「聖書の間違い」−「聖書は書き換えられたか」を興味深く読みました。

しかし、いくつか疑問な点がありますので書きました。


(1)問題としている聖書の訳について

書きかえたとされる聖書としてNIV、新共同訳、新世界訳が掲載されていま すが、まずこの点に問題があります。

(A) 近年出版された新共同訳などは、翻訳の手法として Dynamic Equivalent とい う方法を採用しています。 これは、逐語訳ではなく、原文からは離れても日常的な分かりやすいことばで 翻訳しようというものです。 例えば、少数民族の言語への翻訳では抽象的な訳はむつかしいので、思い切っ た訳が必要となります。 問題としては、かなり翻訳者の聖書解釈や信条が入ることです。 キリスト教会内でも賛否両論があります。 私自信もちょっと首を傾けるような訳が多数あります。 従いまして、このような手法で訳された聖書が原典に忠実に翻訳されていない のは当然かと思います。

(B) 次に「新世界訳」ですが、これは本来「ものみの塔」が神の組織であることを 弁護するよう、専門家でない人たちが翻訳したものと思われますので問題があり ます。 新訳聖書で調べたところでは前置詞がでてくると、多くの場合、通常ではしな いような「意訳」をします。 例えば、in Christ なら、「キリストにあって」といった訳ではなく、「キリ ストとの関係において」といった訳にします。 日本語版では更に英語から日本語に訳すときに「意訳」します。

(C) 「新改訳聖書」ではこのような「書き変え」問題はほとんど起きません。ま た、かなりの翻訳に関する注釈が入っています。 原典と対照して議論する場合は「新改訳聖書」が適切かと思います。

聖書の訳には、それぞれ目的がありますので、意図的に書き変えているという 説は疑問です。


(2)著者問題について

 モーセ五書は、何が何でも全てが「モーセ」だとの主張は、私はもともと聞い たことがありません。  『NIV 学習用聖書』に引用の個所も著者がモーセが主な著者と言っているだけ です。  逆になぜ、HPに記載の議論だけで「五書がモーセによって書かれたのではな い、ということになる」場合があると結論できるのでしょうか?  五書のある部分は別の筆記者であることは明瞭で、そのこと自体が本当に聖書 の権威に係わるとされているのでしょうか?  「保守的」な学者にとっても聖書の翻訳を変えるまでに重要な問題だとは思え ませんが。

N.Suzuki 1997.11.1


 

再び鈴木登さんより

97年11月10日

  先日メールした鈴木登といいます。

  「聖書は書き換えられたか」について追加いたします。

(1)

「現代の保守的聖書学者たち」が申命記の翻訳で「巧妙な意味のすり 替え」をおこなっていると書いていますが、少なくとも「現代の」とい うところは事実に反します。

なぜなら、「ヨルダンの向こう」の言い換えは少なくとも17世紀の 欽定訳(KJV)や19世紀初期のThe Webster Bibleなどに 遡るからです。

例えば1:1では次のようになっています。

KJV Deuteronomy 1:1 These be the words which Moses spake unto all Israel on this side Jordan in the wilderness, in the plain over against the Red sea, between Paran, and Tophel, and Laban, and Hazeroth, and Dizahab.

WEB Deuteronomy 1:1 These {are} the words which Moses spoke to all Israel on the east side of Jordan in the wilderness, in the plain over against Suf, between Paran, and Tophel, and Laban, and Hazeroth, and Dizahab.

KJVでは"on this side Jordan"、 WEBでは問題の"on the east side of Jordan"になっています。


(2)

新改訳では「ヨルダン川の向こうの地」と訳されていますが 新改訳の注解付版では1:1について

ヨルダン川の向こうの地−ここではヨルダン川の東側を指している
3:20について
ヨルダン川の向こうの地−ここではヨルダン川の西側を指す。1一は東側 (1一は1章1節のこと)
という注釈が付いています。

「巧妙な意味のすり替え」ではなく位置関係をはっきりさせただけではないでし ょうか。 申命記の筆記者とモーセの位置が逆であることは秘密でもなんでもないと思いま す。 翻訳が原文からどれくらい離れてもよいとするかどうかは、前のメールで書きま したように翻訳の方針です。


(3)「ヨルダンの向こう」の位置について

これは、今回の件では重要なことではありません。

「ヨルダンの向こう」はHPの図にあるように、単純にヨルダン川の東と西では ありません。

1:5で「ヨルダンの向こう」とされているモアブはヨルダン川ではなく死海の 東側、1:1では「ヨルダンの向こう」として「パランと、トベル、ラバン、ハゼロテ、デザハブとの間の、スフの前にあるアラバ」が挙げられていますが、「スフの前にあるアラバ」とは 「葦の海(アカバ湾)の前にある平地」ということでヨルダン川から遠く離れ死 海の南側になります。

