佐倉さん、今日は。向です。ご返事は頂けないものと思っておりましたので、意外に早く私の意見等に対する回答を頂けたことに驚いております。どうも有り難うございました。

回答の中に参考資料として提示されていたものの中で、「真理と論理、および真理の根拠」という論文を読ませていただきました。あなたの「幸福」に対するお考えはすでに以前読ませていただいておりました。

まず、私の(ような)考え方を「積み木型モデル」とし、その構造的な欠陥を指摘されておられます。「真理と論理、および真理の根拠」の結論の中に

「究極的真理」がわたしたちに求めるものは、信仰という名の賭にすぎません。
とありますが、ある意味ではその通りだと思います。私が幸福の科学の会員になった、ということは、大川総裁は明らかに私の認識を越えた視点で幸福とは何か、いかに生きるべきかということを示しておられる、ということを認め、それを全く前提条件を必要としないものとして、いわば「究極的真理」として自分のあらゆる価値判断の根底に据えているからです。大川総裁があの世や霊、仏神など私の認識を越えたことに言及されるときに、私にはそれを追体験し確認するということが出来ませんから、一つの賭である、という指摘は当たっているかも知れません。

私には、あなたが使っておられる目の見えない人とゾウのたとえが分かりやすいのでそれに関連づけて話を進めたいと思うのですが、このたとえでいくと、私の立場というのは、自分自身は目が見えないけれども、目が見える人がいるということはあり得ることだと考え、その「自分は目が見えている」と主張される方の中でこの人は信頼に足るとし、それを受け入れる(信じる)という賭に出ているわけです。私にはゾウの全体像を認識する能力はありませんが、信頼できる方が「ゾウとは実はこういうものですよ」といわれるのであれば、「そういうものなのだろう」と思い受け入れます。しかし、その時点では「信じた」ということであって、「理解した」「知った」ということは、私には言うことが出来ません。従って、たとえいったん信じたとしても、より正確に「ゾウとはいかなるものであるか」ということを把握するために、それに触れたり、上ってみたり、匂いをかいだりするという努力を惜しむことはありません。また、そういった実験をしている人の報告を軽視するわけでもありません。それに対して、あなたのお立場は、まずそういった「自分は目が見える、だからゾウが如何なるものであるかより正確に把握することが出来る」というような主張をする人というのを、「思いこみ」「公共性・客観性がない」「ドグマ」などということで、全てことごとく切って捨てておられるように私には思われます。

人間の認識の範囲を規定し、その規定以上の認識を持つ人間などいないという前提条件を持ってその上に真理の探究をしておられるのではないでしょうか。そして、「人間は所詮目が見えないのだから、ゾウの全体像を一瞬のうちに把握することなどあり得ないことである。従って、その全体像に近づくためには触れたり登ったりして、お互いの経験を共有していくしかないし、その知識は半永久的に局部的・条件的なものにとどまらざるを得ない」と考えておられるのではないか、と思います。まず、こういったお互いの立場のちがいをはっきりとしておきたいと思います。そして、根本的な立場の違いがある以上、私たちの議論に最終的な結論が出ることはないと思いますが、お互いに何か得るものがあれば幸いと考えております。

なぜ私が、大川総裁は信頼に足る方である、という判断を下すことが出来るのか、その合理的な理由・根拠を示せ、といわれると思いますが、合理的根拠は、その「合理的」という言葉が、心を静めたときの私の内側から来る揺るがしがたい確信、というようなものを「ただの思いこみ」として否定する方向に使われているのなら、まったくありません。私は、幸福の科学に入る前に十冊弱の(幸福の科学の)書籍を繰り返し読んでおりましたが、これは本当のことである、とする内からの確信が読むにつれて大きくなってきたことを覚えています。また、会員になってからも、ずっと幸福の科学の書籍を読み続け、講演会のテープなども片っ端から繰り返し聞いているのですが、私の「これは嘘であるはずがない」とする確信は高まる一方です。私は、なるべく先入観を持たず、心を白紙にして本を読んだりテープを聞いたりしていますが、信仰を持っているものが先入観無く物事をみることなど出来るわけがない、といわれれば、それは違うといいきることは、私には出来ません。私はただ、「これは素晴らしい」という内なる確信に従っているだけです。そういった意味では、私は大川総裁が言っておられることは本物だ、と確信する自分自身の直感も無前提に受け入れていることになります。この辺は佐倉さんと真正面から対立することになるので、深入りは避けたいと思っていたのですが、たとえば、私への返答の中で大川総裁の伝えておられるあの世の姿は、佐倉さんには「はなはだ荒唐無稽でばからしいもの」に感じられるようですが、私にはその感覚がさっぱり理解できないわけです。つまり、大川総裁のあの世、魂などに関する教えのどこが「はなはだ荒唐無稽でばからしい」ものなのか、見当もつきません。私にそこから感じられるものは、特殊な真実を知ってしまいそれは伝えなければならないものだから伝えようとする真摯な思いのみです。私は、この自分の直感的なものが「思いこみ」「盲目的信仰」などとして切って捨てられるものであるとは思えません。しかし、これを論理的にかつ合理的に説明しろ、といわれればそれは出来ないというしかありません。ただ、私はこの直観的な判断というのも人間の本質的なものであると思いますし、それを愚かな知恵の足りないことと決めつけられたらやはり釈然としないものを感じます。

