キリスト教の終末思想も、またノストラダムスやエドガー・ケイシーなどの予言に見られる俗流終末論も、もともと、西暦前3〜2世紀に生まれたユダヤ教の黙示的終末思想をその源流としています。そもそも、いったい、どのような事情のもとでこのような思想が生まれてきたのでしょうか。黙示的終末思想を支える状況および人びとの動機を探ってみたいと思います。



1 黙示的終末思想の歴史的背景

「黙示」(啓示;天上の秘密が示されること)と「世の終わり」(時の終わり;悪の世の終わり)は、もともと、それぞれ独立した概念ですが、「黙示的終末思想」とは、この二つの概念を一緒にした、世の終わりが天上の秘密の啓示によって述べられている思想、あるいは、天的な計画(神の計画)に従って世の終わりがもたらされるという思想です。

一般に、単に「黙示文学」とか「終末思想」などと言う場合も、しばしばこの黙示的終末思想を指しているようですが、具体的には、ユダヤ経典(旧約聖書)に納められている『ダニエル書』や、新約聖書に納められている福音書や『ヨハネの黙示録(Apocalypse)』などに書かれている典型的な「世の終わり」思想を指します。

黙示的終末思想は、とくに、西暦前二世紀から西暦二世紀にかけて、集中的に産出されました。それには、ある特別な歴史的変化が影響しています。ユダヤ人は、新バビロニア王国がペルシャ帝国によって滅ぼされて以来、長い間、地域を支配したペルシャ、その後のアレキサンドロス、その後のプトレマイオスの支配のもとで、宗教上の自由を認められた寛容な支配のもとにありました。

しかし、西暦前二世紀に入って、突然、事情が変わってきます。すなわち、前198年にパレスチナ領有権がシリアのセレウコス朝のアンティオコス三世の支配のもとになると、積極的なヘレニズム文化の導入が始まります。そして、ユダヤ人にとって最悪の事態は、アンティオコス四世エピファーネスの時代になったときにやってきます。エピファーネスは、ユダヤのギリシャ化を強制し、ユダヤの宗教的伝統を禁止したり、神殿財宝を取り上げたり、聖書を持つことを禁止したり、ユダヤ教で厳しく禁止されている豚肉を食べることを強制したり、揚げ句の果てには、エルサレムの神殿に、ギリシャの神ゼウスの像を置いたり、徹底的な宗教的弾圧を行ないました。そして、ユダヤ教信仰禁止の法を破るものは死刑にさえ処されました。ユダヤ人の歴史の中で、ヒットラーとエピファーネスは、おそらく、ユダヤ人にもっとも憎まれた人物であると言えるでしょう。

エピファーネスの圧制はマカベアの反乱を生み、非ダビデ系のハスモン王朝が一時的に成立しますが、前68年のポンペイウスのエルサレム攻略によってユダヤはローマ帝国の支配下に置かれ、後70年にはゼロテ党を中心にしたユダヤ人の反乱は鎮圧され、エルサレムの神殿は破壊され、国家としてのイスラエルは消滅し、エルサレムの神殿を中心としたユダヤ人の宗教も歴史から消滅します。

黙示的終末思想を多量に生産したのはこの暗黒時代でした。(キリスト教はこの時代の黙示的終末思想の落とし子の一つです。)


2 黙示的終末思想の特徴

(1)終わりの時とは敵が滅びる時

「終わりの時」(eschatos)とは、世界が滅びる時ではなく、自分たちの敵が滅び、敵の支配の時代が終わり、自分たちの時代がやって来る、その歴史的時期のことを言います。滅びるべき敵は悪の側であり、その悪なる敵の支配のもとで苦しんできた自分たちは正義の側であり、ゆえに、「終わりの時」とは、悪の時代が終わり、正義の時代が始まる、そのような歴史的時期を意味します。敵にとっては恐るべき時であり、自分たちにとっては希望の時を意味します。そして、「自分たち」とは、もちろん、ユダヤ人・イスラエル国家のことであり、「敵」とはユダヤ人・イスラエル国家を迫害し支配する近隣帝国主義を指します。

彼[帝国主義の王]はいと高き方[イスラエルの神ヤーヴェ]に敵対して語り
いと高き方[イスラエルの神ヤーヴェ]の聖者ら[イスラエルの指導者たち]を悩ます。
彼は時と法を変えようとたくらむ。
聖者ら[イスラエルの指導者たち]は彼[帝国主義の王]の手に渡され
一時期、二時期、半時期がたつ。
やがて裁きの座が開かれ
彼[帝国主義の王]はその権威を奪われ
滅ぼされ、絶やされて終わる。
天下の全王国の王権、権威、支配の力は
いと高き方[イスラエルの神ヤーヴェ]の聖なる民[ユダヤ人]に与えられ
その国はとこしえに続き
支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う。

