佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

あややんさん

00年10月9日


神の存在を感じなくなりました


佐倉さんにメールを出した日から、私なりに「本当に神なのだろうか・・・?」と考えてみて、結論が出たのでお便りしようと思っていたのですが、9月から別居だ離婚だの騒ぎで、忘れていました。スミマセン。

結論から申し上げますと、私は「神」と言う暗示にかかっていたのではないかと思うのです。

と、言うのは、何年も前から主人が不貞をしていたのですが、よーく考えますと、その、「悪魔を感じるようになた」1993年1月から、異常なことがよく起きるようになったのです。「悪魔の存在」と思い込むようにされたのではないか?と自分なりに冷静に考えてみたのです。

ご存じかどうかはしりませんが、エホバの証人は、些細な事でも、悪い事は全て「サタン」が行っていると毎日のように話されます。例えば、家の中がきしむ音が頻繁になったなどと言おうものなら「それはサタンよ。家の中に何かお守りとか、道で拾った物とか無いか調べると、必ずあるよ。」と盛り上がります。私は、佐倉さんにメールを送ってから、ふともしかして私は暗示にかけられていたのかもしれないと思ったのです。(佐倉さんのお返事は今日読んだところです。やはり私の思った通りの回答でした。)

実は、異常な事はもちろん、変な嫌がらせも頻繁ナノですが、ふと「私は本当に神のお考えであの道を運転していたのだろうか?」「自分は神の声で選択を自分でしたかのように思っていたが、始めから暗示にかかっていたのではないか?」そういう疑問がはっきりと浮かんでから、私の中にずっとあった神の存在はかき消えてしまいました。

今思えば、物心(3才くらい。)ついた時から、自分の心の中の願望と、頼るべき人のいない過酷な状態がそうさせたのだと理解しました。

今、現実問題として、子供を守らなければならないのですが、神に頼っていたのでは、的確な判断とは言いがたい最悪の状態に陥ってしまうのは明らかです。神に頼り、神の言葉と信じて打ち込んだ結果がエホバの証人であったのは私にとって紛れもない事実です。そして、現在はどうしてあの組織で誰よりも熱心な信者であったのか、今の私には全く理解出来ない自分の行動です。「何でやってたんだろ?」これが正直な自分の感想だからです。

話が元に戻りますが、神に頼っていわゆる「感性」で行動したのでは、的確な行動は取れません。それに、「神がこっちに行けと言っているような気がする」というのは、事実をよく認識し、比較考慮しているとはとうてい言いがたいと結論しました。

そのように結論してから、ここ一ヶ月、全く神の存在を感じなくなりました。神はいるかもしれないけど、自分の一つ一つの行動に、もっと慎重になるべきこと、そのことを深く考えました。何だかんだ言っても、私も誰かを頼りたかったんだなあ・・・・。と、自分の本当に気持ちを悟りました。お蔭で本当の意味で自立できたような気がします。そのようなわけで、キリスト教の皆様には期待を裏切ってごめんなさい。私、進化論を支持してますし・・・。





あややんさんへ

00年10月23日


「神がこっちに行けと言っているような気がする」というのは、事実をよく認識し、比較考慮しているとはとうてい言いがたいと結論しました。

神が存在して、神が人間を導くなら、それは、神に任せておけばよい。わたしはそれを知ることはできない。それを知ろうとしたり感じようとすると、結局、自分の思い込みにすぎないものを「神の声」「神の導き」などと解釈するに相違ないからだ -- そのように、わたしなどは思います。人間が本当に神を知ることが出きるなら、聖書など存在しなくてもよいはずです。聖書の物語に登場する人物には神は語りかけるが、わたしたちには語りかけることができないなどということは、まったく道理に適っていません。二千年もの長い間、人間が聖書に神の言葉を求め続けざるをえなかった事実は、神はわたしたちに直接語りかけることはできず、わたしたち人間は神を知ることができないことを示していると言えるでしょう。


おたより、ありがとうございます。


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