モーツァルトの音楽を聴いて美しいと感じるその理由を私は必ずしも論理的に説明することは出来ませんが、如何なる論理的説明以前に、それを美しいと感じている自分があり、これを「鼓膜の振動によるまやかし」などとされても、私はとうてい納得できないと思います。美しいものは美しいのです。まず美しいという印象を受け、自分はどういったものに対して「美しさ」というものを感じるのだろう、という分析を論理的に構築していくことは出来ると思います。しかし、どのような論理を持ってこられても、モーツァルトの音楽を私と同様に美しいと感じているひとが世界中にいるということは否定できません。そして、それは「思いこみ」などとしてくだらないものと決めつけるには、あまりにも根元的な感覚だと思います。

そもそも、なぜ客観的な確認が出来ないものを信じなければならないのか、という疑問があると思います。あの世の存在、霊魂の存在といった誰しもが追体験することが出来ないものをなぜ信じる必要があるのか、そのようなものを知ろうとする試み自体が愚かしいことで、佐倉さんにはそうしたことを知ろうとする動機そのものが消えた、ということも書いてあったと思います。しかし、人間は皆死んでいくものであるということは誰でも知っていますし、そうである以上自分は肉体の死を迎えた後にも存在するのだろうか、という疑問が出てくるし、また、自分は死後も存在し続けたいとする願いを誰しもが自然に抱くものです。その願いは、「自我から出てくる欲望」などとして容易に否定されてしまうようなものではなく、心の奥から出てくる願いであると私には感じられます。人間がそうした突然地上に現れ数十年の人生の後あとかたもなく消滅してしまうものであるならば、どうして多くの人が死後も存在したいという願いを自然に抱くでしょうか。私は、こうした願いを人間が持つ理由が必ずある、と考えるものであり、それは「ただの生存欲」などとして片づけられるものではないということもいえると思います。また、それが科学的な証明がなされ誰の目にも明らかな事実として認定されるまでは結論を出さない、という考えもあると思いますが、少なくとも自分にとってそれは一刻も早く結論を出さなければならなかった緊急の要請であって、科学的な証明がなされるのを悠長に待っている猶予はなかったと思います。まあこれは、私の思考方法が「積み木型の思考」だから当然かも知れません。しかし、あの世の実在、霊魂の実在、ということに対して大川総裁の教えを知ることで確信を持つことが出来たということが私の心の平和、安定にもたらしたものは、大変大きなものがありました。

仏神が存在するということ、あの世や霊魂というものが在るということに確信を持ちたいとする気持ちは人間の「知りたい」という欲の一番深いところにあり、食欲、睡眠欲などと同じように生きていく上で当然出てくる欲であり、この欲が満たされないと何らかの形で不幸感覚を感じるものである、というのが私の実感です。この自分の認識が及ばないところについても何らかの確信を持ちたいとする「欲望」は、仏神や霊魂が存在するということのみにとどまりません。私は、人間が価値判断するためには、何らかの形而上学的根拠を持つことが必要不可欠である、と考えているのです。佐倉さんは、私の思考方法を「積み木型」として批判されておられますが、ではあなたの「知球モデル」なる思考方法によってどのように価値判断をすることが出来たでしょうか。どのようにして物事の善悪を見分けることが出来るのでしょうか。あなたの目の前の人がいきなりあなたに対して殴る蹴るの暴行を加えてきたとして、彼らを責めることが出来ましょうか。窃盗、放火などの社会的ルールを破る人間に対して、「彼らは間違っている」といい切れましょうか。

あなたの「知球モデル」型の思考方法は一見非常に論理的で隙のない考え方であるように見えますが、非現実的である、と私には思えます。日本では「援助交際」なるものが社会的問題になったそうですが、それがどうして間違っているのか言い切ることは、少なくともあなたの思考方法では出来ないのではないでしょうか。おそらくあなたの思考方法から出てくる結論というのは、「善悪などは人間が造りだしたものであって、そのようなものはもともとない。従って物事の善悪など追求しようとする事自体ばからしい」というようなものになるのではないでしょうか。そうしたお考えでは、「幸福を追求することはナンセンスであり不毛な努力である」という結論が出るのも当然だと思います。しかし、あなたはどうなのか知りませんが、少なくとも私には、世の中には、間違ったことと正しいこと、素晴らしいものとそうでないもの、美しいものとそうでないものという区別が明らかに存在していると考えられますし、幸福感と不幸感というものが人間の精神作用として明らかに存在していると感じられます。そして、より正しいものを、より素晴らしいものを、より美しいものを、より大きな幸福感を求めて色々な探求をしているのです。あなたの「幸福の追求」という論文のなかにも

