友達から「結構本格的だよ」って聞いて、見てみたんだけど「何だ結局素人じゃん」って感じ。

幾つかのやつはそりゃそうじゃんって感じで、今更ぎゃーぎゃーいうほどの事じゃないもの。「復活記事の矛盾」とかね。聖書に誤りがないっていうのは、数学的に間違いがないって意味じゃないの。だって聖書は数学の教科書でも、化け学の教科書でもないんだから。聖書の中にだっていろんなジャンルの本があって、詩は詩、古代歴史書、物語は物語、預言者の説教は説教、黙示文学、使徒の手紙は手紙、伝記文学は伝記、それぞれそのジャンルの物差しで計らないと「荒唐無稽な作り話」って簡単に言えちゃうわけ。ドゥーユーアンダースタンド?

ちなみに福音書は伝記文学に入るわけ、同じ人の伝記でも誰が書くかでびみょーに人物像が違ったり、同じ事件の捉え方、そのことが主人公にどんな影響があり、意味があったかの描き方、解釈が変わってくるし、どの資料やどんな人の証言を用いたのか、また、編集時の著者の解釈が入るでしょ。(このことは歴史学の常識、あらゆる歴史記述、高校の教科書だって免れないノンフィクションの掟、いわゆる「史観」ってやつね)

だから「四福音書の復活記事に矛盾があるからって、イエスは復活しなかったってことにはならないし、モーセが虫の足の数を数え間違えてるからって十戒の倫理「偶像を作ってはならない・・・父母を敬え、殺すな、浮気するな、盗むな、・・」はまもらなくったって良いとはならないし。

「天地創造の記事が二つある」からって神が天地を造ったのでもなければ、神などいない。とはなないわけね。ちなみに創世記1章と2章は視点を変えて1章では全体を、2章では人間を中心にして書いてるってだけ、それから1章は、「天地創造の詩」だから、科学的にどうこうなんて言わないでねー。

まあ全体の感想は、こんな感じ、「素人過ぎ!」って思ったのは、「カインに関する神の予言」16節でカインは神様のところから去るでしょ。そんで、彼の子孫は繁栄するけど、最後のレメクってちょー悪もんじゃん。彼は、カイン一族の特徴を象徴してるわけよ。だから、そんな人生結局「さまよってるだけじゃん」偽りの繁栄じゃん、家があったって、奥さんが二人もいたって、金と権力がいくらあったって、神から離れた人たちは「心は寂しいさすらい人」の一族だって言いたいわけ。文学的な表現なんだよ。そう読むと感慨深いっしょ。

そんでさ、この文章書く前に、何冊の注解書見たの。いくら創世記は複数の記者の手によるもので、11章までは口伝のをまとめた物だって言っても、ひとつの物語の中に意味が成立して無いなんてあり得ないでしょ。

ちなみに創世記の文学ジャンルは歴史文学、あるいは歴史小説ってところかな。君のやってる事は「ウサギも亀もしゃべらなない。だからイソップ童話の教訓は嘘だ。」って言ってる中学生みたいだよ。僕もファンダメンタリストの人たちの聖書観には、問題を感じるけどね。(彼らの場合、ウサギと亀の教訓は真理だから、昔は喋る動物がいたに違いない。って言ってるのに近いから)

そんなわけで僕は神の創造も、イエスの再臨も、信じてるし、聖書全体を僕の思考と生活の基準と本気で思ってるよ。それは聖書崇拝じゃなく、以上述べたような意味で、聖書は誤りの無い真理の書物として、神が人を通して人に与えた唯一の書物として認識してるからだよ。

そんじゃあ反応まってます。

同じ趣旨のご意見はすでに、小石祥子さんから「寓話としての聖書」と題したお便りとして、いただいており、ひとしさんのご意見も、特別に新しいものはなく、基本的に同一のご意見なので、わたしの対応は重複するところがあります。


1.低俗な作業のパワー

聖書に誤りがないっていうのは、数学的に間違いがないって意味じゃないの。だって聖書は数学の教科書でも、化け学の教科書でもないんだから。・・・モーセが虫の足の数を数え間違えてるからって十戒の倫理「偶像を作ってはならない・・・父母を敬え、殺すな、浮気するな、盗むな、・・」はまもらなくったって良いとはならない・・・
「神と人との関係」、「罪と救い」、「律法と愛」、「許しと再生」、「死と永遠の命」等々、わたしたち人間の生き方を大きく作用する高尚な問題が聖書には沢山ある。そこが聖書の本質というものだ。聖書の語っている事柄の位相といういものは、「モーセが虫の足の数を数え間違えてる」なんて低俗な問題ではない。虫の足の数とわたしの人生とどんな関係があるの?--- まったく、おっしゃる通りです。

