砂のお城よ、さようなら

せっかく最後の挨拶(投稿ではない)で佐倉さんにさようならをしたつもりでしたが、なぜか投稿として載せられましたので、こちらもそのつもりで最後の投稿をします。だからきちんと載せてくださいね。 

私の「佐倉さんに握りつぶされたメール」とは、「行為を見ると、桜子ワールドの本質が見えてくる」と名づけたものです。その内容は、

1. 知識の本質と、桜子ワールドの本質について。
2.「日本の首都は東京である。だから、日本の首都でなければ東京でない」などが成立することによる、佐倉流縁起論の間違いについて。
3. 佐倉さんの執着にまみれた返答内容(行為)から、佐倉さんの本質を具体的に解明する
というものでした。そこには何ら「前回のメールは、本サイトの方針にふさわしくない内容が含まれており」と佐倉さんが言うような内容などはどこにもありません。佐倉さんが出し渋るのは、これを公表すれば自分の間違いを認めざるを得なくなるため、佐倉さんのプライドという煩悩がどうしてもそれを許さないというだけの話です。なぜなら本来佐倉さんが得意として今までしつこく私に反論してきたはずの、縁起に関する「2.佐倉流縁起論の間違いについて」の部分さえも公表できなくなったようですから。

そしてよほど論駁されたことが悔しかったのでしょう。何とかしてし返しをしてやろうと、理不尽にも勝手に私のネームを公開するという手段(行為)をとったようですね。でもこんなことでやり返すのではなく、きちんと思想と論理で返して欲しかったと思います。しかしこのような佐倉さんの陰険で勝手な行為を見ることで、佐倉さんの身勝手な本質がますます明らかになったわけです。

でもせっかく佐倉さんが私のネームをPRしてくれましたので、ついでに皆さんにもPRしておきます。佐倉さんがどうしても公表を渋る「行為を見ると、桜子ワールドの本質が見えてくる」は、私にメールをいただければこちらから送信させてもらいます。特に縁起論の部分は傑作ですので是非読んでいただき、佐倉流戯論ではない本当の縁起について少しでも考えて欲しいと思います。

さてあまりにも立派そうに見えたので、お城の周りを見物するうちに私も少し時間を取り過ぎたようです。そろそろ趣味のお遊びの時間はこの位にして、早く立ち去った方が良さそうです。何故ならお城の土台を覗いてみると、どうやら砂でできているらしく、下から砂が崩れ始めているからでした。皆さんも気をつけましょう。では、改めて、

「佐倉さん、そして砂のお城よ…・、さようなら」

(1)「握りつぶされたメール」?

相変らず勝手な解釈をしておられますが、前回も説明しましたように、本サイトの方針違反であるために、「掲載しようかどうしようかいまだに迷っている」ところに、ご自分でHPで発表されるというメールを頂いたので、それは理想的だ、と言ったのです。なぜなら、わたしは本サイトの方針違反を侵さずにすむし、しかも、番人さんのご意見は、わたしの「反論リンク」を通して、紹介できるからです。そう言ったのです。


(2)「理不尽にも勝手に私のネームを公開する」?

番人さんは、そのメールをご自分の本名で送られてきたのです。もちろん匿名希望の記述もありませんでした。ですから、わたしは、てっきり、ご自分の本名を公開したいのだろうと思ったのです。わたしとしては、むしろ、ご希望にお応えしたつもりでした。どうやら、ご自分のお名前は知られたくないようですので、更新いたしました。(本名の「PR」を希望でしたら、いつでもまた更新いたします。)


(3)「日本の首都は東京である。だから、日本の首都でなければ東京でない」などが成立する

特に縁起論の部分は傑作です・・・
もちろん番人さんの反論はいつものように誤解と誤謬だらけです。「PならばQ」から「PでなければQでない」は導出できないというわたしの意見(これは別に縁起論ではない。単なる論理の話)に対して、番人さんはつぎのような例が成立すると主張されました。
前提C:P(日本の首都)ならばQ(東京)である。
結論C:だから、P(日本の首都)でなければQ(東京)でない。 