もともと「ヨルダンの向こう」というのはアバウトな表現だと思われます。

N.Suzuki 1997.11.10              


(1)書き換えは意図的であったか

殺人でも、それが意図的になされたのか、単なる事故であったのか、その相違によって罪の重さは随分違います。同じように、もし、聖書が、わたしの指摘するように、都合の悪いところを隠蔽するために、意図的な書き換えがなされたとすると、翻訳者たちは重大な罪を犯したことになります。しかし、それが意図的であったかどうかは、他人の心の中の動機のことです。そして、わたしは、他人のこころの中を覗いてみる能力などありません。ですから、もしかしたら、鈴木さんのおっしゃるように、

「巧妙な意味のすり替え」ではなく位置関係をはっきりさせただけ
という可能性もあるように思えます。しかし、わたしは断言しますが、それは意図的になされたのです。では、どうして、わたしはこのような重大なことを、そのように大胆に断言することができるのでしょうか。鈴木さんは憶測だけで「位置関係をはっきりさせただけ」であろうと言われておりますが、わたしの主張には次のような根拠があります。

先ず、「ベエルヴェルハヤルデン」というヘブライ語は、それをそのまま「ヨルダン川の向こう側」と直訳しても言語的・文化的には何の問題も生じません。とてもわかりやすい単純な表現です。したがって、鈴木さんのおっしゃるような「原文からは離れても日常的な分かりやすいことばで翻訳しようというもの」とか「少数民族の言語への翻訳では抽象的な訳はむつかしい」というような解釈は、この場合あてはまりません。

しかも、この書き換えがなされている聖書箇所は、たとえば NIV 訳などに典型的に示されるように、本論でわたしが「第一グループ」と呼んだ、1:1、1:5、3:8、4:41、4:47 だけであり、「第二グループ」、3:20、3:25、11:30 では必ずしも書き換えがなされていないという重要な事実があます。つまり、第一グループでは書き換えをおこなった同じ翻訳者が、第二グループ(3:20、3:25、11:30)においては、そのまま「ヨルダン川の向こう側」と直訳することができたのです。すなわち、書き換えの理由は、第一グループ(1:1、1:5、3:8、4:41、4:47)だけを特別扱いしなければならない、そういう理由でなければならないのです。この事実から言っても、鈴木さんのおっしゃるような理由では、なぜ、そのように第一グループの箇所だけで書き換えがなされたかということが説明できません。

さらに、幾つかの聖書がそろって前者(1:1、1:5、3:8、4:41、4:47)だけを特別扱いしているのですから、たまたま偶然に、そうしたわけがありません。これらの異なった聖書の翻訳者たちは、まったく独立に翻訳作業をやったにもかかわらず、前者(1:1、1:5、3:8、4:41、4:47)においてだけは、原語をそのまま直訳して「ヨルダン川の向こう側」としてしまえば困る、ある一般的な理由を共有していたことが判ります。つまり、この、言語的・文化的には何の問題もない「ヨルダン川の向こう側」という単純な表現を、わざわざいじくりまわした事実の背景には、この翻訳者(たち)が、前者(1:1、1:5、3:8、4:41、4:47)だけに、何らかの神学的問題を見出したに違いないのです。

第三に、前者(1:1、1:5、3:8、4:41、4:47)だけにに生じるその神学的問題は、「ヨルダン川の向こう側」と直訳しては困るけれど、「ヨルダンの東側」、あるいは「ヨルダン地方」と書き換えると解決できる、そういう神学的問題であったはずです。

第四に、そこで、いずれの場合にも、まったく同じ原語"ベエルヴェルハヤルデン"(ヨルダン川の向こう側)が使われているにも関わらず、前者(1:1、1:5、3:8、4:41、4:47)と後者(3:20、3:25、11:30)を分けなければならないような、どんな違いがあるのか調べてみると、ひとつだけあるのです。それは、前者のばあいは、"ベエルヴェルハヤルデン"(ヨルダン川の向こう側)という言葉が、ナレーター(つまり、申命記の著者)自身によって語られているのに比べて、後者の場合は、ナレーターの語る物語の中の登場人物(つまり、モーセ)によって語られているのです。

第五に、鈴木さんが指摘しておられるように、このような書き換えをしていない聖書もあります。わたしはその例として、RSV (Revised Standard Version) や日本聖書協会の改訂版をあげました。問題は、このような書き換えをやる聖書(『NIV』や『新世界訳』など)が、聖書を誤謬のない完全な神の言葉と考える保守的な聖書であることです。したがって、前者(1:1、1:5、3:8、4:41、4:47)を「ヨルダン川の向こう側」と直訳しては保守的聖書解釈にとって困る理由があったに違いありません。ところが、一般に、聖書を保守的に解釈する人々は、申命記を、少なくともその大部分は、モーセの著作であると主張してきました。(この点については、後にもっと詳しく述べています。)