(ダニエル書 7:25-27)

見よ、この怒りの時の終わりに何が起こるかをお前に示そう。定められた時には終わりがある。[幻の中で]お前の見た二本の角のある雄羊はメディアとペルシャの王である。また、あの毛深い雄山羊はギリシャの王である。その額の大きな角は第一の王[アレキサンドロス]だ。その角が折れて代わりに四本の角が生えたが、それはこの国から、それほどの力を持たない四つの国が立つということである。

四つの国の終わりに、その罪悪の極みとして  高慢で狡猾な一人の王[シリアのアンティオコス・エピファーネス]が起こる。 自力によらずに強大になり  驚くべき破壊を行ない、ほしいままにふるまい 力ある者、聖なる民[ユダヤ人]を滅ぼす。 才知に長け その手にかかればどんな悪だくみも成功し  驕り高ぶり、平然として多くの人を滅ぼす。 ついに最も大いなる君[イスラエルの神ヤーヴェ]に敵対し 人の手によらずに滅ぼされる。

(ダニエル書 8:19b-25)

いと高き方[イスラエルの神ヤーヴェ]はお前[ローマ帝国]にこう言われる。「お前は、わたしが世を支配させ、わたしの時の終わりを来させるために造った四つの獣の生き残りではないか」と。お前は四番目にやって来て、それまでの獣すべてを征服し、権力を振るって世を大いに震え上がらせ、全世界をひどく苦しめ、またこれほど長い間、世に住み着いて欺いた。お前は地を裁いたが真理によってではなかった。お前は柔和な人を苦しめ、黙している人を傷つけ、真実を語る人を憎み、嘘つきを愛し、栄える者の住居を壊し、お前に何の害も及ばさなかった人の城壁を打ち倒した。お前の非道はいと高き方に、お前の傲慢は力ある者に達した。そこでいと高き方は、ご自分の定めた時を顧みられた。すると、時は終わり、世は完了していた。それゆえ、鷲よ、お前は消えうせるのだ。・・・そうすれば、全地は、お前の暴力から解放されて力を取り戻し、地を造られた方の裁きと憐れみを待ち望むことができるであろう。

(エズラ記 第二書[ラテン語] 11:38b-46、新共同訳「旧約続編」pp.365-366)

滅ぼされるべき「敵」は、単にユダヤ人・イスラエル国を支配する近隣の帝国のことではなく、ときには、異邦人(非ユダヤ人)一般を指して言う場合があります。
天に存す方が玉座から立ち上がり
聖なる住居から出で立ち
その子らのために怒りと憤りを抱いてすすむ
地はふるえおののき、その果てまで揺れ動く
高い山々は低くされ
丘はふるわれてくずれる
太陽の角は折れ、暗黒に変わる
月も光を投げず、まったく血に変わるであろう
星々の運行は止まり
海は淵にしりぞき
水の源は涸れ
川は干上がるであろう。
いと高き者、永遠の神のみが立ち上がり
異邦人を罰するためにあらわれ
彼らの偶像をことごとく打ち壊すからだ。
それゆえ、おおイスラエルよ、あなたは幸を得、
鷲の首とつばさに乗るであろう。
彼ら[異邦人]は滅び
神はあなた[イスラエル]を高めてくださる。
神はあなた[イスラエル]を星空に近づかせ
星の住居に近づかせる
そしてあなた[イスラエル]は高みから見渡し、あなたの敵をゲヘナ(地獄)の中に見下ろすであろう。
あなた[イスラエル]は彼ら[敵]を[地獄の中に]みとめてよろこび、
あなた[イスラエル]の造り主に感謝し賛美するであろう。

(モーセの昇天 第10章、『原典新約時代史』、pp.703-704)

しかし、主よ、もしあなたがわたしにあらかじめ知らせてくださったこれらのことが必ず起るのだとするなら、どうか、わたしが本当にあなたの恵みにあずかっているのかどうかをも示してください。これらのことが起るのは、地上のある一箇所か、一部分なのでしょうか。それとも全地に起こるのでしょうか。
 すると彼は答えた。「その時にふりかかることはすべて全地にふるかかるであろう。それゆえ、生きとし生けるものはそれを経験する。そのとき、わたしはその同じ時代にこの国[イスラエル]に生きているものだけを守る。」

(バルク第二書25-30より、同上、p.710)