前提D:P(日本で一番高い山)ならばQ(富士山)である。
結論D:だから、P(日本で一番高い山)でなければQ(富士山)でない。 

前提E:P(人体で血液を流すポンブの役割)ならばQ(心臓)である。
結論E:だから、P(人体で血液を流すポンブの役割)でなければQ(心臓)でない。

おそらく、よほどの自信をもってこれらの例をあげられたのでしょう。が、全部間違っています。

Cの反例:たとえば、「東京」という名のレストラン、「東京」という名のアーティスト・グループ、日本人移民が作った「東京」という名前の外国の町、等々。「東京」という名のレストランや、「東京」という名のアーティスト・グループ、日本人移民が作った「東京」という名の外国の町などは、いづれも日本の首都ではないけれど、それらはすべて「東京」と呼ばれています。つまり、前提Cから結論Cは導出できません。

Dの反例:たとえば、「富士山」という名のレストラン、子供が砂場に作った「富士山」、地方の「富士山」、等々。日本の各地にはその地方の「富士山」が沢山あります。たとえば、鳥取県の大山はその地方の人々の間では「伯耆富士」(伯耆地方の富士山)とも呼ばれています。その地方で一番高い山だからでしょう。「富士山」という名のレストラン、子供が砂場に作った「富士山」、地方の「富士山」、等々は、いづれも日本で一番高い山ではないけれど、「富士山」と呼ばれています。つまり、前提Dから結論Dは導出できません。

Eの反例:たとえば、模型の心臓、活動を止めた心臓、ものの中心を意味する譬喩としての「心臓」、等々。模型の心臓、活動を止めた心臓、ものの中心を意味する譬喩としての「心臓」、等々は、血液を流すポンブの役割をしていませんが、それでも「心臓」と呼ばれています。つまり、前提Eから結論Eは導出できません。

ところで、これらの例は、実は、わたしが言っているような、「PならばQ」とか「PでなければQでない」、という命題論理学の形式の例ではありません。例に挙げられたものはすべて、命題論理学の形式では記述することはできません。述語論理学で記述しなければなりません。たとえば、Cの例は、論理式にあらわすと、

前提:すべてのxについて、もしxが日本の首都ならxは東京である。    (x)(Fx → Gx)
結論:すべてのxについて、もしxが日本の首都でなければxは東京ではない。(x)(〜Fx → 〜Gx)
となります。ここで、Fは「日本の首都である」という述語、Gは「東京である」という述語ですが、集合論的に言えば、Fは「xは日本の首都」をみたすxの集合、Gは「xは東京である」をみたすxの集合を意味します。この前提(すべてのxにおいて、もしxが日本の首都ならxは東京である)は、集合Fは集合Gに含まれることを意味しますから、図で書くと次のようになります。
図1=すべてのxにおいて、もしxがF(日本の首都)ならxはG(東京)である。つまり、FはGに含まれる。
┌───────────┐
│    G      │
│           │
│ ┌─────┐   │
│ │  F  │   │
│ │     │   │
│ │ a   │ b │  F=「xは日本の首都」をみたすxの集合。aはその例(つまり、aはFである)。
│ └─────┘   │  G=「xは東京である」をみたすxの集合。bはその例(つまり、bはGである)。
└───────────┘
明らかに、ここから、「(x)(xはFでなければGでない)」、という結論は導出できません。たとえば、bはFでないけれどGだからです。「(x)(xはFでなければGでない)」、という結論を導出するためには、前提におけるFとGの関係を逆にして、集合Gが集合Fに含まれることを前提にしなければならないのです。すなわち、
前提:すべてのxについて、もしxが東京ならxは日本の首都である。      (x)(Gx → Fx)
結論:すべてのxについて、もしxが日本の首都でなければxは東京ではない。  (x)(〜Fx → 〜Gx)
この新しい前提を図にすれば次のようになります。
図2=すべてのxにおいて、もしxがG(東京)ならxはF(日本の首都)である。つまり、GはFに含まれる。
┌───────────┐
│    F      │
│           │
│ ┌─────┐   │
│ │  G  │   │
│ │     │   │
│ │ a   │ b │  F=「xは日本の首都」をみたすxの集合。aはその例(つまり、aはFである)。
│ └─────┘   │  G=「xは東京である」をみたすxの集合。bはその例(つまり、bはGである)。
└───────────┘
前提をこうすれば、望む結論(Fに含まれなければGにふくまれない=FでなければGでない)が導出できます。

