聖書の間違いに関しての佐倉さんの間違い

こんにちわ
河村と申します。

貴方の論文は可笑しいですね。 読んでて笑ってしまいました。 (怒らないで下さいね・・・他意は有りません) ではその間違いを下記に記しましょう。

まず現在有る聖書が書かれた当時と同じである事がそもそもおかしい。 長い時を経て現在は使われてない言葉すら有る。 それらを正確に訳す事が出来る方がおかしいのでは?? ましてや、聖書を使う宗教が多いのであれば尚更でしょう。 訳す人も何人も居るわけだから。 つまり現在有る聖書が書かれた当時の聖書で有るとは限らないんですよ。 だから今の聖書に間違いが有っても当たり前でしょ。

だったら貴方の言う

「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであ るから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味するこ とです。たとえ神の導きを仮定したとしても、実際に聖書の各書を書いたのは不完全 な人間なのですから、それはきわめて疑わしい主張のように、わたしには思われるか らです。」
は成りたたないって事になる。

以上です。
御返答お待ちしております。
敬具



「聖書が間違っている」というわたしの批判は、写本や訳本の聖書に対する批判にすぎず、オリジナルの聖書に対する批判ではないのだから、無意味な批判である、という主旨の投稿は、河村さんで四人目です。

久保有政さんより(97年6月16日)

キリスト教においては、聖書は「原本において」誤りがない、と信じられて います。誤りがないと信じられているのは、神の霊感を受けて書かれた聖書の「原本 」だけです。写本や訳本には、誤りがあり得ます。写本の場合は、人間的な写し間違いであったり、訳本の場合は、意味の取り違い、あるいは翻訳上のミスなどです。したがって、訳本間の意味の食い違い等を指摘して「聖書にも誤りや矛盾があるじゃないか」と主張する議論は、的外れなものです。


platon さんより(97年7月3日)

「聖書の原本は聖霊の導きによって記述されたが、写本の段階で写し間違いが生じた」という抗弁がまかり通ることになります。そうすると佐倉さんの「聖書は神の言葉であるから、いかなる誤謬も含まないという主張を批判・検討する」というものは、無意味な行為と替わらなくなってしまうだけです。


沖広鍋勝さんより(97年8月12日)

佐倉さんの理論展開、引用はすべてすべての聖書が一語一句の 間違いもなく、すべて正しいと考えている方にしか適用できません。 なぜなら、『原書は正しく、間違いはない』といわれればそれで終わり なのです。失われている原書に問題があったのか解らないでしょう?

このように、今まですでに三人の方から同じようなご意見を戴いていますが、この問題に関するわたしの見解は、最初にこの問題を提起された久保有政さんへの応答の中で(「主張5 訳本間の意味の違い」への回答に対するわたしの見解において)すでに述べさせていただいています。河村さんのご意見も上記にあげた例と同類のものであり、特別に新しいことは何も述べられていないようですので、久保さんへのわたしの応答をご覧下さい。

また、この問題にすこし関連していますが、私の聖書批判は訳本に頼りすぎているので、ヘブライ語かギリシャ語などの原語のレベルで批判をしなければ、いつか足下をすくわれる羽目になるのではないか、というご忠告も戴きました。

狸さんより(97年8月11日)

ところで原文が失われた聖書であるからこそ正文 批判をするべきではないでしょうか。 訳文にあまりにも重きをおいていると足をすくわれ かねないかもしれませんし、ある教団では偏った独 自の訳文を使って啓蒙しています。 そこまでできいないまでも新訳であるなら(最低限) ネストレを使うべきではないでしょうか。

このご忠告は聖書学を専門に研究する者にとっては正論だと思います。このご意見に対するわたしの応答も参考にしていただければ幸いです。

おたより、ありがとうございました。




再び河村さんより

97年10月26日

解ってませんね〜〜

わたしたちに伝わってきた聖書に間違いがあれば、聖霊は、神の言葉を伝達するた めに、あまりよく働かなかったと言わねばなりません。
と佐倉さん御自身が言っている様に、貴方は「聖書が神によって書かれたか」では無く「聖霊は、神の言葉を伝達するために、あまりよく働かなかった」事を指摘している事になるのでは、無いのでしょうか??

