貴殿の主張は「新約聖書においてそれほど重要な『永遠の命』という概念が、旧約聖書ではまったくゼロに等しいと言っていいほどわずか(2回)しか取り上げられてい[ない]」というものでした。しかし、それは聖書の以下の聖句とかけ離れております。

「我が子よ、わたしの律法を忘れてはならない。あなたの心がわたしのおきてを守り行うように。そうすれば、長い日々と命の年と平和があなたに加えられるからである。」(箴 3:1、2)

「[王]は[エホバ]に命を願い求めました。[エホバ]はそれを彼にお与えになりました。定めのない時に至るまで、まさに永久に続く長い日々を。」(詩21:4)

「義なる者たちは地を所有し、そこに永久に住むであろう。」(詩37:29)

「神は実際に死を永久に呑み込み、主権者なる主エホバはすべての顔から必ず涙をぬぐわれる。」(イザ25:8)

確かに、ここで筆者は「永遠の命」という言葉は用いていません。しかし、その概念は窺い知れます。



(1)
我が子よ、わたしの律法を忘れてはならない。あなたの心がわたしのおきてを守り行うように。そうすれば、長い日々と命の年と平和があなたに加えられるからである。(箴 3:1、2)

わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し、平和が与えられるであろう。(新共同訳)

長寿のめぐみを「永遠の命」と解釈するのには無理があります。


(2)
[王]は[エホバ]に命を願い求めました。[エホバ]はそれを彼にお与えになりました。定めのない時に至るまで、まさに永久に続く長い日々を。(詩21:4)

「神は王の」願いを聞き入れて命を得させ、生涯の日々を世々限りなく加えられた。(新共同訳)

この詩編21は、全体から見ればわかるように、その直前の20編における「主よ、王に勝利を与え、呼び求める我らに答えてください」という祈願の賛歌とペアとなっているものであって、イスラエルの戦勝を感謝するときに祭司がうたう賛歌です。それは、戦時にあって、イスラエルの代々の王が、いつの時代にあっても(永遠に)、神に守られて、(戦死することなく)生涯を全うすることを感謝する賛歌です。それは、たとえば、その少し前にある次のような句と同じ意味です。
主(ヤーヴェ)は勝利を与えて王を大いなる者とし、油を注がれた人(イスラエルの王)を、ダビデとその子孫を、とこしえまでに慈しみのうちにおかれる。(詩編18:51)
すなわち、これは、ある特定の個人(たとえばダビデ)の命が永遠に生き続けるというような話ではなく、イスラエルの王位(ダビデとその子孫)が永遠に神に祝福されること、とくに神に守られて戦死などせず、それぞれ生涯を全うすることができることを歌う賛歌です。


(3)
義なる者たちは地を所有し、そこに永久に住むであろう。(詩37:29)

主に従う人は地を継ぎ、いつまでもそこに住み続ける。(新共同訳)

これも、個人の永遠の命のことではありません。それは、すぐその前の節と一緒に読めば、一目瞭然です。
[主は]主に逆らう者の子孫を断たれる。 主に従う人は地を継ぎ、いつまでもそこに住み続ける。(新共同訳)
このように、「いつまでもそこに住み続ける」というのは、子孫が住み続ける、という意味です。創造物語の中で、神は人を造ってこれを祝福し、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ(創1:28)」と言いましたように、また、イスラエルの太祖アブラハムに神が「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい・・・・あなたの子孫はこのようになる(創15:5)」と言ったように、子孫が繁栄する、というのが古代イスラエル人にとっては神からの最高の祝福だったのであり、個人の命が永遠に続くことを望むなどという、後のキリスト教に見えるような考え方はありませんでした。



ついでに言えば、個人の生命が永遠に続くというようなキリスト教的考え方は、実は、詩編においてはあからさまに否定されています。

「教えてください、主よ、わたしの行く末を
わたしの生涯はどれ程のものか
いかにわたしがはかないものか、悟るように。」

ご覧ください、与えられたこの生涯は
僅か、手の幅ほどのもの。
御前には、この人生は無に等しいのです。

(詩編39)

ここにも、人間は神と違って永遠に生きる存在ではない、という本来の聖書の根本的な考えが反映しています。「塵にすぎないお前は塵に帰る」(創世記 3:19b)とか、人間は、神々と違って、永遠に生きることはできない(創世記 3:22-24)、という本来の聖書の人間観です。個人の生命が永遠に続くことを説く新約聖書(キリスト教)は、本来の聖書の教えから逸脱した宗教なのです。


(4)
神は実際に死を永久に呑み込み、主権者なる主エホバはすべての顔から必ず涙をぬぐわれる。(イザ25:8)
「死を永久に呑み込[む]」という表現は、確かに、それだけを取り出せば、「死が無くなる => 人類は永遠に生きるようになる」と解釈できないこともないでしょう、新約聖書のパウロ(パリサイ派)がそうしたように。しかし、ここでいう死は、カナンの神「モト」(ヘブライ語で「死」を意味する)を指していると考えられています。(Peter R. Ackroyd, "The Book of Isaiah", The Interpreter's One-Volume Commentary on the Bible, Abingdon, p.346)そのように解釈することによってのみ、この章がイスラエル人の敵モアブ人の滅亡をもって終わることの意味が理解できるようになります。
モアブは主の下に踏みにじられる
わらが踏みつけられて堆肥の山にされるように
モアブはそこで手を広げる
泳ぐ人が泳ごうとして手を広げるように。
しかし、巧みな手の業を重ねても
主はその誇りを打ち倒される。
主はおまえの城壁の砦と塔を砕き
打ち倒して地の塵に伏させる。

(イザヤ25:10〜12)

つまり、イスラエルの神ヤーヴェが、モアブの神モト(ヘブライ語の「死」)を「呑み込む」ということは、イスラエルがイスラエルの神の助けによってイスラエルの敵モアブに戦勝することであり、そのことによって、悲しみをもたらす原因(死=モアブの神モト=モアブ人=イスラエルの敵)が滅亡するので、イスラエルのすべての人々から「涙をぬぐわれる」、ということがこの章で語られているです。カナンの神「モト」がヘブライ語で「死」を意味するということを踏まえて、その語呂合わせによって、悲しみをもたらす原因であるイスラエルの敵モアブを死と重ねあわせて歌っているのです。詩においてはしばしば使われる文学的技法です。