このように、本来、「終わりの時」とは、世界が滅びる時ではなく、ユダヤ人の敵が滅び、ユダヤ人の敵(あるいは異邦人)が驕り高ぶる支配の時代が終わり、ユダヤ人の繁栄する時代がやって来る、その歴史的時期のことでした。敵が滅び自分たちが生残る-- これが終末思想の本質であり、終末を待ち望む人びとにとって最大の魅力であったと考えられます。



(2)敵が滅んだ後の世界は、正義と平和が永遠に約束されている

伝統的ユダヤ教においても神がイスラエルをその敵から救うというテーマは昔からあるわけですが --- それがユダヤ教であるといってもよいわけですが ---、この新しく起こった、黙示的終末論だけにとくに特徴的なところは、その救いの結果が、それまでの人間の歴史とはまったく次元の異なる、イスラエルの神ヤーヴェが永遠に支配する(悪が滅ぼされ正義と平和が永遠に続く時代、すなわちイスラエルが他国に再び従属することのない)時代が来るという約束をしているところです。

審判のすべくくりが人の子にあたえられた。
彼は罪人らをほろぼし、地上から消え去らせ
世を惑わす者どもをほろぼした。
彼らは鎖でつながれ
滅亡の刑場に囚われた。
彼らのすべての業は地上から消滅し
今からのち、罪に汚されるものはひとつもない。

(第一エノク書(B)69:26-29より、『原典新約時代史』、p.726)

・・・それゆえに、世の創造以来の平和が生まれ、
とこしえからとこしえまで、つづくであろう。

(同上(C)71:14-17より、p.727)

彼の支配はとこしえに続き
その統治は滅びることがない。

(ダニエル書 7:14b)

せっかく滅ぼされた敵が勢力を盛り返し、自分たちがその勢力下に再び支配されるほど絶望的なことはありません。そのために、敵が完全に滅ぼされ、正義と平和が「永遠から永遠に続く」約束がなされています。このような考え方が現れるようになった背景には、これらが書かれた当時のエピファーネス支配の暗黒時代以前にも、ユダヤはネブカドネザルのバビロニア王国に滅ぼされ(前586年)、その支配下で苦しめらた(捕囚時代)ことがある、という歴史的事実があります。

もともと、全知全能で善なる神の存在を信じることと現実の悪の存在の間には本質的な矛盾があるために、この矛盾は、究極的には悪を滅ぼし尽くして正義が貫く世界がやって来るはずである、という思想を生み出す契機となっています。それが、「悪の元凶」(マカバイ記1:10)とさえ言われたエピファーネスの支配の時代にいたって、悪の終末と極端なユートピア思想展開させる種となったと考えられます。



(3)敵の滅びは、人間の努力ではなく、超越的力の介入によってなされる

「終わりの時」とはユダヤ人の敵が滅びる時のことですが、その滅びは、人間の努力にしたがって、その努力に応じて次第に達成されていくのではなく、神自身の予定にしたがって、神の力の地上への直接介入によってなされることになっています。すでに、上記に挙げた例も、そのことを示しています。

ついに最も大いなる君[イスラエルの神ヤーヴェ]に敵対し 人の手によらずに滅ぼされる。

(ダニエル書 8:25、再出)

高い山々は低くされ
丘はふるわれてくずれる
太陽の角は折れ、暗黒に変わる
月も光を投げず、まったく血に変わるであろう
星々の運行は止まり
海は淵にしりぞき
水の源は涸れ
川は干上がるであろう。
いと高き者、永遠の神のみが立ち上がり
異邦人を罰するためにあらわれ・・・

(モーセの昇天 10、再出)

そこでいと高き方は、ご自分の定めた時を顧みられた。すると、時は終わり、世は完了していた。それゆえ、鷲よ、お前は消えうせるのだ。

(エズラ記 第二書[ラテン語] 11:38b-46、再出)

敵が滅びるのは、自分たちの努力の結果としてではなく、神が直接その超越的な力で介入することによってなされる、という思想の背後には、強大な帝国支配のもとにある弱小国家の無力感があります。この無力感が神の直接介入による問題の解決という終末信仰を生んだ、と考えらます。

神が直接その超越的な力で介入することによって救いがもたらされるという考え方には、強大な罪の力には打ち勝てない自己の意志の弱さゆえに、神の力に依存するほかに希望を見いだせない(あるいは、自己の力に拠りたのまんとすることこそ罪である)という、後のキリスト教的信仰の本質につながる考え方でもあります。