わたしがやっている聖書の間違い探しは、きわめて低俗な作業であって、普通の学者なら、とてもはずかしくてできないことです。ちょっと想像してみてください。もし、聖書学者の学会で、ある学者が

列王記下(8:26)の記録によれば、アハズヤがユダの王となったのは二十二歳の時であったとしていますが、歴代誌(22:2)の記録では、四十二歳のときであったとなっています。また、エズラ書(2:5)の記録によれば「バビロンから自分の町へ帰還した」アラの一族の男子の数は775人であったとなっていますが、ネヘミヤ記(7:10)によればその数は652人であったとなっています。その他にも沢山このような例があります。だから、聖書には間違いがあることがわかります・・・
などと発表したら、大爆笑を引き起こすか、失笑を買って同情の目を一身に受けることでしょう。

少しでも知性のある者なら誰でも、聖書という極めて内容の豊富な宗教書に関しては、たとえば、「アダム神話の象徴論的解釈」とか「イエス運動の社会学」といった風な、何か深遠そうなことを語ってみたいものです。聖書のあら探しなどという低俗なことは誰もやりたくない。

ところが、「虫の足の数を数え間違えているか」を調べるというような低俗な問題には、実は、「人類はキリストの血によってその罪を許されるか」などを考える高尚な問題にはまったく欠けている、きわめて優れたところが一つだけあります。それは、正しいか間違っているかが誰の目にもはっきりわかるというところです。

「二十二歳」と「四十二歳」が同じでないこと、また「775人」と「652人」が同じでないことは誰の目にもあきらかですが、「イエスが神の子かどうか」、「イエスの死が人類の罪を贖うかどうか」などという問いは、誰にとっても、明らかなことは何一つありません。このように、すべてキリスト教の高尚な問題 --「天地は神によって造られたのか」、「人間は生まれながらに罪人か」、「イエスはキリストか」、「信仰によって人は救われるか」等々の問題は、百年経っても、千年経っても、万年経っても、いつまでたっても、それが真実であるかどうかは、誰にも確定することはできません。人間の認識のとどく領域を越える形而上学的な話だからです。つまり、この点において、「虫の足の数を数える」のような低俗な作業は、圧倒的に優れているのです。虫に何本の足があるかは、みんなの目の前で、今すぐ、はっきりと決着をつけることができるからです。ここが、低俗な作業がパワーを発揮する地平です。この地平では、キリスト教のすべての深遠な主張はまったく無力です。


2.クリスチャンが聖書をたんなる寓話として読むことのできない事情

君のやってる事は「ウサギも亀もしゃべらなない。だからイソップ童話の教訓は嘘だ。」って言ってる中学生みたいだよ。
クリスチャンは、聖書について書かれた説明書(聖書を賛美する書)はよく読むけれど、聖書そのものはあまり読まないので、この手の護教論にたやすく騙されてしまうのでしょうが、聖書そのものに一歩踏み込んでみると、誰でも、聖書を書いた当の本人たちは、マジで、それらを歴史的事実として書いている、という単純な事情を見いだすことができるでしょう。たとえば、ルカ自身が「わたしたちの間で実現した事柄」についてその福音書に記録した(ルカ1:1)と述べているように、あるいはまた、マタイが、イエスが特別の人物であることを示そうとして長い系図を書きとどめているように、それらは明らかに歴史的事実として書かれているのであって、はじめから意図的に創作として書かれたイソップ童話とはぜんぜん事情が異なるわけです。したがって、聖書の記述を事実の地平のまな板の上でじっくり吟味することは妥当なことです。

さらに、わたしが事実の地平から聖書を吟味する第二の理由は、聖書を読むクリスチャンたちにとって、じつは、聖書を寓話としてだけでなく、どうしても事実の書として読まなければならない決定的な事情、すなわち、聖書に書かれている歴史的事件がクリスチャンの救済の根拠となっているという事情があるからです。たとえば、イエスは彼を信じる人々の<罪の許し>と<永遠の命>のために、十字架にかかって死に、三日後に復活した --- ということがもし歴史的事実でなく、単なる寓話であるとしたら、キリスト教の言う意味での救済というものはなくなってしまうのです。

天地が神によって創造されたのではなかったとしたら? アダムを通して罪が人類に入ってきたのではないとしたら? イエスは神が遣わした救い主ではなかったとしたら? イエスの死は人類の罪の贖いではなかったとしたら? イエスは死から復活などしなかったなら? イエスは再臨などしないとしたら? 終末などというものは来ないとしたら? すなわち、もし聖書におけるこれらの記述が事実ではないとしたら、キリスト教の救いは成立しなくなります。

