人はなぜ宗教を信じるのか?

便りありがとうございました。丁寧なご返事、感謝しています。 さてご返事の内容は大体私の考えと一致するのですが、どうしてもこの点だけはお聞きし たいことがあります。(聞いてもわからないかもしれませんが)

どうして人は誤りがあると判っていながら、その点を無視して宗教が信じれるのでしょうか?

科学と宗教の範疇が違うこと。宗教の科学的合理性を求めることは、八百屋で魚を求めるぐらいばかげた事なのかもしれません。しかし、だからといって、論理と整合性を無視してよいのでしょうか。かつてジョージ・オーウェルはその著作「1984年」で、架空社会における共産的独裁国家の恐怖を描きましたが、その中にでてくる(ダブルシンク)と言う思考法は、宗教そのもなのです。いついかなる状態においても目の前にある事実を認めず、ただ党のスローガンのみを無批判に、盲目的に信じる社会。そして現実が変化すれば(例えば交戦国がA国からB国に変化すれば)、党のスローガンもいつのまにかそれに会わせて(常にA国が友好国でB国は敵だ。)と変わってしまい、国民は何の疑問ももたない社会。

昔読んだ時はそんなあほな、リアリティに欠けると思いましたが、オウムも含めて、宗教は総てそのような要素を持つのではないでしょうか。映画「コンタクト」で、主人公は世界の95%の人々が宗教を信じているのに、宗教を信じない君を人類代表として宇宙に送り出すことはできないと言われます。95%の人間が、正しいかどうか判らない事を信じ込んでいる。ある意味、空恐ろしいものを感じます。

前置きが長くなりました。つまり私が言いたいことは、「神の実在を問う事は無意味だからやめとけ」との考えにちょっとまったと、声を大にして言いたいのです。安直に思考停止におちいらずに、もしかしたら神は存在せず、人は死ねば永久に土に帰るだけの存在なのかもしれないと、勇気をもって考えるべき、それが人間の率直さなのではないでしょうか。そしてそれでも親鸞のように、どうしても宗教を捨てきれないというのならば、それはそれでいいと思います。ただオウムにしても、幸福の科学しても、とにかく信じることから始まると言うのは、そのような人間の誠実さが欠けていると思います。

ちなみに私は「神を思う」事と「神が実在する」事は、まったく別だと思います。つまり神が人間を作ったのではなく、人間が神を(頭の中で)作ったのだと思います。ですから一般的な意味での神はまったく信じていません。

佐倉さんはどのようにお考えでしょうか。

乱筆乱文失礼しました。

山本格太

(1)「どうして人は誤りがあると判っていながら、その点を無視して宗教が信じれるのでしょうか?

それは、おそらく、そうすることによって、なんらかの益(幸福)を得ることができると思い込んでいるからだと思います。つまり、「地獄に落ちないで天国に行く」、「罪が許される」、「病気が治る」、「善人になる」、「人生の目的や意味が与えられる」、「敵が滅ぼされる(終末思想)」、等々、何らかの益を得られると思うからこそ、真実であるかどうかわからなくても、「そうであってほしい」と念じる、すなわち、信じるのだと思います。

これは、賄賂をもらうために、法廷で嘘の証言をするのとよく似ています。正しいかどうかという事実判断が、自分の益になるかどうかという実益判断によって、なされているのです。そのため、あやしげな宗教はすべて例外なく、「幸福を得させるものが真理である」という、人類史上もっとも巧妙な嘘を宣伝して、「幸福」という餌を人々の眼の前にぶら下げます。そして、真実であるかどうかを知ることよりも、自分の益になるかどうかを優先する人々は、この餌に食らいつきます。


(2)語りえぬことについて語る

つまり私が言いたいことは、「神の実在を問う事は無意味だからやめとけ」との考えにちょっとまったと、声を大にして言いたいのです。安直に思考停止におちいらずに、もしかしたら神は存在せず、人は死ねば永久に土に帰るだけの存在なのかもしれないと、勇気をもって考えるべき、それが人間の率直さなのではないでしょうか。・・・神が人間を作ったのではなく、人間が神を(頭の中で)作ったのだと思います。
いったい、いかなる根拠で、「神が人間を作ったのではな[い]」、と主張されるのでしょうか。「神が人間を作ったのではな[い]」という主張は、人間の起源に関する完全なる知識がなければ証明不可能なはずです。しかし、現代のわたしたちは、まだそのような知識を持ちあわせていません。したがって、「神が人間を作ったのではな[い]」という主張は、「神が人間を作った」という宗教の主張と同じく、知識から出た主張ではなく、信念から出た主張(「頭の中で作ったもの」)にすぎません。
哲学の正しい方法とは本来、次のごときものであろう。語られうるもの以外に何も語らぬこと。ゆえに、自然科学の命題以外何も語らぬこと。ゆえに、哲学となんのかかわりももたぬものしか語らぬこと。--- そして他の人が形而上学的なことがらを語ろうとするごとに、君は自分の命題の中で、ある全く意義をもたない記号を使っていると、指摘してやること。この方法はその人の意にそわないであろうし、かれは哲学を学んでいる気がしないであろうが、にもかかわらず、これこそが唯一の厳正な方法であると思われる。・・・語り得ぬものについては、沈黙しなければならない

ヴィットゲンシュタイン、『論理哲学論考』(藤本隆志・坂井秀寿訳)

宗教と唯物論は、語り得ぬことについて多くを喋りすぎる点において、「同じ穴のムジナ」だと思います。

おたより、ありがとうございました。