「幸福の科学」の教祖大川隆法さんは、「我はここに再誕す」と、ブッダの生まれ変わりであることを宣言されています。そこで、わたしはブッダの言葉と大川隆法さんの言葉を比較してみました。大川隆法さんはほんとうに現代のブッダなのでしょうか。それとも・・・。

判断は読者におまかせします。



ブッダの悟りについて

ブッダによれば、その悟りの内容は「縁起」(ものごとは縁って起きるということ)でした。すなわち、人間の悲苦にはそれを生じさせている原因や条件があり、その原因や条件をなくせば人間は悲苦から解放される、というものでした。大川隆法さんによれば、ブッダの悟りの内容は、人生の目的は何かとか、宇宙はなぜ存在するのかとか、幸福とは何か、などということだそうです。

ブッダ 大川隆法
かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、ウルヴェーラーのネーランジャラー河のほとり、菩提樹のもとにあって、初めて正覚を成じたもうた。そこで、世尊は、ひとたび結跏趺坐したまま、七日のあいだ、解脱のたのしみをうけつつ座しておられた。そして、七日を過ぎてのち、世尊は、その定座よりたち、夜の後分のころ、つぎのように、順次にまた逆次に、よく縁起の法を思いめぐらした。「これがあれば、これがある。これが生ずれば、これが生ずる。これがなければ、これがない。これが滅すれば、これが滅する。すなわち、無明によって行がある。行によって識がある。識によって名色がある。名色によって六入がある。六入によって触がある、触によって受がある。受によって愛がある。愛によって取がある。取によって有がある。有によって生がある。生によって老死・憂・悲・苦・悩・絶望がある。この苦の集積のおこりは、かくのごとくである。また、あますところなく、無明を滅しつくすことによって行が滅する。行がなくなれば識がなくなる。識がなくなれば名色がなくなる。名色がなくなれば六入がなくなる。六入がなくなれば触がなくなる。触がなくなれば受がなくなる。受がなくなれば愛が無くなる。愛がなくなれば取がなくなる。取がなくなれば有がなくなる。有がなくなれば生がなくなる。生がなくなれば老死・憂・悲・苦・悩・絶望がなくなる。この苦の集積の滅尽は、かくのごとくである」と。

(ウダーナ 3、増谷文雄訳『仏教の根本経典』大蔵出版、25〜26頁)

我が開きたる悟りとは、どのようなものであったか。

人間とは何か。人間の使命とは何であるか。そして、宇宙はなにゆえに存在し、仏はなにゆえに存在するのか。仏と人間の関係は、いかようになっているのか。人間の使命とは、人生の目的とは、そして、人間の幸福とはなんであるのか。幸福の奥にあるものは何であり、それは、一生の目標たるに足るものであるか。そうしたことを、我は追及し、追及し、その解答を得た。それが仏陀としての悟りであった。

(『仏陀再誕』33〜35頁)


信仰について

ブッダは、人間の悲苦にはそれを成立させている原因や条件があり、その原因や条件を知り取り除くことが、悲苦からの解放をもたらすと考えた(縁起の思想)ために、神秘的な力に寄りすがる信仰などは、これを捨てよ、と説きました。大川隆法さんは、命よりもなによりも信仰が一番大切なものであり、とくに、師を裏切るものは死後苦しむであろう、と説いています。

ブッダ 大川隆法
ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域(死王が支配する世界=悲苦にさいなまれる煩悩の世界)の彼岸にいたる(超克する)であろう。ピンギヤよ。

(スッタニパータ 1146、中村元訳『ブッダのことば』岩波書店)

私は信仰の大切さを説いてきた。いつの時代においても、この信仰というものは大切である。もし、あなた方の生命の安全と信仰とのどちらかを選べ、と言われたならば、迷わずに信仰を取れ。・・・信仰心を失い、そして師への罪を犯した者たちは、地上を去った後、どれほどまでの苦しい、苦渋に満ちた魂生活を送ったかということを、あなたがたは知っているだろうか。・・・信仰より重いものはないということを知りなさい。

(『仏陀再誕』323〜326頁)


世界について

ブッダは、人間苦を成立せしめる原因となり条件となっているものに対する無明(無知)を克服すること(知)こそが救いの道であると考えた(縁起の思想)ため、形而上学的見解(空想的ことがら)については、それは知ではないとして認めませんでした。そのため、人間にとって有意義な「一切」とは、人間の知の及ぶ世界と内察できる心だけであり、それ以外の「一切」を説こうとすると、根拠がないので単なる言葉だけに終わるであろうと説きました。大川隆法さんは、霊界の神秘的世界など人間の知の能力を超える事柄について、たくさん語られています。

ブッダ 大川隆法
比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。

誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故か。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。

(サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)

