幸福の科学の教祖である大川隆法さんは、「霊言集」とか「霊示集」と呼ばれる書物をたくさん出版されています。すでに死んだ人びとの霊が大川さんを通して地上人に語りかけるという形式の書物です。通常、この類いの霊能者の話は、誰もなにも知らない死後の世界とか霊界とか未来の出来事について語られるものですから、ほんとなのかどうかは、誰にもわかりません。誰も知らないことについてであれば、たとえそれがデタラメなつくり話しであっても、ウソであることがばれる心配はないわけですが、それでも、霊能者たちは、ときどき失敗を犯します。ついつい、わたしたちの知っている地上の出来事について語ってしまうことがあるのです。大川さんも、その『内村鑑三霊示集』で、この種の失敗をしています。大川さん(内村鑑三の霊)は、つい、地上でのある出来事について喋ってしまったのです。地上での出来事ならば、わたしたちは、それがウソか真実か調べることができます。


(1)死者に伺いをたてることは聖書の教えに反する

「内村鑑三です。今、現代の日本で、大川隆法を通じて、さまざまな聖霊たちが、地上の人びとへメッセージを送り続けているということを知りました。・・・これから私は、地上の皆さまに、私に可能な範囲で、私が体験したこと、私が考えたこと、またクリスチャンたちにとくに訴えたいことなどを、今日から八日間にわたってお話をしていきたいと思います。(18頁)」 という具合に始まる『内村鑑三霊示集』(大川隆法著、土屋書店)で、内村鑑三の霊が大川さんを通じて語りはじめます。「クリスチャンたちにとくに訴えたい」ということになっていますが、聖書は、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てることをかたく禁じています。

あなたが、あなたの神、主(ヤーヴェ)の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせるもの、占い師、卜者、易者、呪文を唱えるもの、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、主(ヤーヴェ)はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主(ヤーヴェ)は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。(申命記 18:9-12)
霊媒として死者の言葉を伝える大川さんは、まさに神ヤーヴェが忌み嫌うことを行なっておられるわけですが、ここにあらわれる「内村鑑三の霊」もそのことに何の矛盾も感じていないようです。もしかしたら、この「内村鑑三の霊」なるものは、聖書の内容をあまりよく知らないのかもしれません。もう少し「内村鑑三の霊」の声を聞いてみましょう。


(2)アラーの神

さて、大川さんをとおして、「内村鑑三の霊」は次のように語っています。

旧約聖書のなかには、アラーという神があり、天と地を分け、さまざまなものをつくられたことになっていますが・・・(同上、109頁)
アラーという神など、もちろん、旧約聖書に出てきません。どうやら、この「内村鑑三の霊」は旧約聖書とコーランの区別がつかないようです。


(3)イエスの誕生日

つぎに、イエスの誕生日に関する、「内村鑑三の霊」の声を聞いてみましょう。12月25日はクリスマスの日で、多くのクリスチャンはイエスの誕生を祝いますが、クリスチャンなら誰でも知っているように、その日がイエスの誕生日だというわけではありません。その日にイエスの誕生を祝っているだけです。歴史的に言えば、12月25日という日は、異教の神(古代ローマの宗教の太陽神)の誕生日であって、クリスマスというのは、その祝日をイエスの誕生を祝う日として、4世紀(あるいは5世紀)ごろから始まった習慣に過ぎません。

ところが、「内村鑑三の霊」は、クリスチャンなら誰でも知っているこの事実を知らず、12月25日のクリスマスの日がイエスが誕生した日である、という誤った俗信を単純に信じています。

今日は1986年の12月20日です。クリスマス・イヴまであと四日、クリスマスの当日まであと五日、言うまでもなく12月25日とは、イエス・キリストの生まれた日です。(同上、192頁)


さらに、「内村鑑三の霊」の話によれば、イエスの母がとなるマリアが、「用事があって知り合いのところへ行こうとしていたとき」、ベツレヘムでイエスが生まれたことになっています。

今から二千年ほど昔、ベツレヘムの小さな町で、イエス・キリストは生まれました。12月24日の夜、イエスの母マリアが、用事があって知り合いのところへ行こうとしていたときに、急に産気づいて、旅の途中で子供を生まなくてはならなくなった。(同上、193〜194頁)
しかし、クリスチャンなら誰でも知っているように、聖書によれば、マリアは「用事があって知り合いのところへ行こうとしていた」のではなく、住民登録をするためにベツレヘムにいくのです。
そのころ、皇帝アウグスツスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行なわれた最初の住民登録である。人びとは皆、登録をするためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上っていった。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。(ルカによる福音書、第2章1〜5節)


さらに、「内村鑑三の霊」の話は、滑稽な物語に発展していきます。聖書を読んだことのある人なら誰でも知っているように、聖書には「雪が降る」話はほとんど出てきません。詩編68:15の「全能者が王たちを散らされるとき、ツアルモン山に雪が降るであろう」ぐらいです。それはこの地域の気候からすれば当然のことなのですが、「内村鑑三の霊」は、おどろくべきことに、イエスが生まれた前夜は雪が「地面に10センチぐらい」積もったと語ります。

今、霊的な目で二千年の風景を振り返ってみると、そのベツレヘムの小さな農家の馬小屋のなかに、聖霊の光が燦爛と輝いているのが見えます。何と清らかな、何と聖なる夜でありましたでしょうか。12月24日の夜は。外には、雪が降っておりました。午前中から雪が降りはじめて、かなり大きなボタン雪となりました。そして、夕方の五時半頃まで降ったでしょうか。大きな雪だったので、地面に十センチぐらいも積もりました。そうした夜にイエスは生まれたのです。寒い寒い夜でした。まさに、聖夜そのものでした。そして、天上界からは、祝福のメロディーがいろいろ奏でられたのです。私は、その情景を今でも目にありありと思い浮かべることができます。(同上、194〜195頁)
どうやら、「内村鑑三の霊」は、日本のクリスマス時期の感覚で話をしているようです。そもそも、この地域に「地面に十センチ」雪が積もること自体が通常ではないのですが、イエスが生まれたときの聖書の記述は、あきらかに、雪が十センチも積もった話しを否定しています。なぜなら、その日、羊飼いたちが「夜通し羊の群れの番をしていた」と記録してあるからです。雪が十センチも積もったところで、羊飼いたちが「夜通し羊の群れの番をしていた」はずがありません。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。」(ルカによる福音書、2章8〜11節)
「内村鑑三の霊」は、おそらく、まるでそこに居たかのような印象を与えるために、「ボタン雪」だとか、「地面に十センチ」とか、「午前中から雪が降りはじめて・・・夕方の五時半頃まで降った」などという具体的な話をしてしまったのでしょうが、それが、結局、命取りになってしまったのです。


(4)結論

霊能者は、だれも知ることのできない「死後の世界」とか「霊界」とか「未来の世界」などについてのみ語っていれば、どんなデタラメを語っても、それがウソであることはだれにも証明できません。しかし、霊能者も人間であって、ついつい、地上の世界について喋ってしまうことがあるようです。地上の世界についての話なら、わたしたちは、それがウソか真実か調べてみることができます。幸福の科学の教祖大川隆法さんは、その著『内村鑑三霊示集』のなかで、内村鑑三の霊として、霊界のことだけでなく、つい、地上の世界(イエスの生誕や聖書)についても語られています。そのために、キリスト教の歴史やユダヤ地方の気候や聖書の内容についての無知が暴露し、その霊示のウソがばれてしまっているのです。