を確立していった。和の思想、衆議主義ともっとも縁遠い社会ができたわけである。

それにもかかわらず、衆議思想は死に絶えることはなかった。六代将軍徳川家宣に仕えた新井白石は、当時、人々がさかんに落書きをしていた事態に関して次のような興味深い記録を残している。

御治世のはじめに、落書が多かった。延宝の時(家綱の時代)にも落書があったが、こんどほどのことはなかった。だから、老中の人々が、「落書が日に日にさかんになることはよろしくない。はっきり禁止すべきである」と言われたのに対して、上様は、「世間の人はこうした手段によって、はばかることなくおもうところを言うのである。だから、こうした落書の中から、余の戒めとすべきところもまた採用すべきこともあろうと思うので、たとえどんなことが書いてあっても、写し取って差し出せと近習の若侍たちには言った。みなもまたそれを集めて見るべきである。これらのことを禁止して、世論の道をふさぐことは、もっともよろしくない」と仰せられた。(新井白石『折りたく柴の木』桑原武夫訳)
この幕府の姿勢がやがて八代将軍吉宗のときに目安箱として制度化されていったことはいうまでもない。日本の独裁者が、「無」に対してではなく、衆に対してお伺いを始めたのである。


明治維新

以上のような、和の思想、衆議主義の長い伝統をわきまえていなければ、なぜ、日本が、日本だけがいちはやく西欧民主主義をまがりなりにも受容できたか理解できないであろう。

たとえば坂本竜馬なんか、ルソーを読んだことがないのに晩年の言動はルソーの思想が匂っている。幕府を倒すのが正義だと言うことについて、理論的な自信が必要でしょう。それはたった一つ、勝海舟から聞いた話からきている。アメリカの大統領は徳川のように世襲じゃない。それに大統領は下僚の給料の心配をするけれども、日本の将軍はどうだ……それだけ聞いて、竜馬は自分のいわば革命への主観世界をつくっちゃう。これは猛烈にエスプリのきいた話で、単純・軽薄といったことじゃない。日本人というのは猛烈に聡い民族なんですよ。(司馬遼太郎『司馬遼太郎対談集・日本人を考える』)
坂本竜馬が、民主制の思想に関してほとんど直感的に理解を示したのは、日本人が「猛烈に聡い民族」だからではなく、和の思想・衆議主義の思想の長い伝統が日本にあったからであろう。

維新政府は立憲君主制を樹立した。1868年3月14日、明治天皇は、由利公正、福岡孝弟、木戸孝允らの執筆による「五箇条の誓文」を誓った。明治政府の建国宣言である。その第一箇条は次のように述べる。

一つ、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
これはまさに十七条憲法第十七条(衆議主義)の復活といってよい。国家の方針は会議上の公論によって決定すべきことが、ここに再び国家の基本原理として正式に宣言されたわけである。この「五箇条の誓文」の草案を書いた由利公正は、1874年、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らと、愛国公党を結成し、連名で「民選議院設立建白書」を左院に提出した。それは様々な限界のあるものでありながら、国の政策と立法が民意によってなされることを目標にした自由民権運動の芽生えとなっていったのである。

もちろん、これらの運動に対して、神道の国教化の試み(1870)や、参謀本部を天皇直属機関にする決定(1879)など、天皇の権威と権力を強化しようとする運動があり、それがやがて日本を二つの大戦に導くことになる大きな理由のひとつになったことはよく知られているとおりである。この動きは、1889年に発布された大日本帝国憲法の

第一条 大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す。
第三条 天皇は神聖にして侵すべからず。
などに現れている。

由利公正草案の「五箇条の誓文」の第一条の思想(会議と万機公論主義)と大日本帝国憲法の天皇条項の思想との間にある矛盾は、かつての十七条憲法の衆議主義と天皇主義の矛盾をそのまま受け継いでいるのであって、明治維新が単なる「王政復古」でもなく、また自由民権運動も単なる西欧文明の輸入でもなく、むしろ、日本の長い歴史のなかで見れば、縄文人の空間広場の思想と弥生人の王権思想の矛盾した二つの伝統を、その矛盾を解消することができないまま引きずっていると考えるべきであろう。


最後に

文字のない古代の日本人の思想を検証するにどうしたらよいのだろうか。これはほとんど不可能な作業に思える。しかし、証拠のないことは事実のないことを意味するわけではない。そこで、何か別の方法による検証を試みなければならない。もし一つの仮説を立ることにによって、考古学的発見や日本史上の知られている現象が、以前よりうまく説明される場合、その仮説は「単なる憶説」から脱して「有力な仮説」として受け入れられるであろう。十七条憲法の和の思想の源流を探求してゆく場合も、この方法しかないと思われる。

わたしは、和の思想の源流が縄文時代の環状集落の空間広場を中心とした、衆議的政治形態にあったと仮定すると、それとまったく異なる弥生時代の文明との矛盾が浮き彫りにされ、この仮説によって、それ以後の日本の政治の矛盾、特に天皇制の特質などについても、興味深い説明が提供されるとおもわれた。つまり、女帝の出現、権威と権力の分立、十七条憲法の二大原理の矛盾、天皇制の存続(幕府と朝廷の両立や民主制と象徴天皇制の両立)などにみられるように、日本の政治史は、一方では絶対的支配権の確立を求めていながら、他方ではそうすることを許さない奇妙な別の力が同時に働いていたという、日本の政治史上において普遍的に見られる現象に関して、この仮説は一つの新しい説明を与えることができるのではないかと思われる。

本論はこの仮説の単なるスケッチにしかすぎない。