このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。
00年1月30日
最初の発言者としてコメントします。
注目に値することですが、ベザ写本、フレーア写本、古ラテン語訳、シリア語シナイ写本といった初期の写本では上記の句が省かれています。現在流布していることに対しての矛盾なんですからなぜ写本云々になったのでしょう。
ベザ写本、フレーア写本、古ラテン語訳、シリア語シナイ写本は何れも「西方型」の写本です。
西方型は文法や文体に修正を加えられてかなり怪しいものです。本文がまずいとされたので削除されたというのは容易に考えられます。しかし、通常は型で記述が異なる場合は「アレキサンドリア型」を重視するので注目には値しません。
写本に欠落したいう理由も必要でしょう。
※あと「少数」が抜けています。アパラトゥスの引用はちゃんとしましょう。
本文を見てみましょう。
大祭司アビアタルの時に...
επι Αβιαθαρ αρχιερεωsεπιはいろいろな意味があります。たとえば「の上」や辞書によっては「関しても」ありますがここでは「時に、時代に」と訳すのがまともな考え方です。手元の何れの辞書も「時に」、「時代に」、「when」、「als」などとなっています。それとも「新世界訳」はギリシャ語を無視して「改訂標準訳」、「完訳聖書―アメリカ訳」、「エルサレム聖書」から作っているのですか?
時に アビアタル 大祭司
だから
この訳し方はこの記録の歴史的な正確さを支持しています。という間抜けな説は間違っていることになります。
狸
00年2月5日
貴重なコメント、ありがとうございました。