神が書いたと言われる原本はすでに検証不可能です。よって、あなたの言う

「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであ るから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味するこ とです。たとえ神の導きを仮定したとしても、実際に聖書の各書を書いたのは不完全 な人間なのですから、それはきわめて疑わしい主張のように、わたしには思われるか らです。」
は、やはり立証不可能でしょう。

なんか上手く逃げられてると思えてしまうのですが・・・
どうでしょう?
では、失礼します。



河村さんの主張は、すでに先回、わたしが要約したように、

「聖書が間違っている」というわたしの批判は、写本や訳本の聖書に対する批判にすぎず、オリジナルの聖書に対する批判ではないのだから、無意味な批判である
という、きわめて単純なものですから、わかるな、といわれてもわかってしまいます。しかし、わたしのこの問題に対する応答に関しては、河村さんはそれに対していかなる分析もなさることなく、「なんか上手く逃げられてると思えてしまう」、というふうな皮相的な感想しか述べておられませんので、どうやら、何も理解していただけなかったようです。

わたしとしては、誰にでも理解できるように、かなりわかりやすく述べたつもりですが、なぜ、河村さんが理解できなかったかという理由については、だいたい想像はつきますので、そのことを考慮に入れた上、以下において、より詳しい説明を述べてみたいと思います。

(1)久保有政さんからの問題提起

わたしの応答を理解する鍵は、この問題に関して最初に投稿された久保有政さんからのご意見(「レムナント誌」からの抜粋)をしっかり理解することにあります。河村さんがわたしの応答を理解できなかったのは、久保さんからのご意見をまったく理解しないままで、わたしの久保さんへ応答を読まれたからだろうと思います。そこで、この問題に関して、久保さんからいただいたご意見を、もう一度、全文紹介します。

 キリスト教においては、聖書は「原本において」誤りがない、と信じられて います。  誤りがないと信じられているのは、神の霊感を受けて書かれた聖書の「原本 」だけです。写本や訳本には、誤りがあり得ます。

 写本の場合は、人間的な写し間違いであったり、訳本の場合は、意味の取り 違い、あるいは翻訳上のミスなどです。  したがって、訳本間の意味の食い違い等を指摘して「聖書にも誤りや矛盾が あるじゃないか」と主張する議論は、的外れなものです。

 聖書の原本は大昔に書かれ、写本を通して伝えられてきました。これは原本 はパピルスや羊皮紙に記されたので、時間がたつと、もろくなり、どうしても 写本をつくる必要があったからです。  写本には誤りがあり得ますが、それでもユダヤ人は非常な厳密さをもって写 本をつくってきました。そのため、その正確さは比類ないものです。  またこの写本をもとに、様々な国の言葉への訳本が造られました。この際も 、聖書学者は細心の注意をもって、翻訳作業をしています。

 訳本の間で、しばしば意味が若干違う場合があるのは、原語の意味をより正 確に言い表そうとする努力のあらわれと見るべきでしょう。私たちは幾つかの 訳本の訳を参考にしながら、原語の意味を探る必要があるのです。

 聖書の原本は今日はすでに存在せず、最も古い写本も存在しませんが、私た ちが今読んでいる聖書は、ほぼ原本の内容そのままでしょう。そこには神の守 りがあったのです。

(久保有政さんよりいただいた、「レムナント誌」から)

このなかで、「誤りがないと信じられているのは、神の霊感を受けて書かれた聖書の『原本』だけです。写本や訳本には、誤りがあり得ます……。したがって、訳本間の意味の食い違い等を指摘して『聖書にも誤りや矛盾が あるじゃないか』と主張する議論は、的外れなものです。」といわれている部分が、「神が書いたと言われる原本はすでに検証不可能です」といわれる河村さんの意見と重なるところです。

つまり、現代に伝わってきた写本・訳本にある矛盾や間違いをいくら指摘しても、神の霊感を受けて書かれたといわれるのは聖書の原本だけであるから、的外れであり、ナンセンスである、というわけです。