弱小国家にとって強大な帝国支配を覆すのははなはだ困難な仕事です。そして、自分は努力しないでも目的が達成されるという考えは、いかなる人間にとっても、まことに単純に魅惑的な思想となります。そこで、信仰をもつだけで、複雑で厄介なすべての問題が一挙に解決されるという終末論思想の責任単純化の論理は、無力感に打ちひしがれる弱小国家にとって、おそらく、おおきな魅力となったとも考えられます。

終末思想文献にあるさまざまな天変地異の予言は、世の終わり、すなわち、敵の滅亡が、自分たちの地道な努力によって少しずつ達成されるのではなく、神の力によって一気になされる、という上記のような考えから必然的に派生してきたものだと言えるでしょう。したがって、まるで天変地異だけが終末思想のすべてであるかのような後代の俗説終末論の論議は、的を外れていると言えるのですが、やはり、世界が超自然的な運命の力によって必然的に滅びるという俗説終末論を奉ずる動機にも、強大な敵が滅びるのに自分は何の努力もする必要はない、という魅力的な論理がその根底にあるのだろうと想像されます。




3 黙示文学の形式



(1)偽名

一般に信じられていることとは裏腹に、ユダヤ黙示文学は作者が未来のことを書いたものではありません。ユダヤ黙示文学における「終わりの時」とは、実は、作者にとっての遠い未来のことではなく、作者が生きていたその時代のことでした。黙示文学作者たちは、ユダヤの過去の歴史の著名な人びとであるアダムやエノクやモーセやエズラやダニエルなどの偽名を用いて、あたかも、過去のこれらの偉人たちが昔々、(黙示文学作者たちにとっての)現在について予言した、その事柄が今起ころうとしている、という形式の文学を書いたのでした。それがユダヤ黙示文学形式のひとつの特徴です。

たとえば、ダニエル書7〜12章は、未来に起こるべきことを、昔(前六世紀)の偉人ダニエルが幻で見たという物語ですが、実際に書かれたのは前164年前後であると考えられています。ダニエル書7〜12章の作者は、数百年前、偉人ダニエルが、ダニエルから見た未来、すなわち作者の住んでいたその時代について起こるであろうことを、幻で見たという物語を書いて、現実のユダヤ人に対するヘレニズム化政策を強制するアンティオコス四世エピファーネスの支配がもうすぐ終わるであろう、という宗教的政治的メッセージを送り、よって、作者が生きている同時代のユダヤ人仲間を勇気づけようとしたわけです。



(2)封印

このような形式の文学は、それでは、なぜそんな昔に書かれていた本がいままで知られることがなかったのか、という問題を生みますから、かならず、それは神の命令でいままで封印されていたのだ、という理屈がつけられています。

ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くのものが動揺するであろう。そして、知識は増す。

(ダニエル書12:4)

こうして、今や終わりの時が来て、その封印がとかれ、人びとの前に明らかにされたのだ、という筋書きになっているわけです。



(3)寓話と象徴

ユダヤ黙示文学とは、このように、未来に関する予言の本ではなく、実質的に、現実の支配者・権力者批判であるわけですから、明らかな様で、具体的な名前を使って批判することはできません。そのため、支配者・権力者たちを象徴するものとして、夢の中にあらわれた動物を語る、いわゆる、寓話物語として展開されています。

  二日目の夜、わたしは夢を見た。見よ、一羽の鷲が海から昇って来た。・・・更に見ていると、見よ、鷲はその羽を使って飛び、地とそこに住む人びとを支配した。わたしは、天の下のものすべてが、鷲に従っている有様を見た。誰も、地上にある被造物のうち一つとしてこれに逆らうものがなかった・・・。

(エズラ記第二書11)

おそらく、現実の権力者・支配者の検閲や非難をさけるために、このような手法を選んだのだと思われますが、寓話物語が黙示文学に利用された事実にはもう一つの理由が考えられます。それは寓話のあいまいさです。もともと、未来に何が起こるかを予測することではなく、敵が滅んで欲しいという作者の願望を描くのが目的でですから、その目的が、いつどのように起きるのか、という予言として肝心な部分は、すべて、おそろしくあいまいに書かれています。下手に具体的に書いてしまうと、作り話であることがすぐばれてしまい、権威を失ってしまうおそれがあるからでしょう。寓話は、その辺のところをあいまいにするのに都合の良い文学的手法であると言えます。結果として、年がら年中、読む者をして「今がそうではないか」と思うことができるような、そんな物語に出来上がっています。



(4)幻

ユダヤ黙示文学はこのように(未来のできごとを記す)歴史書ではなく、宗教的・政治的創作作品なのですが、その創作のなかの登場人物も、未来のことを幻の中で見る、という形式を持っています。