今回、この書物においては、かつての歴史の中で、哲学者や宗教家たちからベールの向こう側とされていた、九次元世界についても、さらにメスを入れ、分析をしていこうと思います。この九次元の世界については、いままであきらかにされておらず、最近では、高橋信次という方が地上に肉体を持ったとき、こうした世界の上段階霊として、釈迦、イエス、モーゼという三人の最高度に進化した光の指導者がいるということを述べたにとどまっております。そして、それ以外には、この世界について語りえた方は、まだいらしゃらないのです。

・・・あの世の世界と言っても、四次元世界、つまり、幽界世界においては、彼らは霊体ではあるけれども、まだ、肉体を持っているときとほとんどかわりのない生活をしております。また、五次元霊界においても、人間感覚がまだ残っており、地上的な職業というものをやっている人も数多くいます・・・。六次元神界になると、やや意識はあがってきていて、ときどき神様を思わせるような、光を放つような、つまり、神々しい方々となってきますが、まだ彼らも、五体、手足ですね、こういうものをもっているような姿、形をとりながら、普段は生活しております・・・。では、七次元という菩薩の世界においてはどうか。・・・七次元の世界の住人たちは、縦横無尽な活躍というものをやっております。その形においては、もう、人間というような生活ではなくなってきております。・・・ただ、七次元の世界であっても、自分というものを客観的に見ようとすると、やはり、頭があり、手があり、足がある、こういう形での生前の形をなるべき思い出しながら自分というものを認識しているのです。・・・しかし、八次元如来界に入って来ると、少し事情が変わってきます。八次元の人たちも、ときたま地上に現れて、指導者として宗教家たちを指導するときには、いわゆる神姿というもの、神の姿というものを人びとにみせたりすることが、もちろんあります。まあ、言ってみれば、「生長の家」の大神として現れた天乃御中主乃命が、白髪の老人のような姿をとって出てくる。・・・九次元に行くと、これがもっと神秘的になってきて、この世的にはなかなか理解しがたい形となってきます。・・・たとえば、電気というものを例にとって説明することも可能であろうかと思います。・・・[九次元における]神々の素顔というものは・・・やはり、ひとつの電磁波であり、エネルギー体であり、意識体であるわけです。

・・・まあ、こうした偉大な神霊のひとりとして、エル・ランティという高級神霊がおりますが、これ以外に有名な方としては、ゴータマ・ブッダ、釈迦牟尼仏として出た生命体があります。釈迦として、釈迦という名前でインドに出た生命体も、本来のこの大いなるブッダの意識の、わずか五分の一ぐらいの力しかもってはおりませんでした。このように、巨大な生命体として、この釈迦の意識も、また、九次元世界にあるのです。・・・この釈迦の生命体が、過去、ラ・ムーとして、ムー帝国に出たり、トスという名前で、アトランティス帝国に出たり、あるいは、インカの国に、リエント・アール・クラウドという名前で出たり、ギリシャの地に、ヘルメスという名前で出たりしたことは、すでにお話した通りであります。

(『永遠の法』200〜221頁)


無常と恒常について

ブッダは、世界については、すべては無常で変滅し恒常不変なものはない(諸行無常)と理解しており、例外はいっさい認めませんでした。大川隆法さんは、変化するもの(この世、仮の世界、影)の背後に見えない永遠不変なものがあり、それこそが本質であり、まことの実世界である、と説いています。

ブッダ 大川隆法
かようにわたしは聞いた。ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。 「大徳よ、この世のものにて、定恒永住にして、変易せざるものがあろうか。」 「比丘よ、この世には、定恒永住にして、変易せざるものは、少しもない。」 そして、世尊は、すこしばかりの土を爪の上にのせて、かの比丘に示して言った。 「比丘よ、たったこれだけのものといえども、定恒永住にして、変易せざるものは、この世には存しないのである。」

(サンユッタ・ニカーヤ 22:97)

かようにわたしは聞いた。ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。 「大徳よ、世間、世間と称せられるが、一体どのような意味において世間と称せられるのであろうか。」 「比丘よ、破壊するがゆえに世間と称せられるのである。比丘よ、眼は破壊する。鼻は破壊する。舌は破壊する。身は破壊する。意は破壊する。また、それらの触(感官)を縁として生ずるところの感受は、楽なるものも、苦なるものも、あるいは非楽非苦なるものも、すべて破壊するのである。比丘よ、このように、すべてが破壊し遷流するがゆえに、世間と称せられるのである。」

(サンユッタ・ニカーヤ 35:82)

アーナンダよ、やめよ。悲しむな、泣くな。アーナンダよ、わたしはかつて説いたではなかったか。すべて愛し親しめる者も、ついに生き別れ、死に別れ、死してはその境界を異にしなければならぬ、と。アーナンダよ、一切は壊れるものであって、ひとたび生じたるものがいつまでも存することが、どうしてありえようか。