これらすべてを総合して考慮すると、聖書を書き換えた翻訳者たちの(神学的)意図が見えてしまうのです。つまり、彼らは、前者(1:1、1:5、3:8、4:41、4:47)の語り手は、後者(3:20、3:25、11:30)の場合と違って、申命記の著者(ナレーター)自身であるために、それらを、原語のまま「ヨルダン川の向こう側」と直訳してしまえば、申命記の重要な部分の著者がモーセではなくなってしまう、という問題に直面したために、それらの部分を「ヨルダンの東側」あるいは「ヨルダン地方」と書き換えたのです。そう解釈することによって、申命記の重要な部分がモーセの著作であるという、彼らの保守的信仰が保持できるからです。

鈴木さんは「位置関係をはっきりさせただけ」と言われていますが、もしそれが翻訳者の意図であったとすれば、なぜ、前者(1:1、1:5、3:8、4:41、4:47)においてだけは、保守的聖書がそろって、原語直訳を避けている事実がうまく説明できません。また、「位置関係をはっきりさせた」という意図では、なぜ、「ヨルダンの東側」と書き換えるだけでなく、「ヨルダン地方」と書き換えても、原語直訳が生んだであろう問題が解決できる、ということがうまく説明できません。さらに、一般に、翻訳というものは、意味がはっきり通じて、そこになんの問題も起きない場合は、原語の直訳がそのままつかわれるはずです。鈴木さんの言われるように、「位置関係をはっきりさせ」なければならないような問題が、「ヨルダン川の向こう側」というたいへんわかりやすい原意の、いったいどこに、あるのでしょうか。彼らは皆、少なくとも、3:25 では、「ヨルダン川の向こう側」という訳を使用しているのです。「ヨルダン川の向こう側」と訳しても、さしたる問題も起きないのに、いろいろいじくっているのですから、そうしなければならないある特別の動機がそこに潜んでいると考えねばなりません。ようするに、彼らは、「位置関係をはっきりさせ」たのではなく、その秘かな動機に従って、むしろ、語り手の位置関係をうやむやにしてしまったのです。


(2)聖書の選択

わたしは、すでに指摘したように、聖書のすべてが、このような書き換えをやっていると主張しているわけではありません。ただ、保守的聖書にその傾向があることを指摘したかったのです。聖書はすべて神の言葉であり、いかなる誤謬も含まれない、という信仰を持てば、聖書解釈に際してできるだけ矛盾が出ないように解釈しようとします。それゆえ、わたしは、保守的な聖書と考えられる代表的なものを選んだのです。たとえば、NIV 翻訳は、その前文に

From the beginning of the project, the Committee on Bible Translation held certain goals for the New International Version: that it would be accurate translation and one that would have clarity and literary quality and so prove suitable for public and private reading, teaching, preaching, memorizing and liturgical use.... In working toward these goals, the translators were united in their commitment to the authority and infallibility of the Bible as God's Word in written form.

最初から、このプロジェクトは次のような目標を持っていた。すなわち、正確な翻訳であること。明晰かつ文章も高質であること、…。これらの目的を達成する上で、この聖書翻訳委員会は、書かれた神の言葉としての聖書の権威と無誤謬性を強く確信することにおいて一致していた。

と書かれているように、「聖書の無誤謬性を強く確信する」学者たちによって、翻訳されました。したがって、NIV 翻訳は、聖書の無誤謬性を信じる立場で聖書が翻訳されると、どのような結果になるかを研究するのに最適な書だと思われます。

おなじく、新世界訳は、ご存じのように、エホバの証人という新興キリスト教団体の出版している翻訳ですが、彼らもやはり、「聖書の無誤謬性を強く確信する」信仰者団体です。

「聖書全体は神の聖霊を受けたもので(す)」。テモテ第二3章16節のこの言葉は、エホバという名を持たれる神が聖書の著者であり、それに霊感を与えた方であることを示しています。(『聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です』7頁)
したがって、新世界訳も、聖書の無誤謬性を信じる立場で聖書が翻訳されると、どのような結果になるかを研究するのに適した書なのです。

このような理由で、本論における考察の対象として、わたしは聖書を選びました。ただ、新共同訳は、本文でも指摘しているように、全体としては、必ずしも保守的とは言えないと思いますが、部分的にはきわめて保守的な翻訳が見られます。申命記もその部分です。


(3)著者問題

わたしも、なぜ申命記の著者がモーセでなければならないのか、理解できません。たとえ、申命記のすべてがモーセでない誰かに書かれたとしても、聖書の無誤謬性には関係ないはずだからです。そこで、これは伝統的なものだと思われます。ユダヤ人の伝統ではもちろん、『トーラー』(五書)はモーセの書であると、長い間信じられてきました。キリスト教もそれをそのまま受け継いだわけです。それが一般に伝えられてきた伝統です。それで、現代でも、わたしたちは、それらの五書のことを「モーセ五書」などと言ったりします。

しかし、わたしは、それだけではないように思われました。それだけでは、どうしてあんなにモーセ著作説に執着するのか、納得ができません。たとえば、本論で指摘したように、申命記の最終章にはモーセの死や死後の記述があり、申命記がモーセによって書かれたとする伝統が間違っていたと考えられます。ところが、保守的学者は、何の根拠もなく、その部分だけが、他の人(たとえばヨシュア)によって追加されたものであり、全体としてはモーセが書いたのだ、と主張するのです。