・・・いつのまにか、四方八方から幸福に襲われているのです。
とありますが、結局そこには自分が幸福かどうかを確認する態度というものが現れています。「自由」を得ることによって、幸福感を感じているあなたが確かにいるわけでしょう。幸福の追求方法を変えることによってより大きな幸福を得ることが出来た、ということなのではないですか。いずれにしよ、人間が幸福という問題から離れることはあり得ない、と私は考えています。

以上で、私と佐倉さんの立場が根底から違っているということを述べました。最後に、この立場の違いをふまえた上で、私の以前のメールに対して佐倉さんが返答して下さったことに簡単に意見を述べておきたいと思います。

(1)「最終的な拠り所」「一番根底にあるもの」

お聞きしますが、どうして、向さんは、「自分自身の幸福と他人の幸福がともに達成されるという方向を常に目指す」ことを「最終的な拠り所」「一番根底にあるもの」とされたのですか・・・
とありますが、もちろんそういった意味で私が根底に持っているものは、宇宙の根元なる存在に対する信仰、その意志を伝えて下さる大川総裁への信頼と尊敬、そして自分の内側から来る直感的なものであるということは、上でも述べました。しかし、実際にある現実に対し判断を迫られたとき、より具体的な指針が必要になるわけで、そうしたときにまず考えるのは「自分自身の幸福と他人の幸福がともに実現される方向を常に目指す」ということだ、と言ったわけです。私が学び、思索を重ねた結果、大宇宙の根元なる存在の意志、それを伝えておられる大川総裁のお考え、そして自分の内なる直感が一致する点、「これだけは正しい方向だ」と言い切れる結論として現時点で持っているものが、それだということです。

(2)信仰と知識に関しては、もう充分に意見を述べました。

(3)「あなたに要求します」

あなたの返答のなかから、少なくともあなたの解釈によるブッダの考えと大川総裁の考えは一致しないので大川総裁がブッダの生まれ変わりであるなどと言うことは受け入れがたい(が、あなた自身にも本当のところはわかっていない)、という言明がなされたようなので、それについてはこれ以上追求するのは止めておきます。ただ、その次の(4)仏典の価値のなかで

しかし、仏典として残された資料や考古学的情報だけが、歴史上のブッダの思想に迫ることのできる、わたしたちの唯一の手段です。したがって、ブッダの思想について語るなら、少なくとも、仏典として残された資料から語らねばなりません。そうでなければ個人の単なる空想にすぎないからです。

・・・大川さんの教えは仏教とはほとんど何の関係もないことが、仏典を読めば明らかになっていきます。したがって、幸福の科学が「仏典を信用するな」とその信者に教え込もうとするのはよくわかります。仏典は大川さんの教えがニセ仏教であることを示してしまうからでしょう。

などとされていることには反論をしておきたいと思います。幸福の科学の「仏陀再誕」という本は、天上界におられる大川総裁の魂の兄弟であるブッダの意識が、大川総裁の口を借りて弟子達にその教えを語っている、ということになっています。このこと自体佐倉さんにとっては考察するに値しない「はなはだ荒唐無稽でばからしい」ものなのでしょうが、このことが「事実に反している」「偽りである」とはっきりと言い切れましょうか。なぜそれが「個人の単なる空想にすぎない」と言い切れるのでしょうか。私が、あなたには少し謙虚な姿勢が欠けている、と以前のメールで指摘したのははっきり答えを出すことが出来ない物事に断定を下していることです。

同じ事は、あなたが「仏典を読めばいかに大川総裁の教えが仏教から遠いものか分かる」という断定を下しておられる事に対してもいえます。同じ仏典を読んでもあなたと全く逆の解釈をされる方がおられる、ということはあなたとtakapさんとの議論を見ていて私にはつくづく感じられましたし、私にはむしろtakapさんの主張の方が偏りのない公平な解釈であるように感じられた、ということも前回のメールに書きました。そのtakapさんの解釈はそれほど幸福の科学の教えと遠いものでは無かったように思います。いずれにしよ、なぜあなたが「仏典は大川さんの教えがニセ仏教であることを示してしまう」などということを臆面もなく言い切れるのか、その姿勢を問うたのであって、表現の訂正というようなこと自体は、大したことではありません。

それから、「幸福の科学が「仏典を信用するな」とその信者に教え込もうとする」とありますが、私はそのようなことを誰からも言われたことがありませんし、大川総裁の教えにもそんなことはどこにも書いてありません。しかし、私は、幸福の科学の教えは、仏陀の魂の本体であるエル・カンターレが地上に下生された存在であるところの大川総裁によって説かれているものである、と信じているのですから、わざわざ昔のお釈迦様の教えを伝えているという仏典にまで手を広げようとは思いませんし、それは幸福の科学の教えを信じる人間として、自然に出てくる姿勢だと思います。