(ディッガ・ニカーヤ 16)

変わりゆく世界の中にあって変わらないもの、それをつかみきった人間こそが、世界のほんとうの意味をつかむことができる。諸々の行いは、やがて無常にも流れ去っていくものであるが、川のごとく流れていく人類の歴史、人々の営みのなかで、変わらざるもの、変わることのできない視点をつかんだ人間こそが、世の流れの虚しさを知ることができる。・・・

この言葉[諸行無常]は、「実在界[霊界]の視点で世の中を見ることができるようになった人間には、それまで価値あるものと思い、生き生きとして感じられていたものが、色あせて見える瞬間がある」ということを意味しています。

(『釈迦の本心』170〜171頁)

「色即是空」とは、「三次元世界(この世)は、ほんとうの世界ではなく『仮の世界』である。あの世の世界こそが『実の世界』であり、この世のものは、やがて滅び去っていくのだ」ということです。

(『釈迦の本心』162頁)

釈迦は人間の本質を、うつろいやすい肉体とは別の、よきもの、可能性に富むものと見ていたのです。

(『釈迦の本心』102頁)


ブッダの教え(仏法)について

ブッダは、すべては無常であり永遠不変なものはないという理解にそって、自分自身の教え(法)でさえ、それを絶対視して執着してはならないことを弟子たちに教えました。大川隆法さんは仏法真理は永遠不変であると、説いています。

ブッダ 大川隆法
比丘たちよ、教え(法)というものは筏(いかだ)のようなものであることをなんじらに示そう。・・・

譬えば街道を歩いて行く人があって、途中で大水流を見たとしよう。そしてこちらの岸は危険で恐ろしく、かなたの岸は安穏で恐ろしくないとしよう。しかもこちらの岸からかなたの岸に行くのに渡舟もなく、また橋もないとしよう。そのときその人は、草、木、枝、葉を集めて筏を組み、その筏に依って手足で努めて安全に彼方の岸に渡ったとしよう。

かれが渡り終わってかなたの岸に達したときに、次のように考えたとしよう。すなわち『この筏は実にわれを益することが多かった。われはこの筏に依って手足で努めてかなたの岸に渡り終えた。さあ、わたくしはこの筏を頭に載せ、あるいは肩に担いで、欲するがままに進もう』と。なんじらはそれをどうおもうか?そのひとがこのようにしたならば、その筏に対してなすべきことをしたのであろうか?

そうではありません、師よ。

・・・比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。悪しきものならばなおさらのことである。

(マッジマ・ニカーヤ 22)

そう、時代は変わった。されど、永遠の法は変わらない。この永遠の法を人びとに伝えるためには、あなたがたは、この世の中のものをすべて否定してはならない。・・・国家というものを、永遠不滅のように考えているのか。それは、時代により、地域により、人びとにより、変わってきたものだ。その名前が変わろうとも、その地域が変わろうとも、しかし、その背後にあって永遠不滅の法があった。永遠なる法があったのだ。永遠なる法は、仏から流れ出て、そして、仏の心を忠実に地上に顕さんとして出てきたのだ。

(『ブッダの本心』153〜156頁)

さて、信仰ということを数多く説いてきた。諸々の比丘、比丘尼たちよ。現代においては、このような信仰を陳腐なものだと思うであろうか。時代遅れのものだとおもうであろうか。しかし、私はあなたがたに言っておく。仏法真理において時代はない。仏法真理は時代を超える。仏法真理は時代を超えて、燦然と輝くものである。

(『ブッダの本心』319〜320頁)


拠り所について

ブッダは八十歳で死にましたが、死ぬ少し前に、師を失うことに心を痛めていたアーナンダやその他の弟子たちに対して、これからは、各自が自己と真理だけを拠り所として生きてゆけ、と説きました。大川隆法さんは、ご自身が永遠の師であり、弟子たちは永遠にかれに従わねばならない、と説いています。

ブッダ 大川隆法
アーナンダよ、わたしはもはや老い衰え、老齢すでに八十となった。たとえばアーナンダよ、古き車が革ひもの助けによって行くがごとく、そのごとくアーナンダよ、思うに、わたしの身体は、革ひもの助けによって、わずかに保っているに過ぎない・・・。それゆえ、アーナンダよ。なんじらは、これからは、自己を燈明とし、自己を拠り所として、他人を拠り所とせず、真理を燈明とし、真理を拠り所として、他を拠り所とせず、生きていきなさい。

(ディッガ・ニカーヤ 16:2.25-2.26)

縁生の弟子たちよ、我が声を信じよ。我が声に目覚めよ。我が向かう方向に、つき従え。我に従い来よ。我の振る、この白き手にに従い来よ。我は、あなたがたの永遠の師である。永遠の師の、その後ろに続くことが、弟子の使命であることをゆめゆめ忘れてはならない。

