佐倉哲エッセイ集

オウム信者と住民

佐倉 哲


わたしは、オウムの仕掛けた犯罪は凶悪なものであり、オウムの思想はくだらないものだと思っています。しかし、ただオウム信者(オウムだけではありませんが)であるからといって、居住権を認めなかったり、信者の子供の教育権を認めない市町村のやり方など、とても認められません。

2000年 1月28日



わたしは、オウムの仕掛けた犯罪は凶悪なものであり、オウムの思想はくだらないものだと思っています。しかし、ただオウム信者(オウムだけではありませんが)であるからといって、居住権を認めなかったり、信者の子供の教育権を認めない市町村のやり方など、とても認められません。すべてのオウム信者が犯罪者だというわけではないからです。ましてやその子供たちには何の罪もありません。犯罪者の家族の一員である、友人である、仲間である、ということで人を犯罪者扱いにするのは明らかに非論理的で不正な行為です。なんの罪もない者たちを害することにおいて、この住民達は、地下鉄でサリンをまいたオウムの信者と同じ犯罪を犯しているのです。

それだけではなく、たとえ住んでいるオウム信者たちが犯罪者であるとしても、彼らを罰するに法によらずして自らの手でそれを行うのはリンチであり、そのこと自体が重大な犯罪であり、人類が築いてきた法治文明への挑戦です。そのことにおいても、自らの手で敵対者を殺して問題の解決を図ろうとしたオウムの信者の犯した犯罪と同じであるといえるでしょう。

いったい何のために警察が存在しているのか、わたしにはまったく理解できません。警察は強制的にでもその権力を行使して、違法行為を行う「住民側」から、オウム信者の居住権やその子供の教育権をまもる義務があると思います。そして、それをしない警察は犯罪者に協力している犯罪者であると言わねばなりません。もし、警察をしてオウム信者の居住権やその子供の教育権をまもらせることができないなら、それは政府の責任であり、そのような法をまもらない政府など政府の役目を果たしていないのだから、国民はそんな政府は変えなければなりません。もし、国民がそのような非合法的政府を許すなら、そのような国民はサリンをまかれて殺されるという非合法的な目に会っても文句は言えないでしょう。

どんなに危険な思想や宗教を信奉しているとしても、本人が犯罪を起こさないかぎり、他の日本人に許されている自由を、その人から奪うことなど許されるべきではないと思います。 (「和の思想と言論の自由」参照)