だから、パウロは語ります。

キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です。・・・キリストが復活しなかったのなら、あなた方の信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。

(コリントの信徒への手紙、15:13〜17)

このように、聖書の記述は、イソップ童話のような創作ではなく、歴史的事実を伝えているものであると考えなければ、キリスト教は成り立たないわけです。そのために、クリスチャンたちは聖書を単なる寓話として読むことができず、歴史的事実を書いているものとして読まざるを得ないのです。

だから、ひとしさんも、一方では聖書寓話説を取りながら、他方では、神やイエスについての記述は、単なる作り話としてではなく、事実として読み取らざるを得ないわけです。いくら、

「天地創造の詩」だから、科学的にどうこうなんて言わないでねー。
と言っても、「天地の素晴らしさを賛美しているだけであって、別に神が天地を創造した事実を述べているのではない」といった解釈は、クリスチャンであるひとしさんには許されておらず、結局のところ、
僕は神の創造も、イエスの再臨も、信じてる・・・
というところに戻らなければならないのは、神が天地を創造した創造主であることが、単なる物語としてではなく、歴史的事実として、クリスチャンの救いにとってなくてはならない要素だからです。

要するに、聖書寓話説をハットの中から取り出して、それで聖書批判者をうまく煙にまくことができたとしても、クリスチャンたちは、うちに帰れば、かれら自身が、結局のところ、どうしても、聖書を歴史的事実を書いている書として読まざるを得ないのです。証拠を消したと思っても、自分自身が犯行の目撃者である事実は消せないのと同じです。他人はごまかせても、自分はごまかせません。それが、聖書寓話説の限界です。

そして、クリスチャンが聖書を歴史的事実を書いてた書として読まざるを得ないところに、聖書の間違いの問題が大きな意味を持つのです。単なる寓話なら、「事実か否か」などという問題はありえませんが、歴史的事実を書いていると主張するなら、「事実か否か」という問いは意味を持つからです。こうして、聖書が事実を書いているのかどうかを吟味する低俗な作業は、クリスチャンにとって、きわめて重大な作業になるのです。


3.聖書の間違いは何を意味するか

四福音書の復活記事に矛盾があるからって、イエスは復活しなかったってことにはならない・・・
もちろんそうですが、そんなくだらない論理はわたしの主張にはないのですから、こんなのはわたしの諸論に対する批評にはなりません。むしろ、そこから、「そんなわけで僕は神の創造も、イエスの再臨も、信じてるし、聖書全体を僕の思考と生活の基準と本気で思ってるよ」という結論に飛躍しちゃうところに、おそまつな論理の展開があります。

「四福音書の復活記事に矛盾があるからって、イエスは復活しなかったってことにはならない」のは当然ですが、そこから、「だから、イエスは復活した」という結論は出てこないのです。同様に、創造の順序が科学的事実と食い違っているからといって、神が天地を創造しなかったことにはならないのは当然ですが、そこから、「だから、神は天地を創造した」という結論は出てこないのです。

では、四福音書の復活記事の矛盾やその他の聖書の間違いはいったい何を意味するのか。その意味するところはこうです。すなわち

「聖書に書いてあるから」という理由で、それが事実であるとは、もはや主張はできない
ということです。いままで信じられてきたように、もし、聖書が神の言葉でいかなる間違いもないとしたら、確かに、「聖書に書いてあるから」という理由で、真理の主張をすることができます。しかし、今や、聖書には事実報告に関して、間違いがあることが明らかになったのです。ですから、「聖書に書いてあるから」という理由は、もう真理の根拠にはなり得ないわけです。

たとえば、四福音書の復活記事には矛盾があります。つまり、イエスの復活を証言する人々の間に矛盾があります。このことは、イエスの復活の証言のなかには、事実と食い違う証言が存在することを意味します。このことは、もちろん、イエスの復活はなかったなどという結論にはなりませんが、イエスの復活に関する聖書の証言は信用できないことを意味します。このことは、イエスの復活の事実性を、「聖書に書いてあるから」という理由では主張することはできないことを意味します。

しかるに、いまでも、クリスチャンたちがこれらのことを主張する唯一の根拠は「聖書に書いてあるから」ということだけです。それは、ひとしさんも同じでしょう? つまり、「聖書に書いてあるから」という理由だけでは、「神の創造も、イエスの再臨も、信じ」る根拠にはならないことが「聖書の間違い」によってすでに明らかになっているのに、ひとしさんは、まだ、「聖書に書いてあるから」という理由だけで「神の創造も、イエスの再臨も、信じ」ておられるのです。