以上が私の意見と反論です。


(1)幸福の科学において一貫している仏典軽視の姿勢

「幸福の科学が「仏典を信用するな」とその信者に教え込もうとする」とありますが、私はそのようなことを誰からも言われたことがありませんし、大川総裁の教えにもそんなことはどこにも書いてありません。しかし、私は、幸福の科学の教えは、仏陀の魂の本体であるエル・カンターレが地上に下生された存在であるところの大川総裁によって説かれているものである、と信じているのですから、わざわざ昔のお釈迦様の教えを伝えているという仏典にまで手を広げようとは思いませんし、それは幸福の科学の教えを信じる人間として、自然に出てくる姿勢だと思います。
向さんご自身がお認めになっているように、「お釈迦様の教えを伝えているという仏典にまで手を広げようとは思いません」という仏典軽視の姿勢は、確かに「幸福の科学の教えを信じる人間として、自然に出てくる姿勢」です。そのような姿勢は、わたしがはじめて近所の幸福の科学の支部をたずねたときにすぐに理解することができました。そこには仏典は一冊もなく、かわりに、大川さんの著書やビデオが並べてありました。支部長さんとのお話の中でお聞きすると、幸福の科学において「仏法真理を学ぶとは、大川さんの教えを学ぶことだ」、ということでした。同様の姿勢は、本サイトに寄せられる幸福の科学の信者の方からいただくお便りの中からも容易に見て取れます。たとえば、
過去の仏教とかとの整合性はあまり気にしなくていいと思います。(山本正彦さん
といった具合です。こういう仏典軽視の姿勢が幸福の科学の信者の間で一貫していることが、まさに、わたしが「幸福の科学が「仏典を信用するなと」その信者に教え込もうとする」といったことを裏付けていると言えるでしょう。具体的にそっくりそのままの言葉で教えられていなくても、実質的に、仏典軽視は幸福の科学における日々の実践です。それは、おそらく、向さんがおっしゃるように、教祖信仰のなかに仏典軽視が含意されているからでしょう。だから、
グラール:大川総裁先生は、仏陀と同じ法を説くために下降されたわけでもないのです。仏教関係者の方には受け入れられないかもしれませんが、それ以上の法を、この時代に合ったスタイルで説かれているのです。(グラールさん

佐倉  :どのようにして、何を根拠に、グラールさんは、「大川総裁先生は[ブッダ以上の法を説くために]下降された」、と信じるようになられたのですか。くわしく教えて下さい。

グラール:根拠はハッキリとは答えられないのです。しいて申し上げますならば、「魂の疼き」とでも言いましょうか、そのような物です。 (グラールさん

というようなことになります。いったい、幸福の科学という世界の中では、いかにしてこんなことが可能となってしまったのか。大川さんの教えこそが「仏法真理」であるとか、大川さんの教えは「ブッダ以上の法」であるというような主張が、仏教(仏典に残されたブッダの教え)をまったく調べることなく、いかにして、可能となったのか。


(2)謙虚な姿勢と独裁者

前述の高橋さんとの議論の中における発言や、「ブッダと大川隆法」におけるあなたの発言全般をみるにつけ、少し謙虚な姿勢が欠けている、と私にはどうしても感じられます。(前回)

なぜあなたが「仏典は大川さんの教えがニセ仏教であることを示してしまう」などということを臆面もなく言い切れるのか、その姿勢を問うた・・・

仏教については一切何も学ぶつもりもなく(「お釈迦様の教えを伝えているという仏典にまで手を広げようとは思いません」)、「「これは素晴らしい」という内なる確信に従っているだけ」で、教祖の言うことをそのまま仏法真理であると「臆面もなく言い切れる」姿勢がはたして「謙虚な姿勢」なのか、わたしにはその方が疑わしく思われますが、それはともかくとして、おっしゃるように、おそらくわたしには「少し謙虚な姿勢が欠けている」のでしょう。しかし、歴史を省みるとき、大川さんであろうと麻原さんであろうと文鮮明さんであろうとスターリンであろうとポルポトであろうと誰であろうと、独裁者に対して謙虚であることはむしろ悪なのではないでしょうか。
もし、地上にある仏陀[わたし、大川隆法]の教えを誹り、これに背く者あらば、それは大宇宙大霊に意に反すると言ってよい。なぜならば、大宇宙大霊はその時代のすべての責任を仏陀に命じているからである。仏陀[わたし、大川隆法]はすべての権限をもって、地上に降りているからである。その時代の価値観を決め、その時代の正しさを決め、その時代の善とはないかを決め、その時代の真理とは何かを決める者、それが仏陀[わたし、大川隆法]である。したがって、たとえ心の中で過去の人をいかに尊敬しようとも、たとえ心のなかで、宇宙の彼方に住むかもしれぬ神仏をいかに尊敬しても、地に降りたる仏陀[わたし、大川隆法]を尊敬する気持ちがないならば、もはや、信仰ある者とは言えない。・・・