ペルシャ王キュロスの治世第三年のことである。ベルテシャツァルと呼ばれるダニエルに一つの言葉が啓示された。この言葉は真実であり、理解するのは非常に困難であったが、幻のうちに、ダニエルに説明が与えられた。そのころわたしダニエルは、三週間にわたる嘆きの祈りをしていた。一月二十四日のこと、チグリスという大河の岸にわたしはいた。目をあげて眺めてみると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆のこえのようであった。この幻を見たのはわたしダニエル一人であって、共にいた人びとは何も見なかった・・・。

(ダニエル書 10:1-7a)

都の陥落後三十年目のこと、わたしサラティエル、すなわちエズラはバビロンにいた。わたしは寝床に伏していて胸騒ぎを覚え、さまざまな思いが心をよぎった。それは、シオンの荒廃とバビロンに住む人たちの豊かさを見たからである。わたしの霊は激しく揺り動かされ、わたしはいと高き方に恐る恐る話しかけた。・・・すると、わたしのもとに遣わされたウリエルという天使が答えた・・・。

幻や夢という手法が黙示文学に使われているのには、少なくとも三つの重要な要因が考えられます。先ず第一に、権力関係を獣の間の戦いとして描く寓話という文学形式にとっては、夢や幻はきわめて自然な手法です。獣が人間のように言葉を発したり行動したりしても、幻や夢の出来事として描けば不自然がありません。第二に、現実のわくにとらわれず、夢や幻では作者が自由にこころに思ったことを描くことができます。歴史的事実や現実的予測に反して、自分たちの願望(敵の滅亡)がかなえられる物語を描くには、幻や夢は非常に便利な手法です。第三に、幻や夢は、作者の主張は神からの啓示(黙示=秘められていることが明らかにされる)である、と思わせるのに、とても便利な手法だからです。おそらく、これらの理由で、黙示文学のほとんどすべては、幻や夢の中の啓示、という筋立てになっているのだと考えられます。




4 予言と祈りと願望

興味深いことに、黙示文学の「予言」には、しばしば、「祈り」がいっしょに同居しています。「敵は滅ぶであろう」という勇ましい表現と同時に、「神よ、どうか敵を滅ぼしてください」という祈りが、一緒に書かれています。

主よ、ごらんください。かれらの間にダビデの子なる王[メシヤ]を立ててください。
神よ、かえりみて、この王にあなたの僕イスラエルを治めさせてください。
彼に力を与えて不義な支配者たちを滅ぼさせ
エルサレムを撃って踏みにじる異邦人から、都を清めることができるようにしてください。

彼は知恵と義とをもって、罪人らを嗣業から追放し、
罪人らの誇りを、陶器師の器ものを砕くように打ち砕く
鉄の杖をもって彼らをことごとく粉砕し、
その口の言葉をもって、神を信じない諸国民を滅ぼす。

・・・どうか主がはやくイスラエルを憐れんでくださるように。
また汚れた敵の汚れからわたしたちを救ってくださるように。

(ソロモンの詩編17:23-51より、『原典新約時代史』、p.716)

同じ内容の「予言」と「祈り」が同居している事実は、黙示文学における「予言」なるものの正体が、実は、「敵が滅びて欲しい」という作者の願望の一つの表現方法にすぎなかったことをもっとも端的に示しています。




結論

ユダヤ教における黙示的終末思想とは、とおい未来に関する予言ではなく、現実の圧政者を弾劾するための、虚構の物語でした。それは、世界が崩壊するという物語ではなく、圧政者たちの支配の時代が終わり、ユダヤ人たちに永遠の平和がおとずれる、という彼らの期待を描いた物語でした。それは、歴史的予測を描いたものではなく、圧政に苦しむ彼らの現実的な祈りであり、つよい願望の表出でした。

しかし、この思想には、ユダヤ教という特殊な宗教を超えて、ひろく多くの人びとを魅了するいくつかの要因がみられます。それは、まずなによりも、敵が滅び自分たちの時代がやって来ることがすでに決定している、という考え方にあります。それはとくに抑圧され、差別される少数派に受け入れられやすい思想です。しかも、その実現が、地道な努力の結果おとずれるのではなく、超自然的な力で一気になされる、つまり、苦しく面倒くさい努力はしなくてもよい、というところにあります。理想(敵の消滅)が信仰だけで実現する、つまり、自分たちのもっとも欲しいものがタダで手に入る -- これほど魅力的な思想は、他にあまりありません。ここに終末思想がいつの時代でももてはやされる理由があるように思われます。