聖書の間違い

FAQ

「聖書の間違い」に関してよく聞かれる質問

佐倉 哲


2003年11月27日


質問 「聖書の間違い」シリーズは何が目的ですか。

聖書には間違いがあるかどうかを調べることです。くわしくは、「はじめに」をお読み下さい。

質問 クリスチャンですか。

かつてはキリスト教徒でしたが、いまはそうではありません。いわゆる棄教者です。しかし、わたしは(自称)内村鑑三の弟子です。

質問 キリスト教撲滅運動ですか。

他人の考え方や生き方を変えてやろうと考えるような人間にだけはなりたくないものですね。 「聖書の間違い」シリーズは、わたしにとっては、かつて自分がキリスト教徒であったとき以来もちつづけてきた一つの疑問に、みなさんの意見を聞きながら、わたしなりに決着を付け、「わたしはどうするのか」という問いにたいして実存的決断をくだすためのものです。 「浜田さんへ」、「沖広さんへ」等も、参照して下さい.

質問 翻訳書や写本の間違いを指摘しても、本来の聖書の批判にはならないのではありませんか。

いまでは誰も見ることのできないオリジナルの聖書を賛美しても批判しても何にもなりません。わたしたちの手もとに届いた聖書、信仰者の日々の霊の糧であり、キリスト教徒が内心「これこそが神の言葉」と信じている、その<わたしたちの手もとにある聖書>こそが、わたしの研究の対象です。この問題に関しては「河村さんへ」で詳しくわたしの意見を述べていますので参照して下さい。

また、原語文ではなく訳文を使用することの問題点を指摘して下さった「狸さんへ」で述べましたように、原語文ではなくむしろ翻訳聖書を使用する研究の利点についてのわたしの考えもぜひ参照して下さい。

質問 なぜ、重箱の隅をほじくるような、くだらない「聖書の間違い探し」などしているのですか。

聖書はすぐれた宗教書であって、たしかに高尚な課題で向き合うにふさわしい豊穣な書です。「聖書のあら探し」といった低俗なことは普通の人間には恥ずかしくてできません。だから、誰もやりたくないその低俗な作業をマジでやっているところが、この「聖書の間違い」シリーズの特徴となっているわけです。 「渡辺さんへ」など参照して下さい。

また、高尚な作業にくらべて、「聖書の間違い探し」のような低俗な作業が、はるかにすぐれている事が一つだけあります。キリストによって人間は救われるのかとか、イエスが神であるかどうか、といった「高尚な課題」にはいつまでたっても全ての人が納得できる答えは絶対にでてきませんが、数の違いのような「低俗な問い」は、いますぐにそれが間違っているかどうかに決着を付けることができるからです。くわしくは、聖書は科学書ではないと反論された「ひとしさんへ」でのべた<低俗な作業のパワー >を参照にして下さい。

さらに、重箱の隅をほじくるような些細な「聖書の間違い探し」は、決して、救済論やキリスト論などの「高尚な課題」と無関係なわけではありません。それら「高尚な」教理がよって立つところの土台(真理の根拠あるいは権威としての聖書)そのものを崩壊させるからです。「結論」を参照して下さい。

質問 クリスチャンをやめたそうですが、棄教後の気持ちを聞かせて下さい。

神やキリストや未来の世界などについて、本当は自分は何も知らないくせに、あたかもなにか知っているかのごとく確信しふるまわなければならない苦痛からの解放です。本心から信じることのできない様々なキリスト教ドグマを、自らの救いのために、あれこれとアクロバット的な正当化を施して信じなければならないやましさからの解放です。信じることのできないものは「信じられない」、間違っていると思われるものは「間違っている」、あやしいものは「あやしい」、知らないものは「知らない」と、そのまま自分の心を表現できる自由です。この開放と自由は、ほんとうにすばらしいものなので、いかなるバラ色の救いの約束も、とても色あせて見えます。

質問 これからも聖書を読みますか。

もちろん読みます、聖書はおもしろいですから。ただし以前ほど聖書に特別の時間を与えることはもうないでしょう。それはもうわたしにとって特別の書ではないからです。