このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。
00年1月20日
エホバの証人の礼拝では、聖書だけでなく、「ものみの塔聖書冊子協会」の出版物が聖書の代りに「神の言葉」として引用朗読されることがあります。エホバの証人の信者の間では、エホバの証人は「現代における神の組織」と信じられているので、エホバの証人の出版物が聖書の代りに「神の言葉」として礼拝に引用朗読されている
これは日曜日に行われる「ものみの塔」研究のことを言っておられるのでしょうか。たしかに、その集会では「ものみの塔」誌の研究記事が扱われ、朗読がなされます。しかし、証人たちは「ものみの塔」誌を聖書の代わりに「神の言葉」として扱うことはありません。彼らが不謬だとしているのは「聖書」だけです。「ものみの塔」誌自身が不謬ではないことを主張しています。多くの方もご存知のように「ものみの塔」誌は時の経過と共に新しい教理を載せてきました。こうした教理の変更はもちろん「聖書」に基づいています。また、エホバの証人は、多くの方が主張されるように「新世界訳」だけを「聖書」と呼んでいるのではありません。「新共同訳」も「新改訳」もその他すべても聖書とみなしています。ですから、「ものみの塔」誌でも時々引用します。1985年までは「文語訳聖書」(日本聖書協会)も用いてきました。ただし、「正典」のみです。「外典」は作り話として退けます。
00年1月26日
これは日曜日に行われる「ものみの塔」研究のことを言っておられるのでしょうか。たしかに、その集会では「ものみの塔」誌の研究記事が扱われ、朗読がなされます。しかし、証人たちは「ものみの塔」誌を聖書の代わりに「神の言葉」として扱うことはありません。「日曜日に行われる「ものみの塔」研究のこと」ではありません。わたしはもちろんそのことについてもよく知っていますが、そうではなく、日曜日に行われる通常の礼拝の説教のなかで、通常使われる聖書の引用に加えて、ある黒い表紙の小さな本(『知識』とほぼ同じぐらいのサイズではなかったかと記憶しています。残念ながらタイトルは覚えていません。)が引用されました。わたしはそのようなものを持ち合わせていなかったので、すぐその場で隣の方に借していただいたのです。エホバの証人の長老達が書いた本が、礼拝の説教で「神の言葉」として引用されるのですから、聖書以外の本、すなわち新しい外典が、エホバの証人の礼拝儀式のなかで正典として利用されたことになります。
多くの方もご存知のように「ものみの塔」誌は時の経過と共に新しい教理を載せてきました。現代における「神の組織」であるエホバの証人も間違うこともある、と認めておられるのでしょう。 そうすると、「聖書はいかなる間違いを含まない神の言葉である」という、これまたエホバの証人の教えの一つにすぎないものも絶対化すべきではないし、2千年前の「神の組織」であった初期のクリスチャン(聖書を書いた人々)を誤謬から完全に開放されていたと思い込むのもおかしいと思うのですが、どうでしょうか。
また、エホバの証人が過去の教えの間違いを認めるといっても、個人の意見として間違いを認めるのではなく、組織が公的に間違いと発表したときだけその間違いが認められるのであって、しかも、組織が公的に間違いと発表したものは、その前日までには正しいと信じ述べ伝えていたいたそのメンバーの個々にとってもすぐさま間違いとなるのですから、エホバの証人が真理の探求者の集まりではなく、権威(組織)への従順者の集まりにすぎないことが明白になります。真理を捨てて権威に従う --- 信仰とは本来そういうものでしょう。
おたより、ありがとうございました。