佐倉哲エッセイ集

「永遠の命」の思想

--- 聖書の伝統からの逸脱 ---

佐倉 哲


キリスト教(新約聖書)は「永遠の命」の宗教です。キリスト教の救いとは「永遠の命」を得ることです。キリスト教における信仰者の究極的目的は「永遠の命」です。しかし、このことは、キリスト教が本来の聖書(旧約聖書)の伝統から逸脱した宗教であることを意味しています。本来の聖書には「永遠の命」の思想なるものは存在しないからです。

1997年11月29日



(1)新約聖書(キリスト教)の中心思想

「永遠の命」という概念は、新約聖書(キリスト教)の中心概念の一つです。キリストを信じることによって得られる救いとは、他でもなく、「永遠の命」だからです。これがなければ、キリスト教は成立しないと言ってもよいでしょう。したがって、新約聖書においては、「永遠の命」こそ人間が得るべき最も大切なものであるという思想が、繰り返し繰り返し、述べられています。その幾つかを見てみましょう。

こうして、この[悪]者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。(マタイ 25: 46)

はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てたものはだれでも、いまこの世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。(マルコ 10: 29-30)

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ 3: 16)

御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがそのうえに留まる。(ヨハネ 3: 36)

この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。(ヨハネ 4: 13-14)

はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることがなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である。(ヨハネ 5: 24-25)

わたしの父(神)の御心は、子(キリスト)を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。(ヨハネ 6: 40)

わたしは、天から下ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。(ヨハネ 6: 51)

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(ヨハネ 10: 27-28)

神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。(使徒 13: 46)

神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従うものには、怒りと憤りをお示しになります。(ローマ 2: 6-8)

あなた方は、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行く着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたち主イエス・キリストによる永遠の命なのです。(ローマ 6: 22-23)

わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。(テモテ第一 1: 16)

信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。(テモテ第一 6: 12)

わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。(テトス 1: 1-2)

神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いて下さる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。(ユダ 1: 21)

このような具合に、「永遠の命」とか「永遠に生きる」という表現が、新約聖書にきわめて頻繁に(44回)でてきます。上記にあげた例からだけでも、新約聖書の宗教(キリスト教)においては「永遠の命」の思想が、その中心的位置を占めていることが分かると思います。


(2)聖書の伝統

ところが、驚くべきことに、新約聖書においてそれほど重要な「永遠の命」という概念が、旧約聖書ではまったくゼロに等しいと言っていいほどわずか(2回)しか取り上げられていません。しかも、そのどちらの場合も、人間は「永遠に生きる」のではないことを言うために、否定的に語られています。

主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。(創世記 3: 22-24)

あなたたちは先祖のようであってはならない。先の預言者たちは彼らに「万軍の主はこう言われる。悪の道と悪い行いを離れて、立ち帰れ」と呼びかけた。しかし彼らはわたしに聞き従わず、耳を傾けなかった、と主は言われる。その先祖たちは、いまどこにいるのか。預言者たちは永遠に生きるだろうか。だが、わたしが僕である預言者に命じた言葉と掟は先祖たちに届かなかったであろうか。彼らは立ち帰って言った。「万軍の主は、わたしたちの歩んだ道と行った業に従って、わたしたちを扱おうと思い定められ、そのようにされた。」(ゼカリヤ 1: 4-6)

最初の創世記の例では、人間は、神々と違って、永遠に生きることをゆるされていないことが語られています。また、二番目のゼカリヤ書の例では、人間は死に絶えてしまうが、神の言葉と掟は永遠であることが語られています。いずれも、神と人間を峻別する旧約聖書の人間観に依ったものです。それは、旧約聖書の登場人物たちの死の記述に、死後の世界とか魂が生き残るといったことが、一切語られていない事実(「聖書における『死後の世界』」)と完全に一致するものです。


(3)結論

このように、人間の「永遠の命」の捉え方に関して、新約聖書と旧約聖書の間には、著しい落差が存在しています。これはとても重大なことを意味しています。なぜなら、旧約聖書の人間観によれば、「永遠の命」は神々と人間を峻別する試金石のようなものだったにもかかわらず、新約聖書(キリスト教)においては、神の属性であった「永遠の命」を人間にも与えてしまったために、神々と人間との境界がまぎらわしくなったからです。よく知られているように、後代、キリスト教は、キリストを「真の神、真の人」とする考え方を正統的ドグマとして受け入れるようになりますが、「永遠の命」という、もともと神だけにゆるされていた属性を、人間に与えてしまったことが、その下地を造ったと考えられるからです。つまり、「創造主は被造物ではなく、被造物は創造主ではない」という旧約聖書の伝統からキリスト教が大きく逸脱することになったその原因の一つは、旧約聖書の神が人間の手に届かないように守っていた「永遠の命」に至る道を、新約聖書の著者たちが一生懸命備えたことにあるのかもしれません。


佐倉 哲