地上に覚者[わたし、大川隆法]あるとき、その覚者に対する信仰を忘れてはならない。地上に覚者[わたし、大川隆法]あるとき、その時代に生まれ合わせた喜びを忘れてはならない。その権威を畏れなければならない。その権威を信じなければならない。その権威に従わなければならない。その権威を否定し、忌み嫌い、この権威を自分の理解の範囲内で解釈しようとする者は、ことごとく間違いの淵のなかに投げ入れられる。それは、宇宙の仏を否定することと同じ。宇宙の仏を冒涜することと同じであるということだ。このように、仏の代理人を地上に送るということは、天上界における人格大霊(神々)の一致した考えであり、そうした代理人[わたし、大川隆法]が地上に降りてゆく時には、その者[わたし、大川隆法]の考えにすべてを合わせてゆくことが正しい行為であるのだ。これが信仰の根本であるということを、私は繰り返し繰り返し言っておく。・・・

疑いの中で真実の法は説かれない。疑いの中に広がるものは悪魔の領域である。・・・決して迷ってはならない。自分の小さな頭で何がわかるか。自分の小さな頭で理解したところで、いったい何がわかるか。小賢しい知恵で何がわかるか。なにゆえに、そのような小さな頭で、仏陀[わたし、大川隆法]の叡知を量ることができるか。仏陀を送りたもうた人格大霊の意図を見抜くことができるか。みずからの小ささをあざ笑うがよい。みずからの小ささを卑下するがよい。そのような立場に、今、自分がないということを知るがよい。疑いは、これは悪魔の心。猜疑もまた悪魔の心。恐怖もまた悪魔の心。このような心をもって探求とは言わない。・・・探求の姿勢とは、猜疑の姿勢ではない。探求心とは、猜疑心ではなく、疑念の心でもない。そのような心が起きた時、もはや修業の途上にはないと言わざるを得ない。そのような時、その者はもはや修行者とは言われない。・・・・決して、何も批判を口にしてはならない。・・・信仰とは、百パーセントの信仰にして、九十九パーセントの信仰はありえないのだ。九十九パーセントの信仰はゼロに等しい。信仰は、百パーセントを求める。それは、仏[わたし、大川隆法]はすべてであるからだ。

(大川隆法著、『仏陀再誕:縁生の弟子たちへのメッセージ』、308〜317頁)

このような、お世辞にも「謙虚な姿勢」とは言えない独裁者に対しては、「少し謙虚な姿勢が欠けている」ことこそが善ではないでしょうか。サリンをまいたオウムの信者たちはかれらの独裁者に対して「謙虚過ぎた」ために、独裁者の(人々の魂を救済し幸福にしようとする恐ろしき)意志を現実化することになったのですから。もし、かれらがかれらの独裁者に対して「少し謙虚な姿勢が欠けて」いたら、あのようなことにはならなかったでしょう。


(3)価値の究極的根拠

あなたの「知球モデル」型の思考方法は一見非常に論理的で隙のない考え方であるように見えますが、非現実的である、と私には思えます。日本では「援助交際」なるものが社会的問題になったそうですが、それがどうして間違っているのか言い切ることは、少なくともあなたの思考方法では出来ないのではないでしょうか。おそらくあなたの思考方法から出てくる結論というのは、「善悪などは人間が造りだしたものであって、そのようなものはもともとない。従って物事の善悪など追求しようとする事自体ばからしい」というようなものになるのではないでしょうか。
論理が飛躍しています。たとえ「善悪などは人間が造りだしたもの」ということだとしても、そこから「善悪など追求しようとする事自体ばからしい」という結論は出てきません。

もし、「善悪などは人間が造りだしたもの」ならば、人間がそれ(善悪の行動規範)を欲したに違いありません。もし、人間がそれを欲したのならば、人間はそれ(善悪の行動規範)を好ましいものと評価したのです。もし、人間がそれ(善悪の行動規範)を好ましいものと評価したのならば、その人間がどうして「ばからしい」と考えるでしょうか。こういうわけで、「善悪などは人間が造りだしたもので」としても、そこから、「善悪など追求しようとする事自体ばからしい」という結論は必ずしも出てきません。論理的飛躍です。

このような論理的飛躍・誤謬の背後にあるのは、おそらく、あの、神や魂の存在(道徳的価値の究極的根拠)を認めなければ道徳的・倫理的無政府状態に陥る、という、巷にあふれる誤謬の宣伝でしょう。しかし、道徳的価値の究極的根拠としての神や魂を想定しても、問題は解決しないことについては、「殺せ!と神が命じるとき」で説明している通りです。