これ[申命記]は五書の中の第五巻もしくは五つ目の書ですから、その筆者はこれに先立つ四つの書と同じ、すなわちモーセであるはずです。その巻頭の陳述が明らかにしているとおり、申命記は、「モーセが全イスラエルに話した言葉」です。……結びの数節だけは、モーセの死後に、恐らくはヨシュアか第祭司エレアザルによって付け加えられたものでしょう。
(『聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です』36頁、ものみの塔)

[申命記の]作者:モーセ(ただし、ヨシュアによって書かれたと思われる最後のまとめだけを除く)
("Life Application Bible for Students", Tyndale House Publishers, Inc., p.164, 佐倉訳)

この書 [申命記] 自身が、モーセがその大部分を書いたのだと証しています(1:5; 31:9,22,24)。また、他の旧約聖書もそれに同意しています(列王上 2::3; 8:53; 列王下 14:6; 18:12)。ただ、その前書き(1:1-5)はおそらく誰か他の人によって書かれた可能性があり、モーセの死の報告(34章)はほとんど間違いなく他の人によって書かれたのでしょう。
(『NIV 学習用聖書』、240頁、佐倉訳)

といった具合です。つまり、すべてがモーセによって書かれたことが主張できないので、できるだけモーセ以外の人によって書かれたと思われる部分を最小限にとどめようと努力するわけです。少なくとも、その重要な部分はモーセによって書かれたのだというようなことに、たいへん強くこだわります("The Old Testament Problems" by E. Robertson や "WBC Deueronomy 1-11" by Christensen など)。このような傾向、つまり、モーセ著作説への強い執着はいったい何処からでてくるのか、というのが、わたしの長い間の疑問だったのです。

今回の考察中に、その理由が、わかったような気がするのです。それが、「内証」(internal evidence)と呼ばれるものです。つまり、聖書によって聖書を証しするというものです。たとえば、申命記がモーセによって書かれたことは新約聖書やイエス・キリスト自身によって証されている、といった考え方です。

長い伝統が著者をモーセと指定しており、わたしたちの主自身がそれを認めておられます(マタイ 19:8)。そして、一般に、新約聖書の著者たちもこのことを認めています。
("Deuteronomy" by G. T. Manley, The New Bible Dictionary,1962, 佐倉訳)

申命記がモーセによって書かれたという主張を根拠づける論理は数多くあります……。[たとえば、]申命記は新約聖書によって最も頻繁に引用されている律法の書です。そこには、しばしば、「まことにモーセは言った」(使徒 3:22)とか「モーセは言っている」(ロマ 10:19)とか、「モーセの律法に書いてある」(1コリ 9:9)というふうに表現されています……。わたしたちの主は、悪魔に抵抗されたとき、権威ある神の言葉として申命記を引用されました。また、主は「モーセが言った」(マルコ 7:10)とか「モーセが書いている」(ルカ 20:28)というふうに、申命記がモーセの手によるものであることを直接示されています。
("When Critics Ask" by Geisler and Howe, 1992, 佐倉訳)

このように、聖書を間違いのない神の言葉であるとする保守的信仰は、聖書を真理の根拠とするために、しばしば、聖書を証するために、聖書自身を利用するという内証の方法を使用してきました。上記の例のように、申命記の権威を決定づけるのにもしばしば使われてきたものです。それは、外から見れば、悪循環の論理なのですが、すでにイエスや聖書の権威を信じているものにとっては、おそらく、その信仰をより強めるものとして、実際的な効果があるのだと思います。

しかし、このように、たとえば、イエスの権威によって申命記のモーセ著作説を裏付けようとしたり、聖書自身によって他の聖書の権威を根拠づけることをしたりしていると、逆効果を及ぼす危険もでてきます。たとえば、申命記の著者がモーセの著作ではない、ということになると、それを権威づけてきた根拠である、イエス自身や新約聖書の証言が、逆に疑われることになるからです。そのために、わたしは、保守的信仰者がとってきた内証の方法が、彼らをモーセ著作説に執着させているのだ、とおもっているのです。

おたより、ありがとうございました。


再び鈴木登さんより

97年11月25日

(1)翻訳の根拠

第四に、そこで、いずれの場合にも、まったく同じ原語"ベエルヴェルハヤルデ ン"(ヨルダン川の向こう側)が使われているにも関わらず、 前者(1:1、1:5、3:8、4:41、4:47)と後者(3:20、3:25、11:30)を分けなけれ ばならないような、どんな違いがあるのか調べてみると、 ひとつだけあるのです。それは、前者のばあいは、"ベエルヴェルハヤルデン" (ヨルダン川の向こう側)という言葉が、ナレーター(つまり、 申命記の著者)自身によって語られているのに比べて、後者の場合は、ナレータ ーの語る物語の中の登場人物(つまり、モーセ)によって 語られているのです。
そのとおりです。視点をモーセに置いているということです。 だからこそ、ストーリーの中心であるモーセにとっての「ヨルダンのむこう」 を生かしているわけです。語句をいじくりまわさないからこそ、一方がそのまま になっているのです。