(『仏陀再誕』52〜53頁)


死後の世界について

ブッダは、人間が死後も存在するかどうかというような人間の知識を超えることがらについては、それは独断にすぎず、無益なものであると考えて、沈黙を守りました。大川隆法さんは、人間が死後も生き続けることを知ることはもっとも重大な真理であり、死後の世界について教えるのがご自身の使命である、と説かれています。

ブッダ 大川隆法
滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? あるいはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか。世尊よ、どうかそれをわたしに説明してください。あなたは真理をあるがままに知っておられるからです。

師は答えた。ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準がない。かれを、ああだ、こうだと論議する根拠がかれについては存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、すべての論議は絶えるのである。

(スッタニパータ 1075〜1076)

尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。すわなち --- 世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか・・・、これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。だからわたしは世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう・・・。もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」(中略)

「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」

「師よ、そのようなことはありません。」

「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのようの説くことをしないわたしを拒もうとしている。(中略)マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。

(マッジマ・ニカーヤ 63)

ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない

(マッジマ・ニカーヤ 72)

弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」

(マッジマ・ニカーヤ 22)

わたしはおまえたちに、これだけはどうしても言っておきたいのだ。 おまえたちの最低限の仕事として、人々に永遠の命を教え、 また人間がこの世とあの世を転生輪廻している存在であるということを、 教える必要があるということなのだ。 実は、この思想こそが、人間として生まれ、生き、成長してゆく過程において、 発見するところの最大の真理であるのだ。 ほかにいかなる地上的真理を学ぼうとも、 それらの真理の値打ちは、この真理にはかなわない。

(『仏陀再誕』259〜260頁)

人間の考えはさまざまでありますが、いずれの考えを取るにしても、あの世の世界、死後の世界に対する無知、こうしたものがその基礎にあると私は考えます。ところが、これが学問として確立していないがために、人びとは困ることになるわけです。そこで、私は、これをすべてに人にわかる範囲で、できるだけ明確に、できるだけの知識を総動員して、水先案内人としての自分の使命をはたす必要があると考えるのです。

(『永遠の法』17頁)

人間が息絶えたときには、人間の霊体というのが肉体から抜け出して来るわけですけれども、最初は自分自身、その自覚がわからなくて、自分が二人いるというふうに感じています。横たわっている自分と、自由自在に動いている自分がいる。やがては、その自由自在の自分が、人に話しかけても、語りかけても、返事はもどってこなくなる。そして、壁でも物体でも通り抜けてしまうわけですが、そのことに、人間は非常な驚愕を覚えるでしょう。

また、肉体が自分だと思って、肉体にずーっと寄りそっていた魂は、焼き場に連れて行かれて、そこで肉体が焼かれることによって、非常な衝撃を受けることになります。そして、焼き場の周りで浮遊しながらも、どうしていいのか分からなくなります。これから後、どういう生活が待っているのか。まだ誰からも聞いていない生活。こういうことに対して、非常に不安を感じます。

こうしたときに、本人の守護霊が、まず、現れて、説得をはじめます。とはいえ、いかんせんこの地上に数十年生きていて、なかなか死後の世界に納得がいかなかった人が、説得されたからといって、そう簡単には納得はしないわけです。そのため、この地上でも、数十日の間、説得が行われるということになります。

初七日とか、四十九日とかいうことばがありますけれども、まあ、通常、二十日、三十日間は、この地上に留まっていることが許されております。

(『永遠の法』18〜19頁)


「宇宙即我」について

ブッダは、「世界(宇宙)と我はひとつである」などという主張は、実証できない空想的独断にすぎないので、まったくおろかな見解である、と説きました。大川隆法さんは、かつてブッダとして「宇宙即我」の実体験をした、と説いています。

ブッダ 大川隆法
弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」

(マッジマ・ニカーヤ 22)

実在界(霊界)に対する釈尊の認識はかなり進んだものであって、九次元宇宙界の本質まで悟っており、「九次元世界は地球だけで完結するものではなく、地球以外の惑星にも広がっている。他の惑星にも素晴らしい霊人たちが数多くいて、修行している」という事実もつかんでいました。また、「宇宙即我」という自己拡大の経験をしたときには、地球という惑星が非常に小さな点となり、みずからの内蔵の細胞の一つになっていくのを実体験していたので、宇宙というものの感覚もつかんでいました。

(『釈迦の本心』154〜155頁)


以上は、わたし自身のブッダと大川隆法さんの思想に関する観察ですが、幸福の科学に所属する方々の意見を知りたい方は、以下のようなサイトを参照してください。いずれも、わたしのサイトに興味を持っていただいた方のサイトです。

幸福情報交差店」(白さん)
CU」(梅本さん)
ホットスピーキング」(古橋暁さん)