佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

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  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

水野さん

00年9月1日

『創造論を支持する科学的主張 』 について

水野です。回答ありがとうございました。

(1)「聖書の神の存在/非存在を設定せずに、聖書批判はできない」?

聖書は「人間が知ることのできる範囲外の事柄」についてのみ語っているわけではありませんから、人間が知ることの出来る事実と一致していない主張があれば、当然、その主張に対する批判は成立します。たとえば、・・・(略)

確かにそうですよね。わたしの考えが混乱していたようです。


(2)「創造論を支持する科学的主張」

わたしは、「創造論を支持する科学的主張」にまだ出あったことがありません。そんなものがあるのでしょうか。
「創造論を支持する科学的主張」としてわたしが読んだのが、

・『 創造科学 』 ( http://www.ne.jp/asahi/seven/angels/index.htm )
・『 創造説再評価HP 』 ( http://members.xoom.com/_XOOM/norih/earth.htm )

などのホームページです。いずれも、

「創造論」(創造科学)は、これまで科学的に無理が多いと言われながら長く信じられてきた「進化論」に代わり、世界と生命の起源を的確に説明する科学上の新たな理論である。(『創造科学』)

創造科学とは、神のみ手の業による創造のあとを現行の科学知識のスコープの範囲内で検証してみようとする、新しい学問です。(『創造説再評価HP』)

というように、「科学的」な主張をしているようです。

それらの説が本当に科学的に正しいのかどうか、科学に無知なわたしには判断できません。そこで(他力本願な発想ですみませんが)、おそらく科学的知識にも明るいであろう佐倉さんだったら、それらの主張をどう評価されるだろうか、とお尋ねしたわけです。

1章から7章までは、確かに、生物学者らしく、現代生物学の専門分野の面白い説明がなされていますが、問題の8章以後の後半、すなわち、「知的存在者」の存在を主張する部分になると、とたんに、へぼな形而上学者に堕してしまうのです。氏の主張は、生物の目的的複雑な構造には「デザイン」が認められるが、「デザイン」は知的存在者を想定させる、というものです。つまり、彼がその著書の後半でなしているのは、科学ではなく、いわゆる「ペイリーの証明」の焼き直し(哲学論議)なのです。

似たような事例かと思いますが、創造を信じるひとから、 「人間の目は、カメラ以上に精巧にできている。カメラには設計者や製造者がいるのだ から、同様に、人間にも創造者がいる、と考えるのが妥当だ」 というような類いの説明をよく聞きます。一見もっともらしい気もしてしまうのですが、このような説明に対して、どのように科学的に反論できるのでしょうか。

神による宇宙の創造を主張するためには、科学の範疇から外に出て、形而上学的あるいは信仰的世界の中で主張せねばならない、とわたしは思います。

なぜなのでしょうか。「神」の存在を科学によって証明することはできなくても、もし仮に、地球や生物などが何者かによって創造されたという科学的な根拠を提出できれば、その何者かが聖書の神であるかどうかは別として、少なくとも、創造説を「科学の範疇」で主張することはできるように思うのですが・・・


(3)「決定的な証拠」「100%保証された正論」について

「100%保証された」とか「決定的な証拠」というのは、信仰の世界の言葉で あって、知識の世界ではつねに疑いの余地を残すものだと思います。

「100%」とか「決定的」などという極端な言葉を安易に使ったわたしの表現が、そもそも適切ではありませんでしたが、

この種の知識は、将来的には否定されるかもしれないが、少なくとも現時点ではくつがえしようのない確実なものですから、・・・

とも述べているように、わたしは、未来永劫までも不変な知識(信仰)ではなく、現時点で確実だと思える知識について述べていたつもりでした。

つまり、佐倉さんが『はじめに:何を根拠に間違いを判断するか』で述べておられるように、「人間の知識は絶対的ではありませんから、確実だと思っていたものが実は誤ってい」るかもしれないが、現段階では「正しいと判断」できる知識のことです。