(2)記事の内容分析

ところが、上記の久保さんからの記事を読み進んで行くと、次のようなことが語られています。

写本には誤りがあり得ますが、それでもユダヤ人は非常な厳密さをもって写本をつくってきました。そのため、その正確さは比類ないものです。またこの写本をもとに、様々な国の言葉への訳本が造られました。この際も、聖書学者は細心の注意をもって、翻訳作業をしています。(中略)聖書の原本は今日はすでに存在せず、最も古い写本も存在しませんが、私たちが今読んでいる聖書は、ほぼ原本の内容そのままでしょう。そこには神の守りがあったのです。
この記事の作者は、さっき、「誤りがないと信じられているのは、神の霊感を受けて書かれた聖書の『原本』だけです。」と言ったばかりなのです。ところが、今、「私たちが今読んでいる聖書は、ほぼ原本の内容そのままでしょう」と言うのです。つまり、ここには矛盾した、二重の論理(タテマエとホンネ)が共存しているのです。つまり、
(a)外部から聖書の矛盾を指摘されたときに使用される、聖書の無謬性を守るための護教用の論理が、「正しいのは原本だけ、写本訳本には間違いがある」という外的論理(タテマエ)です。

(b)信仰仲間(レムナント誌の読者)のために、聖書の信頼性を語るための論理が、「私たちが今読んでいる聖書は、ほぼ原本の内容そのまま」という内的論理(ホンネ)です。

このような二重の論理の共存は、けっして、久保さんからの記事に特殊のことではありません。「ファンダメンタリスト」と呼ばれる人たちによくみられる共通した現象なのです。たとえば、ノーマン・ガイスラー氏とトーマス・ハウイ氏は、その共著『批判に答える(When Critics Ask)』において、一方では、

They [critics] forget that God only uttered the original text of Scripture.... Therefore, only the original text is without error. Inspiration does not guarantee that every copy of the original is without error.
かれら[聖書批判者たち]は、神は原本にのみ語ったということを忘れているのである……。聖書の原本だけに誤謬がないのである。神の霊感は、写本すべてに誤謬がないことを保障するものではない。(23頁)
と認めながら、他方では、結局
the Bible in our hand.., conveys the complete truth of the original Word of God.
わたしたちが手にする聖書は…、神の原本の言葉の完璧な真理を伝えている。(24頁)
と言っています。

同じく、エホバの証人の『あなたは地上で永遠に生きられます』によると、一方では、

幾百年、幾千年にわたって聖書の文書を写し、その写しをまた写してゆくうちに、誤りが入り込んではいないでしょうか。確かにそういうこともありました。(52頁)
と認めながら、結局、他の「ファンダメンタリスト」と呼ばれる人々と同じく、どうしても
聖書の内容は聖書が最初に書かれた時のものと同じではない、と言う人は事実を知らないだけなのです。エホバ神はご自身のみ言葉が、写字生たちの犯した誤りだけでなく、み言葉に付け加えようとする他の者たちの試みからも守られるよう、取り計らってこられました。聖書そのものにも、神のみ言葉が今日のわたしたちのために純粋な形で保たれるという神の約束があります。(53頁)
と告白せざるを得ません。

このように、一方では、聖書に誤りがないと言えるのは原本だけである、と言いながら、実は、彼らが今日手にする聖書は原本の真理がそのまま正確に伝承されたものである、と信じているという、二重の論理の共存は、多くの「ファンダメンタリスト」と呼ばれる人たちに共通した現象なのです。

(3)信仰生活のホンネ

なぜ、二重の論理が共存しているのでしょうか。理由は簡単です。もともと、「ファンダメンタリスト」と呼ばれる人たちは、昔は、原本だとか写本だとかに言及することなく、単純に聖書の無謬性を信じていたのですが、現代聖書批評学などの研究の成果により、聖書の矛盾があまりにも明白になったために、聖書の誤謬が無視できなくなりました。ところが、他の多くのクリスチャンと違って、彼らの信仰の対象は、神だけでなく、聖書でもあったので、聖書に間違いがあることを認めるわけにはいかなかったのです。このために、他のいろいろな護教のための主張とともに、聖書の誤謬は写本や訳本だけであり、原本には誤謬がない、と言う主張も生まれたのです。

