佐倉哲エッセイ集

日本と世界に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


再び金子悦二さんより

98年2月20日

1998年2月13日 読売新聞 教育欄 より

中学生がナイフで教師を刺殺したり、警官を襲ったりする事件が起き「キレる」子供たちをどう指導していくかが、今、問われている。そういう状況の中で「ぼくの意見を言いたい」と、大阪・清教学園高校1年、井阪僚(つかさ)君から投書が届いた。要旨を紹介したい。
もう我慢できなくなった。最近の一連の少年犯罪。この問題の解明をテレビなどのマスコミにゆだねていては現状維持はおろか、さらに悪化する恐れがある。親は子供のことなんか全然わかっていない。昔からある言葉だ。しかし、意味としては、以前と大きな差異があるように思う。

以前は、つまり高度成長の前は、親は夕食までには家に帰り、子供も一緒に食卓を囲んでいた。また、当時は個室もなかったし、親子が顔を会わす機会は今よりずっと多かったはずだ。

でも、今はどうか。両親は共働きで夕食にさえ、間に合わないこともある。子供だけの夕食だ。おまけに昨今、少子化が進み、一人っ子も多い。さらに塾もある。特に中学生は食事の時間をずらさなければならないことが多い。こうなると、一人での食事となってしまう。帰ってきたら、宿題をするために、またテレビゲームをするために部屋にこもる。

休日は外出。繁華街に出向く者、友人の家に遊びに行く者など様々だが、明らかに親と過ごす時間が少ない。いや、ほとんどない。要するに親は子供のことを知らない。さらに悪いことに、この家庭の変化を意識している親は少な過ぎる。このため、子供を自分のものとして扱う。しかし、子供は違う。「ふだんほったらかしのくせに」。そんな感情が芽生えてしまうのだ。

ぼくすら思う。しつけさえもきちんとしていないくせに、何かをやらかすと親は「限度を知らない」とか、「常識を知らない」とか言い張る。その結果、子供は親の意に反した行動をしてしまう。これは、ある意味で親の愛情に飢えていると言っても過言ではない。親は子供をわかっていない。いや、わかっていても行動に移せる親は皆無だ。へたに触ってはとげが出る。子供の機嫌をとるのに必死になっている。由々しき事態だ。

この原因は日本の産業の急成長にある。急成長で親が家庭を犠牲にした結果である。また、最近の受験事情にも原因があることは否めない。受験はストレスがたまるのに発散するところはない。こういうときにプロのカウンセラーが腕をふるうときだ。教師もこの免許を取っておいてほしい。

マスコミはこの本音をそのまま口にできないのか。ワイドショーで中学生らにインタビューしている。だが、14歳の少年少女がマイクを突然向けられて本音を答えることができるだろうか。実際の生徒にしかわからないことも数多くあるはず。生徒たちをスタジオに呼んで討論してみるべきだ。その際、生徒たちを、対等の目で「一人の大人」として見なければならない。

大人の勝手な振る舞いに踊らされてきた子供たちの心は荒れ果てている。このままでは日本は危うい。

コメント

実は私はこの文章のような事が言いたかったのです。井阪僚君はよく言ってくれたと思います。小学校や中学校の時は、勉強は学校ですればよい。放課後や家に帰ったら友達と一生懸命遊ぶことが大切だと思う。最近は少子化で友達が少ないことも手伝って家に帰っても部屋へこもってテレビゲームなどをして遊ぶことが多いのだと思う。

確かに、少年事件を社会や学校や家庭の環境のせいにすれば、親の親の問題にぶつかりますが、未成年の少年犯罪を当人の責任とするあなたの考え方にも問題が残るのではないかといろいろ考えています。

この問題は奥の深い問題と思われますので、よく考えて機会あるごとに話し合ってみたいと思います。

以上。


作者より金子悦二さんへ

98年3月5日

わたしは、親は、子どもが自分で生活できるようになるまで衣食住をあたえて育てることができれば、親の責任は十分全うしたのだと思っています。また、教師は、それぞれの専門の科目の知識と技術を教授することができれば、教師の責任は十分全うしたのだと思っています。

親や教師にそれ以上のものを要求するのはおおきな誤りだと思います。なぜなら、愛や徳の問題は知識や技術の問題とは根本的に異なっていて、「はい、みなさん、それでは、今日から愛を持って子どもたちに接しましょう」といって、できるようなシロモノではないからです。親も教師も神様ではありません。人間というものは、親であれ、教師であれ、カウンセラーであれ、誰であれ、それぞれ自分なりに、一生懸命生きるだけです。愛や徳は、人がそれぞれ自ずから学ぶものであって、他人に教えることができるようなものではない、と思われます。

どんなに、理想的な親像や教師像を声高らかに叫んでも、この問題を解決するには、何の役にも立たないでしょう。人間はどんなにがんばっても神様にはなれないからです。わたしは中学生の頃、世界中の大人すべてを殺して、子どもたちだけで社会をつくれば、どんなに良い世界ができるだろう、などととんでもないことを想像していたことがありますが、この考えは、やがて自然消滅していきました。「汚い」「卑怯な」「自分勝手な」大人たちの性質を、やがて、まだ大人に成りきってもいない自分自身の心の中にわたしも発見せざるを得なくなっていったからです。

この投書の高校生も、人間というものの愚かさに、いささかの哀れみでも感じるようになるとき、また、人類がいかにこの愚鈍さと向き合って生きてきたのかを、歴史上の数々の人物の生き方や考え方から学ぶようになるとき、「このままでは日本は危うい」というような、かなり高熱気味の感情もやがて彼から消えて行くことでしょう。愚鈍のまま、しかも、なんとか共存しづづける知恵もまた、人類が身につけていたことを、彼もまた学ぶだろうからです。

ご意見、ありがとうございました。