日本では「援助交際」なるものが社会的問題になったそうですが、それがどうして間違っているのか言い切ることは、少なくともあなたの思考方法では出来ないのではないでしょうか。
何が善で何が悪かを独裁者の判断に任せてしまったひとには、独裁者の前で「謙遜」になることが、どうして間違っているのかを言い切ることはできないでしょう。歴史を振り返ればわかるように、何が善で何が悪かを独裁者の判断に任せてしまう悪に比べれば、「援助交際」の悪など何でもありません。


(4)事実の公共性と私的問題

どのような論理を持ってこられても、モーツァルトの音楽を私と同様に美しいと感じているひとが世界中にいるということは否定できません。そして、それは「思いこみ」などとしてくだらないものと決めつけるには、あまりにも根元的な感覚だと思います。
本質的に異なる二つの問題を一緒にされているために、混乱されているようです。わたしは、人がある音楽を聞いて「美しい」と感じることを、「合理的に説明していない」などと否定しているわけではありません。そんなことを「思い込み」という言葉で問題にしているのではありません。そうではなく、例えば、モーツァルトの生涯や曲に関して事実を何も調べもしないで、(すなわち、モーツァルトやその音楽に関して何も知らないのに)、心の中の「直感」とか「心の疼き]だけで、「いま聞こえている音楽はモーツァルトとの音楽だ」などと外的事実に関する主張がなされることを問題としているのです。ブッダの教えについて何も事実を調べもしないで、「直感」とか「心の疼き]だけで、ブッダの教え(歴史的事実)について主張することを、「思い込み」という言葉で問題にしているのです。

私は、この自分の直感的なものが「思いこみ」「盲目的信仰」などとして切って捨てられるものであるとは思えません。しかし、これを論理的にかつ合理的に説明しろ、といわれればそれは出来ないというしかありません。ただ、私はこの直観的な判断というのも人間の本質的なものであると思いますし、それを愚かな知恵の足りないことと決めつけられたらやはり釈然としないものを感じます。
「直感」とか「心の疼き]といったこころの現象自体は内面的・個人的事実ではあっても、その「直感」とか「心の疼き]の内容が、公共の世界に関するものであるとき、「思い込み」問題となります。モーツァルトの音楽を美しいと感じる直感そのものは私的問題です。しかし、その直感の内容が、たとえば、「今聞いている音楽はモーツァルトが作曲した」とか、「これこれがブッダの教えである」といった歴史や世界に関する事実問題であるとき、それは、交通信号がいま青なのか赤なのか、いま何時で、東京行きの電車は何時に出るのか、といった問題と同じく、私的趣味の問題とは違って、それぞれが勝手な回答を持つことは許されない、いわば公共的問題となるでしょう。事実は矛盾を受け入れないからです。私的趣味の問題なら好き嫌いの問題ですから合理的説明は必要ないでしょうが、公共的事実の問題なら合理的説明が必要です。私的な直感で決められたら困る問題です。

音楽を聴いて感動している、という私的問題に対して、公共的事実の問題の尺度を持ち出して、「合理的に説明しなければ、あなたの感動は認めない」などと言われれば、だれでも、「釈然としないものを感じ」ることでしょう。逆に、たとえば、音楽の歴史家・研究家にしてみれば、音楽の事実についてまったく何も調べもしないで、サイコロを投げて決めるかのごとく、心の直感の赴くままに、「これはモーツァルト、あれはベートーヴェン、それはバッハ・・・」などと決めつけられては、それこそ「釈然としないものを感じ」るに違いありません。合理的説明が必要な公共的事実の問題に対して、私的問題における尺度(「教祖信仰」、「直感」、「内側からの確信」、「心の疼き」など)を持ち出して、勝手に答えを出してしまっているからです。


(5)「荒唐無稽に思える」ことと事実判断

幸福の科学の「仏陀再誕」という本は、天上界におられる大川総裁の魂の兄弟であるブッダの意識が、大川総裁の口を借りて弟子達にその教えを語っている、ということになっています。このこと自体佐倉さんにとっては考察するに値しない「はなはだ荒唐無稽でばからしい」ものなのでしょうが、このことが「事実に反している」「偽りである」とはっきりと言い切れましょうか。
わたしには、どうして、向さんが、わたしの主張そのものを批判せず、わたしの主張をかってに引き伸ばし、引き伸ばされ変形されて、すでにわたしの主張ではなくなっているものを批判の対象にされるのか、わかりません。

わたしは、大川さんの書いたものを読むたびに、「これは、ひどい」という感想を持ちます。「九次元の世界」だの、「地球系霊団」だの、「地球神」だの、「エル・ランティ」だのといった記述を読むと、「はなはだ荒唐無稽でばからしい」というのが偽らざるわたしの感想なのです。しかし、わたしは、わたしがそのように感じる(直感する)ということから、

「事実に反している」「偽りである」とはっきりと言い切
ったりしてはいません。わたしは、向さんのように、自分の直感から、とくに霊界だの死後の世界などの事柄に関して、事実判断を引きだしたりしません。