水野さんへ

00年9月24日


(1)「創造論を支持する科学的主張」

「創造論を支持する科学的主張」としてわたしが読んだのが、

・『 創造科学 』 ( http://www.ne.jp/asahi/seven/angels/index.htm )
・『 創造説再評価HP 』 ( http://members.xoom.com/_XOOM/norih/earth.htm )

などのホームページです。いずれも・・・

それらは、世に認められている科学者による科学的主張ではなく、関連する科学には素人の、米国の熱狂的な新興宗教団体(ICRとかCSCなど)などによる、「聖書の創造物語は科学的である」という主張です。それをほとんどそのまま日本に輸入したものです。科学的主張なら科学の世界で取り上げられます。彼らの主張が科学の世界でほとんどまったく相手にされないのは、それらが「科学」の名に値しないからでしょう。

米国の関連サイトはもうずいぶん昔から知っていますから、どんなものか想像できますが、一応、ご紹介のサイトを眺めてみました。やっぱり想像した通り、ひどいものですね。たとえば、そのひとつ『創造科学』サイトが勧める主要書、久保有政著『創造論の世界』が、

	転向する科学者が続出!
	ダーウィンの進化論はすでに終焉を迎えていた!
	(科学の基本セオリーに再び起こったコペルニクス的転回)
	目からウロコが落ちる進化論者VS創造論者の熱き闘いのすべて!
	[進化]の虚構に世界はかくも鮮やかに騙されていた。
	宇宙の創成  地球の起源  生命の誕生  人類のはじまり
	ひとたび創造論の科学性を知ったなら、これまでの[世界観]はまちがいなく大逆転現象をおこすことだろう。

などといった表現で紹介されると、こりゃ眉唾モノだとすぐに直感されます。

ところで、この書の推薦者としてヘンリー・M・モリス氏の名前が載っていますが、実は、彼こそが米国における「創造科学研究所」(ICR)の教祖格の人物の一人なのです。しかし、実は、彼は生物学や地質学や宇宙物理学など創造論に関係の深い科学者ではありません。彼の専門はエンジニアです! もうひとりの推薦者、南山宏氏は単なる「作家・翻訳家」ですね。「転向する科学者が続出」しているのなら、一人でもいいから、本物の科学者の推薦者が欲しいものですが、さすがに、こんなトンデモ本を推薦して生涯を棒に振るような科学者はいないようです。

著者の久保有政さんも、科学とはあまり縁のない方のようです。ご本人からは、本サイトにも投稿いただいています(「97年6月16日」)が、わたしのコメントに対しては、何の返答もいただいておりません。

もう一つの方のサイト(創造説再評価HP)も、お医者さん(神経内科)のサイトだそうで、ご自身も「アマチュア・サイエンティスト」と自称しておられるように、やはり、生物学や地質学や宇宙物理学など創造論に関係の深い専門ではないようです。米国の創造科学関連サイトも同じようです。わたしは素人が科学に口を出すべきではないとは思いませんが、現代科学の常識を覆すと豪語するぐらいなら、せめて同じくらいの知識を持った専門分野からの人々(たとえば、前回紹介したMichael Behe氏のような本物の科学者)からの研究を見たいものです。

要するに、この「創造科学」の正体は、ほとんどみんな素人の話の寄せ集めにすぎないわけです。クリスチャン方の中には、はじめて彼らの宣伝文句を目にして感激したりする人もあるかもしれませんが、たとえ科学の専門家でなくても、「ちょっと話がうますぎるんじゃないの」ぐらいの醒めた感覚はもって欲しいものです。

最後に、「創造科学」(ICR)の教祖ヘンリー・M・モリス氏の言葉を紹介しておきます。かれらの科学に対する基本的な姿勢はこのようなものです。

[T]he main reason for insisting on the universal Flood as a fact of history and as the primary vehicle for geological interpretation is that God's Word plainly teaches it! No geologic difficulties, real or imagined, can be allowed to take precedence over the clear statements and necessary inferences of Scripture.