ところが、この解決方法には一つの深刻な問題があったのです。間違いのない神の言葉は、誰も知らない原本だけであり、わたしたちの手にする聖書は信頼できない、とすると、当然、聖書を基礎にした実際の信仰生活は成立しなくなってしまいます。まさにそのために、聖書信仰者は、外部に対しては、わたしたちの手元にある聖書は間違いがあって当然である、と護教論を展開しながら、内部(信仰仲間)に対しては、実は、わたしたちの聖書は原本を忠実に伝えたものであり、信頼できるものである、と語らざるを得ないのです。神学論争の問題ではなく、聖書を土台にした日々の信仰生活の必要性という実際問題が、結局、原本と写本の間にある相違を限りなくゼロに近づけてしまうのです。

(4)もう一つの問題点

「間違いは、写本にあるだけで、原本にはない」という主張には、さらに、もう一つの大きな問題が含まれています。神が原本を書いたと言っても、やはり、神が普通の人間(エゼキエルやパウロやルカなど)を通して書いたものです。すると、なぜ神の聖霊の働きは、原本を書いた人々だけに都合よく働き、その原本を伝達するために努力した人々に対しては働かなかったのか、という疑問が当然起きます。つまり、「間違いは、写本にあるだけで、原本にはない」という主張をすると、神の行為に論理の一貫性が欠けてくる、という結果になってしまうわけです。

もちろん、神の行為に論理の一貫性が欠けているなどということを、信仰者は受け入れることはできません。このために、神は、原本を書いた人たちだけに働いたのではなく、その伝達過程においても、その内容を守るために働いたのだ、という主張がなされることになるのです。たとえば、もう一度、上記の記事をよく見てほしいのですが、

聖書の原本は今日はすでに存在せず、最も古い写本も存在しませんが、私た ちが今読んでいる聖書は、ほぼ原本の内容そのままでしょう。そこには神の守 りがあったのです。
とか、
エホバ神はご自身のみ言葉が、写字生たちの犯した誤りだけでなく、み言葉に付け加えようとする他の者たちの試みからも守られるよう、取り計らってこられました。
ということが主張されるざるを得ないのです。

このように、神の行為には論理的な一貫性がある、つまり、神はその言葉をすべての人間に伝えるために、いつでも最大の努力をしている、という、信仰者にとっては当然の考え方が、結局、神の聖霊は原本を書いた人々にだけでなく、それを今日までに伝えてきた人々にも働いていた、というホンネに引き戻してしまいます。

(5)結論

以上、考察したように、タテマエとしては、「神の聖霊の働きのゆえに原本には間違いがないが、写本・訳本には間違いがある」と主張していますが、そう主張することによって生み出される副作用は、聖書信仰者にとっては、とても受け入れることはできないものなので、結局、ホンネとしては「わたしたちに伝わってきた聖書は、原本を忠実につたえてきたものである」、また「原本を書いた人たちだけでなく、それを伝達してきた人々にも神の聖霊は働いた」という、主張にならざるを得ないのです。つまり、聖書信仰にとって、「間違いは写本にあるだけで、原本にはない」という論理は、実質上成立しないのです。それゆえ、現代の聖書を批判するということは、実質的には、聖書の原本そのものを批判することになるのです。

もちろん、聖書を生活の中で必要とする聖書信仰者ではなく、ただ理屈をこねてみたいだけの人にとっては、このタテマエの方をホンネとして語ってみることも一応できるわけですが、その場合、「誰も知らない原本には間違いのない神の言葉が書かれている」という主張は、本当は本人も信じていない、無意味で、根拠のない、くだらぬ主張なのであって、そのような主張など一考察にも値しません。

河村さんが、久保さんからの記事を理解することができず、そのため、わたしの応答をも理解できなかったのは、おそらく、河村さんご自身が聖書というものと真剣に向き合ったことがないからでしょう。単なる論争のための論争という揚げ足取りに終始されているから、聖書信仰者の言葉や論理を理解することができず、その結果として、わたしの聖書信仰に対する批判も理解できなかったのだと思います。まず、聖書に真剣に向かわれることをお勧めします。

おたより、ありがとうございました。

なお、河村さんのご意見はこちら(「『幸福の追求』の矛盾」)にもあります。