この書の大きなテーマを、わざわざ「ヨダン川の西」とするのはかえって不自 然です。

本来の問題は、申命記の記者が「ヨルダンの向こう」を自分の視点と、モーセ の言葉の中の「ヨルダンの向こう」を別の場所でありながら同一文書で併記して いることにあるのです。

この原因はモーセ以前には「ヨルダンの向こう」がヨルダン西岸を指し、その 後は現代に至るまで東岸側だけでなく南部や、おそらくは西岸を含む広い地域を 指している点にあります。

新共同訳では、新改訳が註に入れて説明するような個所、説明が必要な個所は 訳に入れてしまいます。新改訳と比較していただければ、かなり積極的に解釈を 含めた意訳をしていることがわかります。

新改訳も聖書を「神のことば」とした聖書の翻訳です。新改訳の出版社も「保 守的」です。

NIV、新共同訳、新世界訳の1つの共通点は「説明訳」であることです。 翻訳の違いは、原語になるべく忠実に訳すか、程度の差はありますが「説明 訳」にするかの違いにあるのです。「正確な訳」というのは「逐語訳」のことで はありません。 

NIV、新共同訳、新世界訳の翻訳者に問題があるというならまだ理解できま すが、その3冊の翻訳の問題のみで「保守的」な学者一般に適用しているのは論 理が飛躍していると思います。


(2)申命記の記者にとっての「ヨルダンの向こう」

つまり、この、言語的・文化的には何の問題もない「ヨルダン川の向こう側」と いう単純な表現を、わざわざいじくりまわした事実の背景には、この翻訳者(た ち)が、前者(1:1、1:5、3:8、4:41、4:47)だけに、何らかの神学的問題を見 出したに違いないのです。
申命記の記者が指している「ヨルダンの向こう」は単純に「ヨルダン川の東」 ではありません。モーセが言う「ヨルダンの向こう」の場合と違って問題がある のです。

申命記の記者にとっての「ヨルダンの向こう」すなわち「トランス・ヨルダ ン」はかつてのトランス・ヨルダン(現在はヨルダン)に属する死海の南部、ア カバ湾までの広大な地域とほぼ一致するのです。  更に「ヨルダンの向こう」は東も西も指しているのです。  原文に忠実な新改訳も「ヨルダンの向こう」で訳し通すことはできないので す。

 民数記32:19 私たちは、ヨルダンを越えた向こうでは、彼らとともに相 続地を持ちはしません。私たちの相続地は、ヨルダンのこちらの側、東のほうに なっているからです。(新改訳)

 「ヨルダンを越えた向こう」、「ヨルダンのこちらの側」はともに「ヨルダン の向こう」の訳です。  「ヨルダンのこちらの側、東」は(`eber Yarden mizrach)の訳です。原文は 「東のヨルダンの向こう」と言っているのです。   自分たちのいるところを、わざわざ「川の向こうの東」だと、まるでクイズ のように言っているのです。  この個所の訳は翻訳によって違いがあります。「ヨルダンの向こう」の取り扱 いについて諸説があるようです。

  mizrach(東)という語とセットになっている個所は申命記4:41、4:4 7、4:49にもあるのです。  そこでも(`eber Yarden mizrach)と東の「ヨルダンの向こう」と言っている のです。

 一方、西側についてもヨシュア記では5:1、9:1、12:7で話者がヨル ダンの西にいるのに「ヨルダンの向こう」と自分のいる方を指しているのです。

 ヨシュア 5:1 ヨルダン川のこちら側、西のほうにいたエモリ人のすべての 王たちと、海辺にいるカナン人のすべての王たちとは、...(新改訳)

 「ヨルダン川のこちら側、西のほう」は「ヨルダンの向こう」の訳です。しか し、13:8などでは「ヨルダンの向こう」は東を指します。

 1歴代史26:30でも、「ヨルダンの向こう」は「東」ではなく「西」を意 味します。

 七十人訳でも(peran tou Iordanou pros dusmais)と「西の方」(pros dusmais)という、恐らく翻訳者のヘブル語聖書にもなかった語を加えています。 (Old Greek Jewish Scriptures edited by Alfred Rahlfs 1935より引用)

 このように「ヨルダンの向こう」がそのままでいいと思えるのは、申命記だけ を見ている場合です。それでも申命記4:41、4:47は問題があるのです。  この問題に対し、新改訳がなるべく原文を生かそうとして四苦八苦しているの と対照的に、新共同訳のように最初から「ヨルダン川の東」「西」などとしてい る翻訳は無理が少ないのです。  新共同訳が申命記という一部分の都合で「聖書を書き換え」ているのではない ということは明らかです。