4.まとめ

すでに長くなりましたので、以上のことを、簡単にまとめておきます。

主要点は以上です。あとは、付録ですから、読んでいただいても、読んでいただくなくても結構です。


5.付録「ファンダメンタリストのごまかし術の見破り方」

(1)ごまかし術 その一:<矛盾>をそっと<相違>に置き換える

ちなみに福音書は伝記文学に入るわけ、同じ人の伝記でも誰が書くかでびみょーに人物像が違ったり、同じ事件の捉え方、そのことが主人公にどんな影響があり、意味があったかの描き方、解釈が変わってくるし、どの資料やどんな人の証言を用いたのか、また、編集時の著者の解釈が入るでしょ。
同じ事柄でも、それを見る人によって、いろいろな違いがあるのは当たり前である。二人の意見が異なっているからといって、その二人の意見が間違っていることにはならない。たとえば、円すいを真上から見た人は「それは丸く見えた」と報告し、それを横から見た人は「それは三角に見えた」と報告するかもしれない。二人の報告は異なっていても、どちらも間違ってはいない。それぞれの違う視点から同じものが異なって見えているにすぎない。だから、相違しているからといって、間違っていることにはならない。そうおっしゃりたいわけです。

ここで使われているごまかしのトリックは、<矛盾>をそっと<相違>に置き換えるという手口です。ファンダメンタリストたちの間でたらい回しにされているトンデモ本にはかならずと言っていいほど使われている古いトリックで、特に、イエスの生涯を伝える四つの福音書の矛盾を正当化するために使われていますが、一見もっともらしいので、簡単に騙されるクリスチャンも少なくないようです。本サイトでもおなじようなご意見を繰り返し繰り返しいただきます。たとえば、K.M.さんからの「福音書に対する貴殿の見解に対する反論」などがそうです。

なにがここでごまかされているかというと、<矛盾>とは、単なる<相違>ではなくて、一方が事実であるとすると他方は必ず事実ではあり得ない事態を示す<特別な相違>のことであり、したがって、少なくとも一方は必ず間違っている事になる、という事実が隠ぺいされているのです。

たとえば、同一人物(アハズヤ)が同時に(王になったとき)「二十二歳」であるとともに「四十二歳」であることは不可能なわけで、このことから、少なくとも一方は必然的に間違っていることが帰結されるわけです。こういうのを矛盾というのです。しかし、聖書を神の言葉であると信じたいクリスチャンにとって、矛盾は困るのです。そこで、批判者が「矛盾」について語っているのに、それをひそかに「相違」に置き換えて応答する話術のトリックが生まれたわけです。そうすれば「間違っているとはいえない」などという錯覚を引き起こすことができるからです。

真実を知ることには興味がなく、すでに信じているドグマを正当化してもらいたいばかりのクリスチャンたちは、「わたしの信仰を正当化してくれそうな」美味しそうな餌を目の前にぶら下げられると、おもわず喰らいつき、簡単に騙されてしまうのです。

(2)ごまかし術 その二:ファンダメンタリストとは文字通り主義者だ、と思わせる

僕もファンダメンタリストの人たちの聖書観には、問題を感じるけどね。(彼らの場合、ウサギと亀の教訓は真理だから、昔は喋る動物がいたに違いない。って言ってるのに近いから)
間違いの指摘が当てはまるのは、一部の偏狭なファンダメンタリストの聖書を文字通り読むという浅薄な読み方だ。自分たちは聖書を文字通りには読まないのだから、ファンダメンタリストではなく、間違っているという指摘も当てはまらない、と言いたわけです。

しかし、ファンダメンタリストとは、聖書を文字通りに解釈する人々のことではありません。また、問題の本質は聖書を文字通りに解釈すべきかどうかというところにあるのでもありません。キリスト教ファンダメンタリズムに関する古典、オックスフォード大学のジェームス・バー教授の『Fundamentalism』(The Westminster Press 出版)によりますと、次のように説明されています。少し長くなりますが、ファンダメンタリズムの問題は文字通り主義にあるとか、自分はファンダメンタリストではないと思い込んでいるファンダメンタリストが多いので、引用しておきます。