だから、わたしは、人間〔普通の人間)には、そのような世界の事柄など知覚できないのだから、大川さんがこれらのことに関してどんなデタラメを言っても、正しいことも証明できないけれど、間違っていることを証明することはできない、と繰りかえし繰り返し述べているわけです。

しかし・・・

同じ事は、あなたが「仏典を読めばいかに大川総裁の教えが仏教から遠いものか分かる」という断定を下しておられる事に対してもいえます。・・・なぜあなたが「仏典は大川さんの教えがニセ仏教であることを示してしまう」などということを臆面もなく言い切れるのか、その姿勢を問うた・・・
「同じ事」ではありません。史的ブッダも、ブッダの思想を伝えんとする仏典と仏教も、歴史的事実です -- これらは、「九次元の世界」だの「地球系霊団」だのといった、人間〔普通の人間)の知覚にはとどかない(もしかしたらまったく存在しない)霊界の世界の事柄ではありません。史的ブッダもその痕跡を歴史上に残し、仏典その他の考古学的資料を通して、わたしたち(普通の人間)の研究の対象になります。つまり、仏教〔仏典)におけるブッダの思想はわたしたちの知識です。

一方、大川さんも自分の教えを「仏法真理」とか「ブッダの本心」とかいう言葉で、ブッダの教えである、と主張されています。そうすると、わたしたちは、二つを比較することができます。仏教と大川さんの二つを比較して、両者が本質的に異質なものであるという結論になれば、当然、大川さんの教えは仏教とは異なる(それを「ニセ仏教」と呼んだわけですが)、ということになります。

takapさんとのやり取りは仏教内における論争です。膨大な相矛盾する仏典のなかからどの教えが史的ブッダあるいは原始仏教の教えに近いかという論争なのですから。そのような論争は仏典そのもののなかににたくさんあります。仏教仏典とは無関係な次元(霊界?空想?)から、ブッダの教えとは何かを語られる大川さんとはまったく異なっています。

takapさんの理解と幸福の科学の教えとが重なるところは、永遠の魂(アートマン)を積極的に認めるところでしょう。わたしは、ブッダ(あるいは原始仏教)は、永遠の魂については「ある」とも「ない」とも教えなかった〔無記)という立場を取りますが、takapさんは、幸福の科学と同じように、永遠の魂を積極的に認められています。仏教はこの問題について「無記」(沈黙)の立場をとったので、結果として、仏教は、takapさんのような立場の人も、わたしのような立場の者も、仏教思想史を見ればわかるように、どちらの立場をも惹きつけることになっています。それに比べて、永遠の魂を信じなければ地獄に行く、という大川さんの排他的な教えは、この点においても、仏教の伝統から大きく外れるものだと思います。これは、大川さんの宗教がもともと、魂とか霊界とかを教義の中心に置くGLAという新興宗教から派生したものであって、仏教の教義は二次的にあとから加えられたものだからでしょう。

ただ、「ニセ仏教」というわたしの表現は、誤解を生む表現だったと思います。なぜなら、「ニセ仏教」と言うかぎり、何か確固とした、ゆるぎない、「一つの本物の仏教」というものがあるように誤解されそうだからです。「わたしが今まで調べてきた仏教のどれと比べても、大川さんの宗教は根本的に異質な宗教である」というわたしの見解だと解してください。


(6)大川さんの間違い

霊界や死後の世界などについて語られることは、それがどんなでたらめであろうが、わたしたち凡人の知覚の届かない領域のことであるため、わたしたち凡人には間違っていると指摘することはできません。しかし、歴史や地上での事柄について語られたことなら、わたしたち凡人もそれが本当に事実かどうか調べてみることができます。これは氷山の一角に過ぎませんが、以下にその二三を紹介します。

すでに、「大川隆法の霊示」でも紹介しましたが、大川さんは

12月25日とは、イエス・キリストの生まれた日です。

(『内村鑑三霊示集』、192頁)

と語られています。12月25日はクリスマスで、イエスの誕生を祝うので、その日がイエスの誕生日だと思い込んでいる日本人も多いことでしょう。しかし、12月25日が「イエス・キリストの生まれた日」ではありません。


旧約聖書のなかには、アラーという神があり、天と地を分け、さまざまなものをつくられたことになっています・・・

(同上、109頁)

アラーという神が出てくるのはイスラム教の教典クルアーンであって、ユダヤ教やキリスト教の教典である旧約聖書のなかにはでてきません。

イスラムに関して、大川さんは次のようにも言っておられます。


モーゼ以前の世界でも、イスラムの世界の中においては、「ハムラビ法典」のような、そうした法典もありました。

(『永遠の法』、32頁)