 なお、「新世界訳」が「ヨルダンの向こう」を地域の呼称として「ヨルダン地 方」と言っているのは、以上のような背景が考えられます。  一概に「新世界訳」のこの訳がおかしいとは言えません。なお、現在イスラエ ルが占領しているヨルダン西岸もヨルダン領です。


(3)「内証」について

 私はこの語の正確な定義を知りませんが、「内的証拠」と同じでしょうか。  通常「(聖書)自体が述べている、(聖書)自体から分かる」という広い意味 だと思います。  例えば、エドワード・ヤングの「旧約聖書緒論」の文中に、必ずしも「保守 的」な意見を主張しているとは思われない学説の引用があります。  「ドライヴァーの主張によれば、...内的証拠の示すところは、この歌(申 命記31:13−30)が申命記のその他の部分とは個別の著者のものであると いうことである」。  聖書に比較する古代の文献が少ないので、どのような立場の研究者でも、多か れ少なかれ聖書の「内的証拠」によって語らざるを得ないのです。  実際、このページでやっていることは聖書と翻訳された聖書の「内的証拠」を もとに議論しているのです。


(1)自己批判、その一

わたしは、申命記だけを見ていたために、鈴木さんから貴重な指摘をしていただくまで、「`eber Yarden」は「ヨルダンの向こう」で通用すると思い込んでいました。ご指摘のおかげで、旧約聖書に出てくる「`eber Yarden」のすべて(44カ所だと思いますが、取りこぼしもあるかもしれません)を調べ直してみました。その結果、そのほとんどは「ヨルダンの向こう」と訳しても問題がないと考えられますが、鈴木さんの指摘されるように、「ヨルダンの向こう」とはどうしても訳しきれない部分がいくつか(9カ所ほど)あることがわかりました。そこで、新しい視点から全部解釈し直してみました。下記の「再考『ヨルダンの向こう』」ご覧ください。

(2)自己批判、その二

わたしは、意味のすり替えが「意図的になされた」と主張していましたが、それは必ずしも正しくないだろう、と思うようになりました。無意識になされた場合が考えられるからです。つまり、申命記がモーセの作であるということが純粋に信じられているために、「`eber Yarden」という表現を解釈する際に、モーセの作ではないことを含意する解釈の可能性がはじめからまったく思い浮かばなかった場合も考えられるからです。そのような場合には、「意味を意図的にすり替えた」という批判は当てはまらないと思われるからです。訂正します。

(3)再考「ヨルダンの向こう」

さて、鈴木さんからの貴重な指摘にうながされて「ヨルダンの向こう」をあらためて調べ直してみました。そして、「〜の向こう」にあたる「`eber 〜」の出てくる箇所をすべて調べてみました。その結果、いくつかのことが判明しました。

まず、「`eber〜」は、ほとんどの場合「〜の向こう側」あるいは「〜の反対側」という意味であること。これは、ヨルダン川でない場合はとくにそうです。たとえば、「(ともしび皿の)光が前方に届くようにする」(出25:37)における「前方」は「向こう側」の意訳です。「エフォドと接するあたりの裏側」(出28:26)における「裏側」は「反対側である内側」の意訳です。

そのために、ヨルダン川の場合はさまざまな意訳を凝らす翻訳書も、「ユーフラテス川」(ヨシュア24:2、サムエル下10:16)とか「アルノン川」(民数記21:13)などの場合は、躊躇なく「〜の向こう」と訳出しています。同じように、「(死)海の向こう」(歴代下20:2、エレミヤ25:22)、「谷の向こう側」(サムエル上31:7)なども、そのように訳出されています。したがって、「`eber 〜」を「〜のこちら側」というふうに原意の反対を意味するように訳さねばならないと思われるケースはきわめて例外であって、しかも、それは、ほとんどヨルダン川の場合に限られているようです。

「`eber」という表現がヨルダン川に関連して使用されたケース(`eber Yarden)に限って言えば、わたしの数えたところによると、旧約聖書に44回出てきます。そのうちのほとんどは、他の場合と同じく、やはり、「ヨルダンの向こう」とそのまま訳しても(モーセ著作説に執着しなければ)何の問題もありません。しかし下記にあげた箇所では、「ヨルダンの向こう」と訳したのでは、意味がうまく通じません。そのうちのいくつかは、すでに、鈴木さんによって指摘されたものです。

民数記32:19b、民数記32:32、民数記35:14、ヨシュア記1:14 、ヨシュア記1:15、ヨシュア記5:1、ヨシュア記9:1、ヨシュア記12:7、歴代上26:30
もちろん、「ヨルダンの向こう」という表現が、ある時は「東側」を指し、ある時は「西側」を指している、ということ事態に問題があるわけではありません。「〜の向こう」というのは、基本的には相対的な表現であって、話し手の視点によって、どちらにでもなるからです。しかし、上にあげた例で「ヨルダンの向こう」と訳すと問題が生じるのは、「向こう」という言葉で指されている場所が、そう言っている話し手自身の視点を指していると思われるからです。(ただし、歴代上26:30の場合は、ユダヤ幽囚時代の後に書かれたものであって、その視点が必ずしもパレスチナであるとは限らないので、「ヨルダンの向こう」という解釈が必ずしも不都合であるわけではない。)

