はじめまして、沖広 鍋勝といいます。

『聖書の間違い』大変楽しく見させていただきました。 しかしながら、少々気になるのですが、なぜ全員に同じ反論(意見)を 示すのですか?

このサイトにおいて問題になっているのは、すべての聖書が一語一句 の間違いもなく、すべて正しいと考えている方に向けられているように 受け取りました。 しかしながら、このようなメールの受け答えにおいては、サイトの対象と していない人たちに対して話しているような気がするのです。 なぜ、対象としている人を絞り込んでの理論を展開しないのですか? Tadさんとの論争を見ると、どう考えても対象が当初目的とされていた 方々より広がっているように見受けられます。 盲目的に信じている人への警告として、また皮肉をこめた読み物とし てこのサイトは楽しいものですが、一番最初に書かれている目的は 外れないようにしなければ、主義、主張は不毛な意味のないものと なってしまいます。

佐倉さんの理論展開、引用はすべてすべての聖書が一語一句の 間違いもなく、すべて正しいと考えている方にしか適用できません。 なぜなら、『原書は正しく、間違いはない』といわれればそれで終わり なのです。 失われている原書に問題があったのか解らないでしょう? カラスがすべて黒いわけではない事を立証したくても、カラスが 絶滅してしまっていたら立証できますか? 対象が明確でないままの論議は平行線をたどります。 論議することに異議があるといっても、お互いの主張が目的を 違えているのでは論議ではありません。

あらためて問います。 なぜ本来対象としていない人への受け答えに同じ理屈を持ち出すの ですか? 同様のことが、質問反論をする人にも言えます。 はじめにの中の目的を読めば、誰が対象は明確なはずです。

インターネットの普及に伴い、多くの人の多くの意見が自由に流れ、 それを目にすることができます。 しかし、そのすべてが自分に向けられているとは考えるべきではない でしょう。 情報が自由に流れるのだからこそ、受ける側もまた発信する側も 注意するべきです。

いろいろ偉そうなことを書いてしまいました。 この意見も、自分が佐倉さんの対象を読み違えていたら何の 意味もないんですよね(^_^;) 間違っていたらすいません。

ともあれ、主張することはいいことだと思います。 これからも風当たりは強いでしょうががんばってください。

確かに、わたしの「聖書の間違い」シリーズの各本論において、わたしが吟味・批判の対象としているのは、聖書にはいかなる誤謬もない、という主張です。しかし、わたしが望んでいる読者対象は、「聖書にはいかなる間違いもない」と主張する人たちではありません。もちろん、そういう人たちも含まれますが、わたしの読んでいただきたいと思う読者対象は、このテーマに関心を持っている方すべてです。

はじめに」については、もう、何度かいろいろのところで繰り返しましたが、それは、わたしが聖書の間違いに関する諸論をインターネットで公開しているのは、キリスト教撲滅運動でもしているのではないか、といったご質問をいただいたので、それにお応えするために書いたものです。わたしは、いろいろな観点から、キリスト教を批判しますが、キリスト教撲滅運動などにはまったく興味がないのです。

さらに、「作者よりただのひとさんへ」においては、わたしの目的は「聖書にはいかなる間違いもない」と主張する人たちを批判することでさえもないことを、よりくわしく説明しました。詳しい説明はここでは繰り返しませんが、結論を言えば、わたしが拙論を公開しているのは、わたしの主張を他人の批判・吟味のまないたに載せることである、ということになります。したがって、投書される方と、たとえば、おそらく、わたし自身の考え方と非常に近いと思われる「ただのひと」さんのような方とさえ、さまざまな論争を展開するようになるのは、自然の流れです。もちろん、批判ばかりではなく、たまには少しぐらい賛成意見も聞きたい、というのが本音でもありますが(^^)、賛同者ばかりの中では、何の発展も期待できません。