「ハムラビ法典」が編纂されたのは古代メソポタミア文明(西暦前1760年ごろ)ですが、イスラム世界ができるのは、それから約二千四百年後のイスラム教の創始者ムハンマドの宗教的体験(西暦610年ごろ)以後でなければなりません。つまり、西暦七世紀以前にはイスラム世界は存在しないのですから、「モーゼ以前の世界」のイスラム世界など存在せず、「イスラム世界の中」の「ハムラビ法典」もあり得ません。


釈迦在世時の思想が、二、三百年経ったころ小乗仏教の時代・・・に、その教えをいろいろと研究するグループに分かれたわけですが、そのなかの「説一切有部」という学派が、釈尊の無我の思想を、「実体的な魂存在としての『我』なるものはなく、人間というものは五蘊の集まりなのである」という考え方に統一したのです。

(大川隆法、『悟りの挑戦(下)』、160〜161頁)

説一切有部(サルヴァスティ・ヴァーディン)などの部派仏教が生まれる以前に作られた原始仏典(『サンユッタ・ニカーヤ』や『マッジマ・ニカーヤ』や『テーリ・ガータ』等々)を読んでいただけたら、そこにすでに五蘊の思想が語られていることにすぐお気づきになるでしょう。したがって、五蘊の思想が説一切有部の特殊思想ではないことがわかるでしょう。

説一切有部は西北地方(カシミール、ガンダーラ)で勢力を持っていた部派で、かれらの教典は、多くの大乗仏典と同じように、古典サンスクリット語で記されました。上座部(テラヴァーダ・ヴァーディン)は南方、とくにセイロン(スリランカ)で、勢力を持っていた部派で、かれらの教典はパーリ語で書かれました。(Kogen Mizuno, Buddhist Sutaras, pp.29-33) これら二つの部派が所持していた教典(たとえば『マッジマ・ニカーヤ』)を比べてみれば、そのどちらにも、五蘊の思想が含まれていることがすぐにわかるでしょう。このことは、この思想が、仏教の部派分裂よりも古い時代に所属する、もっと古い層の仏教思想の一つであることを示しています。

五蘊の思想は古いだけでなく、後代の新しい大乗仏典、たとえば『般若心経』のなかでも、「五蘊皆空なり」とか「色は即ちこれ空、空は即ちこれ色なり。受想行識もまたかくのごとし」というふうに取り入れらています。すなわち、五蘊の思想は、原始仏教から新しい大乗仏教に至るまで、すべての仏教学派の共有財産(「仏教全般に共通する五蘊」、三枝充悳、『バウッダ』179頁)です。五蘊の思想を否定している仏教学派はひとつもありません。それがあまりにも仏教の根本的なところに所属する思想の一つだからです。

したがって、五蘊の思想を説一切有部の特殊思想であるとしてそれを否定する大川さんの主張は、ただ歴史的事実としてデタラメであるだけでなく、原始仏教から大乗仏教に至るまでのすべての仏教学派の思想的共通財産の一つを否定していることにもなるわけです。

こうして、キリスト教やイスラム教や仏教の歴史について誤謬を教えておられる大川さんは、霊界についてだけは真実を教えておられるのでしょうか。そういう可能性もあるかもしれません。しかし、霊界については何も言えない凡人のわたしたちは、「現実の歴史についてさえ誤謬を教えておられるのだから、凡人に見えない霊界についても誤謬を教えておられるかもしれない」と想像したくなるのはやむを得ません。とくに、大川さんがエル・カンターレという神のが地上に姿を現した人であり、また、自由に霊界のモーゼやイエスやムハンマドやブッダと交信すことができると言われるのですから、キリスト教やイスラム教や仏教の歴史について誤謬をおかすことは考えにくいからです。


(7)結論

最後のところをまとめておきます。

(ア) まず、大川さんは神(エル・カンターレ)が肉体をもって地上に現れた現人神であり、モーゼやイエスやムハンマドやブッダを始めとして霊界の人々や神々や菩薩と自由に交信すことができる --- と仮に想定してみます。

(イ) そうだとすると、大川さんは、霊界の事柄においてだけでなく、歴史的事実についても、間違ったりしないはずである。

(ウ) しかるに、調べてみると、キリスト教やイスラム教や仏教の歴史について大川さんは誤謬をおかしておられる。つまり〔イ)は事実ではない。

(エ) ということは、〔イ)を導出したもともとの仮説〔ア)が真実ではないことを意味する。

(オ) すなわち、大川さんは神(エル・カンターレ)が肉体をもって地上に現れた現人神ではなく、モーゼやイエスやムハンマドやブッダを始めとして霊界の人々や神々や菩薩と自由に交信すこともできない。

(カ) よって、大川さんはうそつきであるか、あるいは、自分が神(エル・カンターレ)が肉体をもって地上に現れた現人神であり、モーゼやイエスやムハンマドやブッダを始めとして霊界の人々や神々や菩薩と自由に交信すことができる、と思い込んでいるに過ぎない。

「大川さんもただの人間だろう」という、わたしの直感(心の疼き、内側からの確信)が、結局、事実と一致したということでしょうか。