ノアの洪水が世界中を覆うものであったことが、歴史的な事実であり、かつ地質学解釈の第一の手段である、と主張する[われわれの]主要な根拠は、神の言葉が単直にそのように教えていることにある。地質学の[聖書に与える]難問は、それが現実のものであれ想像されたものであれ、聖書の明らかな言明や必然的な帰結より優先されてはならない。

(Henry Morris, Biblical Cosmology and Modern Science p. 32-33)

It is precisely because Biblical revelation is absolutely authoritative and perspicuous that the scientific facts, rightly interpreted, will give the same testimony as that of Scripture. There is not the slightest possibility that the facts of science can contradict the Bible.

聖書の啓示が絶対的な権威であり、明白に主張しているという、まさにそのことのゆえに、科学的事実は、それが正しく解釈されさえすれば、聖書とまったく同じ証言をすることになるのである。科学的事実が聖書と矛盾するという可能性は微塵もない。

(Henry Morris in first paragraph of Scientists Confront Creationism edited by Laurie R. Godfrey)

まさにドグマの奴隷です。信仰の対象が神そのものから、「聖書」という人間の書いた本に移行しています。こういうのを聖書の言葉で言えば「偶像崇拝」というのではないでしょうか。


(2)デザインからの証明

似たような事例かと思いますが、創造を信じるひとから、 「人間の目は、カメラ以上に精巧にできている。カメラには設計者や製造者がいるのだ から、同様に、人間にも創造者がいる、と考えるのが妥当だ」 というような類いの説明をよく聞きます。一見もっともらしい気もしてしまうのですが、このような説明に対して、どのように科学的に反論できるのでしょうか。

そういう種類の論法を「デザインからの証明」と(哲学史などでは)言います。中世の神学者トマス・アクィナスの有名な「五つの証明」の中にも似たようなものありますが、一番有名なのは、ペイリーという人の時計を例にとってする論法です。それで「ペイリーの証明」とも言います。しかし、この「デザインからの証明」はヒュームよって論破されて以来、ほとんど顧みるものもいないのですが、水野さんのおっしゃるように「一見もっともらしい」ので、哲学史などには縁のない巷の人々の間ではいまでも重宝がられているようです。

本サイトでも、同じようなご意見を頂いていますので、「デザインからの証明」に対するわたしの反論はそちらのコメントを参照してください。「作者よりWejloveさんへ 99年4月4日」です。


(3)「神による創造」は科学でしょうか

「神」の存在を科学によって証明することはできなくても、もし仮に、地球や生物などが何者かによって創造されたという科学的な根拠を提出できれば、その何者かが聖書の神であるかどうかは別として、少なくとも、創造説を「科学の範疇」で主張することはできるように思うのですが・・・

宇宙に関する科学には、様々な理論や仮説があって、その側面だけをみれば、哲学や神学とも共通するところがありますが、宇宙に関する科学が、哲学や神学と異なるところは、実験や観察によって事実であることが検証されなければならないことでしょう。どんなに優れた理論物理学者も、その理論が実験物理学の誰かによって検証されなければノーベル賞をもらえないのは、このためだと思われます。

ところで、何であれ、もしそれが人間の認識の届きうる範囲、すなわち実験や観察の対象となりうるとすれば、それはわたしたちの宇宙の一部(人間がそこに行ける、そこから発進された粒子や波がわたしたちに到達しうる、等々)であることになります。しかし、聖書によれば、神は、宇宙の一部ではなく、また、宇宙そのものでもなく、宇宙の外側に存在する、宇宙から独立した、宇宙の創造者ということになっています。そのため、神は、聖書による定義によって、わたしたちの実験や観察の対象となりえないわけです。実験や観察の対象となりえないものは、宇宙に関する科学の対象にはなりません。聖書の神は信仰の対象であって、観察や実験の対象ではありません。創造者が、聖書の神ではなく、別の「何者か」であっても、それが私たちの宇宙の外にある存在であるかぎり、同じことです。


おたより、ありがとうございました。


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