ファンダメンタリストの聖書解釈はどの点において他の人々の聖書解釈と異なっているか? このような質問に対して素人は、しばしば、「聖書を文字通りに解釈する」、などと答える。しかしそれは事実からほど遠い。ファンダメンタリストとそうでない人々を区別しているものは、文字どおり主義かどうかではなく、誤謬性に関するものである。たとえファンダメンタリスト自身が「文字通りに解釈する」と言っている場合でさえも、事実はそうではない。ファンダメンタリストが強調するのは、聖書は文字通りに解釈すべきであるということではなく、いかなる誤謬も含まないように聖書は解釈すべきである、ということである。聖書にはいかなる間違いも含まないという目的を達成するためには、彼らは、文字通りの解釈と文字通りでない解釈の間を無原則にいくらでも行ったり来たりする。ファンダメンタリストの聖書に関する最も主要な主張は、聖書は神によって書かれたものであって、それはいかなる誤謬も含まない、ということなのであって、聖書は文字通りに解釈すべきである、などということではない。それは彼らの文献に明らかである。

・・・よく引き合いに出される例を挙げると、今日のほとんどの保守的意見は創世記における創造物語を文字通り解釈しようとはしない。文字通りに解釈すれば、世界の創造はわずか6日6晩で行われたことになるが、かれらの文献によれば、そうではない。むしろ、「一日」を文字通りに解釈することに対する危険性や困難が述べられている。New Bible Commentary (Inter-Varsity Press, 2nd ed. 1954, p.77) において、E.F.ヶヴァン氏はそれを「普通の一日」と解釈することは「真の困難」をもたらす、と書いている。・・・・「多く」はそれぞれの一日を「24時間」としてではなく「地質学的期間」としている、という。

[中略 ここでジェームス・バーはその他のファンダメンタリスト文献からも例もいくつか挙げている。]

ここに見られるのは、創世記1の文字通り解釈よりも象徴的解釈の方である。ファンダメンタリストのなかのひとにぎりの過激派だけが、まだ文字通り解釈をしているだけである。このようになった理由は明白である。・・・・何が起きたかというと、地球の形成が極めて長期間を要したものであったという科学的見解が否定できないほど強力となったからである。文字通りに解釈すれば、ファンダメンタリストのインテリ達が今では受け入れているこの科学的見解に反することになってしまう。そうすると、聖書には間違いがあることを認めざるを得なくなってしまう。それを避けるために、保守的インテリ達は文字どおりではない解釈をせざるを得なくなる。それだけが、聖書の無誤謬性を救うことができるからである。

100年ほど前ならば、おそらく、多くのファンダメンタリストは文字通り主義を貫いていたであろう。もし、聖書の文字通り解釈と科学的見解が異なる場合は、かれらは、むしろ、科学の見解を捨てていたに違いない。・・・・

[中略 ここでジェームス・バーは、創世記における七日を一週間と解釈しないことが不自然であることを指摘し、そのあと、創造物語以外の例を挙げている。]

こういうわけで、最初の例にも見たように、あきらかに、ファンダメンタリストの聖書解釈は文字通り主義ではなく、むしろ、文字通り解釈と文字通りでない解釈の間でさまざまま解釈を施している。このさまざまな解釈を導いている彼らの聖書解釈の本当の原則は、聖書は無誤謬で、いかなる間違いもあってはならない、というものである。無誤謬性は、このように聖書解釈の様相を常に変えること、とくに、必要ならば文字通り主義を捨てること、によってのみ保たれているのである。

(James Barr, Fundamentalism, The Westminster Press, 第三章より、佐倉訳)

「ファンダメンタリストが強調するのは、聖書は文字通りに解釈すべきであるということではなく、いかなる誤謬も含まないように聖書は解釈すべきである、ということである。聖書にはいかなる間違いも含まないという目的を達成するためには、彼らは、文字通りの解釈と文字通りでない解釈の間を無原則にいくらでも行ったり来たりする。」

ジェームス・バー氏の洞察の正しさは、実に見事に、ひとしさんのようなクリスチャンに当てはまります。ひとしさんの聖書解釈とは、要するに、

聖書が書いていることを、書いてあるままに解釈すると、聖書に間違いがあるという事態に陥ってしまうので、そういう場合は、書いてあるままに解釈してはならない。ただし、間違いがあるということにならなければ、書いているままに解釈してよろしい。大切なのは、聖書が何を語ろうとしているかを知ることではなく、聖書には間違いがないように解釈することである。
ということだからです。

「間違っているのは聖書を文字通りに解釈する偏狭なファンダメンタリストだけであり、自分たちはそうではない」、という言明こそが、実は本物のファンダメンタリストの典型的なごまかし術なのです。このトリックの目的は、「聖書を正しく解釈すれば聖書には間違いがないことがわかるだろう」という錯覚を生みだすことにあります。しかし、それはトリックの生み出す虚像であって、カインの解釈の例に見られるように、「誤謬が含まれないようにするためには、聖書はいかようにでも拡大解釈すればよい」というのがその実像なのです。