(4)私訳の試み

このような問題があるために、わたしはわたし自身の翻訳を試みました。つまり、「`eber」という言葉が原則的に持っている「〜の向こう側」という意味を失わないまま、しかも、「〜の向こう側」とは訳すことのできない例外的な箇所も訳すことが可能な、そのような魔術的(^_^)表現を見つけることです。

わたしが目をつけたのは、「`eber」という語は「`abar」(渡る、越えて行く、to cross over)という動詞形の派生語であるという事実です。このことは、「`eber」が、もともと「渡って行った側」「越えて行った側」という意味であり、そこから、この語が単に「向こう側」という意味を持つようになったのだと考えられます。そこで、試みに、「ヨルダンの向こう側」「ヨルダンのこちら側」「ヨルダンの東側」「ヨルダンの西側」「ヨルダン地方」などと、さまざまに訳し分けられていた「`eber Yarden」を、一律に、「ヨルダンを越えた側」あるいは「ヨルダンを渡って行った側」と置き換えてみました。すると、かなりうまくいくことがわかりました。(「私訳『ヨルダン川の向こう』」を参照してください。)

たとえば、ヨシュア記(ヨシュア記5:1、ヨシュア記9:1、ヨシュア記12:7)で、ヨシュアとイスラエル人たちが、すでにヨルダンの西側に渡って来ているにもかかわらず、かれらのいる側を指して「ヨルダンの向こう側」と言っているように思える箇所も、「ヨルダンを渡った側」とか「ヨルダンを渡って行った側」とすれば、とても自然な表現となり、問題が解消してしまいます。

ヨルダン川を渡って行った西側にいたアモリびとの王たちと、海辺におるカナンびとの王たちとは皆、主がイスラエルの人々の前で、ヨルダン川の水を干しからして、彼らを渡らせたと聞いて、イスラエルの人々のゆえに、心は消え、彼らのうちに、もはや元気もなくなった。(5:1)

つぎに、一般に、「`eber Yarden」のあとに、「東」とか「西」という言葉が続くときは、話し手の位置とは無関係に「ヨルダン川を越えた、東(西)側」つまり「ヨルダン川を東(西)の方に越えた側」というふうに解釈できます。したがって、歴代上26:30なども、

ヘブロンびとのうちでは、ハシャビヤおよびその兄弟など勇士千七百人があって、ヨルダン川を西の方へ越えた側でイスラエルの監督となり、主のすべての事を行い、王に奉仕した。
と訳出することができます。したがって、そのような場合には、新共同訳の申命記(4:49)訳の例のように、単純に「ヨルダン川の東側」と訳すのはよいと思います。

逆に、「`eber Yarden」だけで、そのあとに、「東」とか「西」など補助語が続かない場合は、話し手の位置が視点であることが暗黙の前提になっていると考えられます。創世記(50:11)などは、その典型的な例だと思われます。

その地の住民、カナンびとがアタデの打ち場の嘆きを見て、「これはエジプトびとのおおいなる嘆きだ」と言ったので、その所の名はアベル・ミツライムと呼ばれた。これはヨルダン川を越えた側にある。
ここではあきらかに、話し手(ナレーター)の現在位置が視点となっています。また、ヨルダンの東側にとどまらなければならないモーセが、自分も「ヨルダンの向こう」に行かせてくれ、と神に嘆願する箇所(申命記3:25)でも、ヨルダンの西側に来ているヨシュアが、強敵に出会って、「ヨルダンの向こう」に留まっていた方がよかった、と神に祈る箇所(ヨシュア7:7)でも、同様に、話し手であるモーセやヨシュアの現在位置がその視点となっているのが明らかであり、したがって、「東」とか「西」などの補助語もありません。このような場合は、単純に、「ヨルダン川の向こう側」と訳出してもよいと思います。

一般に、このように、「`eber Yarden」だけで、そのあとに、「東」とか「西」など補助語が続かない場合は、話し手の位置が視点であることが暗黙の前提になっていると考えられますが、次にあげる三つ(民数記32:32、民数記35:14、ヨシュア記1:14 )はその例外です。そして、この三つだけが、実は、「ヨルダン川を越えた側」あるいは「ヨルダン川をわたった側」としても、問題が残る箇所です。

「われわれは武装して、主の前にカナンの地へ渡って行きますが、ヨルダン川を(東の方へ)越えた側で、われわれの嗣業を持つことにします。」(民数記32:32)

[主はモーセに仰せになった。イスラエルの人びとに告げて言いなさい。]「すなわちヨルダン川を(東の方へ)越えた側で三つの町を与え、カナンの地で三つの町を与えて、のがれの町としなければならない。」(民数記35:14)

