こんにちわ。

世界中に様々な歴史、言語がある様に当然のごとく聖書も時代、言語によって たくさんの種類があります。 しかも聖書の原本はこの世に存在してません。

どの聖書をもって、正しいとするかそれすらも怪しいのに、日本語になる前に 何回翻訳されているかわからない上に無理矢理日本語にするためにどれだけ 意訳があるかすらもわかりません。 同じ日本語版の聖書でもブドウのマークとかいろいろありますね。 それらがどれも一字一句間違えがなく発行されているならまだしも、違っている んですよね。

早い話が原本が無い現在、本当に正しい聖書は「無い(誰にも判断できない)」 のです。

原本を読んで矛盾点を突くのはいい!?かも知れませんが、どう翻訳されている か怪しい日本語の聖書の矛盾点を突いても意味が無い事なのではないのでしょ うか? 日本人らしい言葉遊びに思えて仕方ありません。

なんか批判めいた事を書いてしまいましたが、私自身無宗派ですが(キリスト教 のかどうか知りませんが)神の存在は信じてますし、キリスト教はおかしいとも 思っていません。 聖書(やコーランなど)の研究はこれからもずっと続けていくつもりです。 つまらない詮索はなしにしたいですね。(本気で信じている人たちに失礼ですから)

それでは。                  


(1)聖書の原本について 聖書の原本でなく、写本や訳本を批判することは無駄である、というご意見ですが、同じようなご意見を沢山いただいており、安田さんでもう五人目です。この問題に対するわたしの考え方は、最初にこの問題を提起された久保有政さんへの応答の中で(「主張5 訳本間の意味の違い」への回答に対するわたしの見解において)すでに述べさせていただいています。また、河村さんへの応答の中には、この問題に関するわたしの考えのより詳しい説明を追加掲載しております。安田さんのご意見も、他の4人の方の意見とまったく同じ種類のものであり、何も新しいことは述べられておられないようですので、そちらを参照していただきたいと思います。

この、聖書の原本でなく、写本や訳本を批判することは無駄である、という主張は、一部のファンダメンタリストと呼ばれている人たちによって主張・宣伝されているものですが、この主張・宣伝にに対して、いかなる個人的な考察も加えることなく、投稿された五人が五人とも、まるでロボットかオームのように、それをそのまま、ここで繰り返されているのが、とても残念です。なにか、一歩踏み込んだ、もっと個性的な解釈や分析や発展が見たいものです。

(2)翻訳本について

わたしの聖書研究が、ことさらに、翻訳に基づいている理由については、「作者より狸さんへ」で述べております。

もし、神の言葉が翻訳によっては伝承されないとすると、聖書を中心とするキリスト教は絶望的な 宗教であると言わねばなりません。そもそも、イエスやその弟子たちはアラム語を語ったのに、新約聖書は 初めから外国語(ギリシャ語)で書かれたわけですから。キリスト教は最初から翻訳語をその聖典の言葉と した「翻訳宗教」です。この意味においても、原語か翻訳かという問題は、とくにキリスト教にとっては、 それを致命的問題とするわけにはいかない事情があります。

(佐倉哲「作者より狸さんへ」より)

というわけです。そちらを参照して下さい。

(3)その他

神の存在は信じてますし、キリスト教はおかしいとも思っていません。
ただ、ポツンと、何の文脈もなしにこのように言われても、困惑してしまいます。たとえば、どんな根拠で神の存在を信じておられるのか、くわしく説明でもしていただけたら、せっかく、本サイトに来訪してくださる方にも、無駄ではなかった、と感謝されることでしょう。

また、「キリスト教はおかしいとも思っていません」と言われておりますので、わたしがどこかで、キリスト教は「おかしい」と言っていると思われているのでしょう。もし、そうでしたら、具体的に、わたしのキリスト教に関する意見のどの部分を指して言われているのか、また、どこがどのようになぜ、わたしの意見とは違うのか、などについて語っていただければ、とても嬉しいです。ただ、「キリスト教はおかしいとも思っていません」、などと世界に発表していただいても、わたしは困惑するばかりです。

つまらない詮索はなしにしたいですね。(本気で信じている人たちに失礼ですから)
とは、いったいどういう意味なのでしょうか。「つまらない詮索」とは、具体的に何を指しているのでしょうか。いただいた文脈からだけではまったく確定できません。

この次は、もう少し具体的に書いていただくと、嬉しいです。