もし、どうしても、最初のFとGとの関係(FならばG=FはGに含まれる)を残しておいて、しかも、同じ結論を導出しようと思えば、前提にこの新しい関係(GならばF=GはFに含まれる)を付け加え(例外を設け)なければなりません。すなわち、

前提:すべてのxについて、もしxが日本の首都ならxは東京であり、かつ、もしxが東京ならxは日本の首都である。
      (x)(Fx → Gx)&(Gx → Fx)
結論:すべてのxについて、もしxが日本の首都でなければxは東京ではない。  (x)(〜Fx → 〜Gx)
この前提(FはGに含まれ、かつ、GはFに含まれる)は、FとGが同値であること意味します。図にすれば次のようになります。
図3=すべてのxにおいて、もしxが日本の首都ならxは東京であり、かつ、もしxが東京ならxは日本の首都である。つまり、FとGは同値である。
┌───────────┐
│    F=G    │
│           │
│           │
│           │
│           │
│   a     b │  F=「xは日本の首都」をみたすxの集合。aはその例(つまり、aはFである)。
│           │  G=「xは東京である」をみたすxの集合。bはその例(つまり、bはGである)。
└───────────┘
つけくわえれば、「Gx → Fx」(GはFに含まれる)は「〜Fx → 〜Gx」(Fに含まれなければ、Gに含まれない)と同値ですから、この新しい前提は次のように記述することもできます。
前提:すべてのxについて、もしxが日本の首都ならxは東京であり、かつ、もしxが日本の首都でなければxは東京ではない。
      (x)(Fx → Gx)&(〜Fx → 〜Gx)
この形(「・・・ならば・・・であり、かつ、・・・でなければ・・・でない」)に見覚えはありませんか。

以上、Cの例(日本の首都、東京)を用いて番人さんの反例が誤りであることを示しました。「二本足歩行」や他の例でも同じことです。


(4)論争を可能とする場

ところで、わたしが、本サイトの方針違反として、掲載や対応するのを拒否したのは、番人さんで二人目です。最初の人は、platonさんという方でした。ご自分ではどうやらご自覚がないようですので、参考にしてください。論争はいつでもわたしの望むものです。なぜなら、それを通して、しばしば、新しい間違いや真理が発見できるからです。(たとえば、鈴木登さんとのやり取りなど参照。)

わたしは多くの論争を見聞きしてきましたが、とくに、インターネット上で行われる論争では、しばしば続行不可能な状況に陥り、閉じなければならなくなった掲示板もいくつかあります。なぜ、これらの論争は続行不可能となっていったのでしょうか。それは、批判が、意見や思想ではなく、人格攻撃に向けられたからです。批判が、意見や思想にではなく、人格攻撃に向けられれば、啓蒙のための論争とはならず、愚鈍なケンカになってしまいます。しかも、「いや、わたしの人格は立派です」などという内容の反論は自己矛盾ですから、人格攻撃に対する反論は始めから不可能なのです。そうなれば、攻撃し返すか、ばからしくなってどちらかが、「反論できないから逃げるのだろう」という声を背中に聞きながら、引き下がる以外に出口がありません。

わたしは、論争を望むからこそ、論争を可能とする場を守るために、一見、自由論争に反するように見える、掲載や応対の部分的拒否という手段をとっているのです。もちろん、わたしにはこれが最上の方法かどうかは、まだわかりません。問題がないわけではないからです。たとえば、いつでも人格攻撃かどうかをはっきり見分けることができるとは限らないという問題があります。それゆえ、まだ試行錯誤しているというのが本音です。しかし、まだインターネットは始まったばかりですから、いろいろなサイトでいろいろな試みがなされるときだろうと思います。わたしは、1995年にこのサイトを開設して以来、数多くの来訪者の声をお聞きして、わたしの取った方法はおそらく正しかった、と今のところ思っています。実際、いったん閉鎖に追い込まれたある掲示板が、人格攻撃は認めないという新しい方針を打ち出して、新しく生まれ変わっているケースも見かけています。

いままで、沢山のおたよりありがとうございました。ホームぺージの開設のお知らせを待っています。