このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。
00年1月22日
イエスはちゃんと、三日三晩の間、陰府の世界に下りましたよ。人間的な見方をすればね、1日半しか死んでないことになるんでしょうーが、神の視点からすれば、三日三晩死んだことになります。
どーゆうことかと言うとですねー、旧約聖書にあるように、太陽はあくまでも日や季節を示す「しるし」であり、その運動だけが1日の単位を定めるわけではないということです。つまーり、創世記の一章五節で「神は光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」と証しされているとおり、真昼に太陽が光を失った場合には、イエスはそれを1日の終わりとみなすのですよ。
んで、新約聖書の該当箇所をよく読んでみるとですねー、なんとイエスが死んだとき太陽は光を失っていたと記されているのです。イエスが息を引き取った時、地上に光が戻ったと記されていることも考慮するとですね、イエスは夜に死んで、んで光が戻って、それでまた夜が来て、朝が来て、・・・・そして日曜の朝に復活したと記されてるわけです。(ご存知でしょうが、ユダヤの風習ではその日の夜から次ぎの日の暮れまでを1日の単位とします)
つまり、ちゃーんと夜・昼・夜・昼・夜・昼のサイクルが繰り返されてるわけですよ。まあ、きっちり24時間には分かれないけど、それはしるしとしての太陽が人間に知らせるものであって、神にとってはあくまでも「光が昼、そして闇が夜」です。だから、「三日三晩」の預言は成就したことになるわけですよ。
こーんな解釈もできるってことですね。でもまあ僕は神学好きでもクリスチャンじゃないから、貴方が聖書に対してどんな感情を抱いていようがどうでもいいことです。はっきりいって、キリスト教がエッセネ派の影響を受けているとか、ダニエル書はマカバイ時代のハシディームが書いた偽典だとか、エロヒムはカナンの地域神エルだとかいう歴史的主張は僕の立場からはどうでもいいことなのです。だから、これからも精力的にガンバしてください。
それじゃー
NO-MUより
00年1月26日
新約聖書の該当箇所をよく読んでみるとですねー、なんとイエスが死んだとき太陽は光を失っていたと記されているのです。・・・ ちゃーんと夜・昼・夜・昼・夜・昼のサイクルが繰り返されてるわけですよ。まあ、きっちり24時間には分かれないけど、それはしるしとしての太陽が人間に知らせるものであって、神にとってはあくまでも「光が昼、そして闇が夜」です。だから、「三日三晩」の預言は成就したことになるわけですよ。なぜそういう解釈が成立しないかについては「作者より100円ライターさんへ」を参照にしてください。こーんな解釈もできるってことですね。
しかし、そのような類いの解釈を生み出す姿勢、すなわち、矛盾の調和化のためにはどんな無理な解釈も辞さない姿勢は、聖書を間違いのない神の言葉として信じなければならないファンダメンタリストと呼ばれるクリスチャンの姿勢に通じるものがあります。彼らにとっても、真実を知ろうとする努力よりも、自分を救ってくれると約束してくれるドグマを信じ続ける理由を見つけることの方が大切なのです。
おたより、ありがとうございました。