佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

さん

00年9月1日

創世記1章と2章

(神の呼び方、言語使用、など)がここにはあり、これらの相違のもっとも合理的な説明は、やはり、この二つの創造物語はもともと別々の伝承であった、と思われます。そして、これらの物語がもともと独立した伝承であるならば、そこに矛盾があっても、少しもおかしくはありません。むしろ、そのほうが自然だと思います。

「天地創造物語の矛盾(一)」)

名前はその人の性質を言います。だれだれというとその人の性格がわかります。一章で出ている神様はエロヒムという名前ですがそれは全能なる神様、絶対的な神様を表します。2章のヤヘエという神様は人と人格的に交わり、契約を結ぶ神様です。このように神様は両面性を持っておられます。

ノアと洪水のようにさばきを下す神様は一番だといえます。しかし、その以後虹を通して人が平安に暮らすように約束する神様は2番です。1人子イエス様をいの世に送ってくださった神様も2番です。このように私達が神様に使える[仕える?]ときは二つの品性を持っておられる神様を考えなければなりません。2番を強調すると神様をないがしろにするし、1番を強調すると恐いからです。恵みと真の神様です。限りなく人の逆らいを我慢し、裁きの日まで我慢しますが、裁きの日には真によってさばかれる神様です。ですから、恐れ敬い心が必要です。2章では人を創造するのを特別に書いてありますが、それほど、神様も人間創造を大切にされたのです。自然を造られる時はただ、御言葉で作られますが、人間を創造するときには創世記1:26をみると神様のかたちに似るように造られたことが分かります。

ですから、1章と2章と間違いはないと思います。





さんへ

00年9月24日


(1)エロヒムは名前ではない

名前はその人の性質を言います。だれだれというとその人の性格がわかります。一章で出ている神様はエロヒムという名前です・・・

「エロヒム」は神の名前(固有名詞)ではありません。「エロヒム」は「エル」という「神」を意味する普通名詞の複数形です。それに対して、「ヤーヴェ」(ヤヘエ)は神の名前(固有名詞)です。聖書の神が二つの名前を持っているのではありません。古代のイスラエル人たちは、ある時代(人々)は神をその名前(ヤーヴェ)で呼んでおり、他の時代(人々)は彼らの神をその名前で呼ばずに、「神様」(エロヒム)と呼んだのです。

いまでは、イスラエル人たちは、聖書に出てくる「ヤーヴェ」を表す表現(YHWH)を、「ヤーヴェ」と読まず、「アドナイ」(主)と読みます。神の名前を直接発音するのはおそれおおいという理由からでしょう。そのために、ほとんどの現代語訳では、YHWH(ヤーヴェ)が「主」と訳されています。創世記二章の「主なる神」「神である主」という日本語訳は、「ヤーヴェ(という名前の)神」「神であるヤーヴェ」(ヤーヴェ・エロヒム)の訳です。

したがって、李さんの言うように、1章のエロヒムと違って、「2章のヤヘエという神様は人と人格的に交わり、契約を結ぶ神様です」という解釈はまったく不可能です。なぜなら、二章では、神は、「ヤーヴェ神」「神であるヤーヴェ」(ヤーヴェ・エロヒム)と表現されていて、二つの言葉がくっつけられて使用されているからです。エロヒムが神の名前(固有名詞)ではなく、「神様」を意味する普通名詞だからこそ、二章のヤーヴェ・エロヒム(「ヤーヴェ(という名前の)神」「神であるヤーヴェ」)という表現が可能になっているのです。


(2)ノアの洪水と神の呼び方

ノアと洪水のようにさばきを下す神様は一番だといえます。しかし、その以後虹を通して人が平安に暮らすように約束する神様は2番です。

単なる思いつきで語られているとしか考えられません。ノアの物語の大きな特徴の一つは、二つの資料が相互に入り混ざっているところにあります。したがって、神の呼び方もノアの物語の中では相互に入り交じって混在しています。

たとえば、洪水で人類を滅ぼすと告知するのは「神」と「ヤーヴェ」の重複で計二回、箱船を造れと命じるのは「神」、箱船に入れと命じるのは「ヤーヴェ」と「神」の重複で計二回、箱船のドアを閉めたのは「ヤーヴェ」、地の上に風を吹かせて水を減らしたのは「神」、外に出て「地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい」と命じたのは「神」、ノアが祭壇を築いて捧げ物を捧げた相手は「ヤーヴェ」、といった具合です。つまり、李さんの解釈はここでも不可能です。

このことについては、詳しく「ノアの箱舟に入った動物の数の矛盾」で説明していますので、そちらをごらんください。


(3)創造順序の矛盾

ですから、1章と2章と間違いはないと思います。

たとえ、百歩譲って、「エロヒム」と「ヤーヴェ」の使い分けを、神の性格を表現するためであると認めても、問題の核心である創造順序の矛盾はまったく解消されません。創造順序の違いは事実報告の違いであり、神の性格とは無関係だからです。

すなわち、第一の創造物語では植物と動物が造られた後、人間(男女)が造られたことになっているのに、第二の創造物語では、男(アダム)が造られた後、植物と動物が造られ、そして最後に女(エバ)が造られている、という矛盾です。

第一の創造物語 植物 --> 動物 --> 人間(男女)
第二の創造物語 男(アダム) --> 植物 --> 動物 --> 女(エバ)

この二つの記述は事実報告に関して矛盾していて、一方が正しければ、他方が間違っていることになります。したがって、少なくとも一方は必然的に間違っていることになります。聖書には間違いがあるのです。


おたより、ありがとうございました。


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