[ヨシュアは言った。「モーセがあなた方に言ったように、]あなたがたの妻子と家畜とは、モーセがあなたがたに与えたヨルダン川を(東の方へ)越えた側の地にとどまらなければならない。」(ヨシュア記1:14 )

これには、いくつかの説明が可能です。そのひとつは、「東の方へ」という語が何らかの理由(テキストの破損、写本コピーのときの誤り)で脱落したのではないか、というもの。あるいは、著者が語り手がヨルダンの向こう側にいることを忘れて自分を視点にした表現を使用してしまった、というもの。もう一つの説明は、これらの書は、モーセやヨシュアが書いたのではなく、イスラエルの人々がパレスチナに定住して何世紀も経た後に書かれたので、「ヨルダンの向こう側」という言葉が「ヨルダンの東側」の代名詞のように固定化してしまっており、わざわざ「東の方へ」と言うような語をつけなくても、暗黙の内に了解されていた、というものです。わたしは、これらのすべてが影響して、このような「間違い」が生まれたのだと想像しています。

最後に、興味深いことに、「ヨルダンの向こう側」が、実際には、単にヨルダン川の対岸だけを指しているのではなく、死海の東側や、その南の方を含んだ広い領域を指しているということも、「ヨルダンを越えた側」あるいは「ヨルダンを渡って行った側」と置き換えることによって、よりすっきりと理解できるのではないかと思われます。というのは、パレスチナに定住するようになった古代イスラエル人にとって、死海の東側やその南の方の場所にしても、結局、まずはヨルダン川を渡って行くところだからです。つまり、それらの領域も、ヨルダン川の対岸のモアブ平野と同じように、パレスチナのイスラエル人にとっては、やはり「ヨルダンを渡った側」だったからではないでしょうか。

(5)モーセ著作説と意図的書き換え

わたしの試訳がどうであれ、すくなくとも、「ヨルダンの向こう側」という表現がわたしが最初に考えていた以上に複雑な問題を抱えていることを、今回、わたしは知ることができました。そして、「ヨルダンの向こう側」を、NIVや新共同訳が「ヨルダンの東」と訳したり、新世界訳が「ヨルダン地方」と訳したりしたその背後には、鈴木さんが指摘されるように、「ヨルダンの向こう側」を訳出する難しさがあっただろうと思います。

しかし、それにもかかわらず、今回の再吟味によって、やはり、それらの翻訳はモーセ著作説に深く影響され、そのために、創世記や民数記や申命記がモーセの著作ではない、と受け取れるような表現がことごとく避けられている、と改めて知らされました。

たとえば、新共同訳は、ヨシュア記においては「`eber Yarden mizrach」を「ヨルダンの向こう側、すなわち東側」(12:1, 18:7)と翻訳しているのに、申命記にあらわれるおなじような表現では、すべて「ヨルダンの東側」(4:41, 4:47)と訳出していて、申命記の著者がヨルダンの西側にいると思われかねない表現である「ヨルダンの向こう側」を脱落させています。この新共同訳は同じように、士師記(5:17, 7:25, 10:8)や歴代上(6:63, 12:37)やイザヤ書(9:1)においては、著者(ナレーター)が語っている「`eber Yarden」という表現を「ヨルダン川の向こう」と訳出しているのに、モーセ著作と考えられている創世記(50:10, 50:11)や申命記(1:1. 1:5, 3:8)に現れるまったくおなじ表現は、すべて「ヨルダンの東側(東岸)」と訳出されていて、やはり、創世記や申命記の著者がヨルダンの西側にいると思われかねない表現である「ヨルダンの向こう」が避けられています。

同じようなことは、新世界訳でもいえます。たとえば、新世界訳は、ヨシュア記(17:5)や士師記(5:17 )や歴代上(12:37)などでは「`eber Yarden」という表現を「ヨルダン川の向こう」と訳出しているのに、創世記(50:10, 50:11)や申命記(1:1. 1:5, 3:8)に現れるまったくおなじ表現は、すべて「ヨルダンの地方」と訳出されていて、やはり、創世記や申命記の著者がヨルダンの西側にいると思われかねない表現である「ヨルダンの向こう」が避けられています。

また、NIVも同様のことをしています。士師記(5:17)やサムエル上(31:7)や歴代上(6:78)においては、著者(ナレーター)が語っている「`eber Yarden」という表現は「beyond the Jordan, across the Jordan」などと訳出しているのに、創世記に現れる同じ表現は「near the Jordan」(50:10, 50:11)、申命記では「the east of the Jordan」(1:1. 1:5, 3:8)と訳出していて、やはり、モーセ著作説を保護するような態度が見えます。

このように、これらの翻訳では、モーセの作と言われる創世記や申命記の翻訳において、それらの著者がヨルダンの西側にいると取られかねないような表現は一貫して避けられています。したがって、それらが意図的であったにせよ、無意識的であったにせよ、わたしにはそれが単なる偶然であったと考えることはできません。モーセ著作説への信仰がその聖書翻訳に影響を与えていると考えざるをえません。