佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

沖縄の李さんさん

00年10月11日



このように、人間の「永遠の命」の捉え方に関して、新約聖書と旧約聖書の間には、 著しい落差が存在しています。 これはとても重大なことを意味しています。なぜなら、旧約聖書の人間観によれば、 「永遠の命」は神々と人間を峻別する試金石のようなものだったにもかかわらず、新 約聖書(キリスト教)においては、神の属性であった「永遠の命」を人間にも与えて しまったために、神々と人間との境界がまぎらわしくなったからです。 よく知られているように、後代、キリスト教は、キリストを「真の神、真の人」とす る考え方を正統的ドグマとして受け入れるようになりますが、「永遠の命」という、 もともと神だけにゆるされていた属性を、人間に与えてしまったことが、その下地を 造ったと考えられるからです。 つまり、「創造主は被造物ではなく、被造物は創造主ではない」という旧約聖書の伝 統からキリスト教が大きく逸脱することになったその原因の一つは、旧約聖書の神が 人間の手に届かないように守っていた「永遠の命」に至る道を、新約聖書の著者たち が一生懸命備えたことにあるのかもしれません。

(佐倉、「『永遠の命』の思想」)

旧約には「永遠のいのち」の思想がないのか?

旧約聖書には「永遠のいのち」ということばは1箇所にしか登場しないが(ダニエル 12:2),その思想は様々な形をとって旧約を一貫して流れています。 旧約における死後の永生思想は,古代エジプト人やギリシヤ思想に見られる霊魂不滅思想とは全く違います。旧約聖書のどこにも霊魂不滅は語られていないのです。旧約における死後のいのちとしての永遠のいのちの思想は,現世の生の延長としてのいのちではなく,「死後の復活」以外のものと結び付くことは不可能であります。復活とは生への単なる蘇生ではなく,神による新しい出発,神による新しい創造としてのよみがえりです。

ダニエル 12:2 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。12:3 目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。

創世記 3:22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」 3:23 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。

創世記では確かに神は命の木の実を食べさせなかったけれども、黙示録では「勝利を得る者」には命の木の実をたべさせようと言っています。

黙示録 2:7 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。

創世記 22:5  アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

創世記のこの個所はアブラハムの復活の信仰を表しています。

へブル 11:19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。


ヨブ、アサフ、イザヤもそのような信仰を持っているのを見ることができます。

ヨブ 19:25  わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。19:26 この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。

詩篇 73:24  あなたは御計らいに従ってわたしを導き/後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。 73:25 地上であなたを愛していなければ/天で誰がわたしを助けてくれようか。

イザヤ 25:8  死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。

26:19 あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。

読んでくださってありがとうございます。

沖縄の李より。





沖縄の李さんさんへ

00年10月28日


(1)ダニエル書

旧約聖書には「永遠のいのち」ということばは1箇所にしか登場しないが(ダニエル 12:2)・・・

ダニエル12章については、もう何度か言及していますので、そちら(たとえば、「作者より魚の切り身さんへ 98年4月4日」)をごらんください。ダニエル七章以下は、後代(西暦前167前後)に追加された部分で、いわゆる、旧約聖書に属しません。


(2)黙示録

創世記では確かに神は命の木の実を食べさせなかったけれども、黙示録では「勝利を得る者」には命の木の実をたべさせようと言っています。

黙示録は新約聖書であって旧約聖書ではありません。


(3)へブル書

創世記のこの個所はアブラハムの復活の信仰を表しています。

へブル 11:19 ・・・

へブル書も新約聖書であって旧約聖書ではありません。へブル書の著者(クリスチャン)が、いかにキリスト教の色眼鏡(永遠の命の思想)で旧約聖書を見ているか、その無理な解釈の良い例です。一体どのようにして、へブル書の著者は、

創世記 22:5  アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

という個所を、

へブル 11:19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
などと、解釈することができたのでしょうか。キリスト教の色眼鏡(永遠の命の思想)で旧約聖書を見ているからです。


(4)ヨブ記

ヨブ 19:25  わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。19:26 この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。

わたしには、どうしてこれが、永遠の命の考えを表していると思われるのか、わかりません。


(5)詩篇73

73:24  あなたは御計らいに従ってわたしを導き/であろう。 73:25 地上であなたを愛していなければ/天で誰がわたしを助けてくれようか。

これも、どうして、永遠の命の考えを表していると思われるのか、わたしには理解できません。地上と天を生前と死後というふうにでも解釈されているのでしょうか。そんなふうに単純に解釈できないことは、この句の少し前(9節)にある、「彼らはその口を天にすえ、その舌は地を行き巡る」(新改訳)をみてもわかると思います。それとも、「後には栄光のうちにわたしを取られる」を、復活とでも解釈しておられるのでしょうか。それもキリスト教的色眼鏡の解釈にすぎません。実際、少し読み進んでいくと、「この身と心とは尽き果てましょう」(26節)と語っているように、むしろ、人間は永遠に生きる存在ではないという旧約聖書の基本的な人間観が述べられています。


(6)イザヤ25

イザヤ 25:8  死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。

パウロ(パリサイ派)もイザヤ25章8節を、永遠の命の思想と勘違いしています。全体を読まないで「死を永久に滅ぼしてくださる」という短い文一つを、そのコンテキストから切り離して読んでいるからです。この部分の解釈については、「作者よりK.M.さんへ 99年9月11日」をごらんください。


(7)イザヤ26

26:19 あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。

ここには、確かに、死者が立ち上がる、と書かれています。しかし、だからといって、それがキリスト教的な意味での復活を意味しているとは言えません。なぜなら、死者が立ち上がる、という表現はほとんどいつでも、神に見放されて敵の支配の下(バビロニア幽閉)にいるイスラエルの民が、やがて神に許されて、敵の下から解放されて、神の支配の下に復帰することの出きることを表現するのに使用されているからです。たとえば、

これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。

(エゼキエル37:5〜6)

まさに、復活を語っているように思われます。ところが、すこし読み進んでいきますと、この意味は次のように説明されています。

主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。それゆえ、予言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。イスラエルの地へ連れていく。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。」

(エゼキエル37:11〜14)

つまり、骨(死体)とはバビロニアに幽閉されている「イスラエルの全家」のことであり、墓を開いて引きだし、霊を吹き込んで、生き返らせるとは、幽閉されているイスラエル人を解放して、「イスラエルの地へ連れていく」こと、すなわち、ユダの地エルサレムへ連れて帰ることを意味しています。

このように、死人の復活は、旧約聖書では、イスラエルを解放することを意味する象徴的表現なのです。それを理解できなかったのが新約聖書の著者たちです。


おたより、ありがとうございます。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 
あなたのご意見、感想、質問は sakura@j-world.comへどうぞ

著者及び 著作権について