頌主

 貴サイトを読ませて頂きました。聖書には間違いや矛盾があるという御主張 ですが、私はそうは思いません。  私は月刊レムナントという福音伝道誌を出版しており、これまで何度かこう した問題を扱ってきましたので、その幾つかをこのメールに入れてお送り致し ますので、もしよろしければお読み下さい。

 貴兄に主の祝福がありますように。

平安

レムナント出版 久保 有政
Arimasa Kubo
Remnant Publishing (Japan)
E-mail remnant@mxa.meshnet.or.jp
URL http://www2.meshnet.or.jp/~remnant/

(以下はレムナントの記事より)

聖書は矛盾していない
「聖書は矛盾している」という主張に反論する。

主張1 カインの妻

 「創世記には、『カインは妻を知った』(四・一七)と書かれているが、当 時人間はアダムとエバ、そしてカインの三人しかいなかった。アベルは死んで 、すでにいなかった。だからカインが妻を得たというのは、聖書の矛盾ではな いか」。

回答

 アダムとエバは、はじめにカインとアベルを生みましたが、アベルの死後、 セツを生みました。そしてセツの後も、多くの息子、娘たちを生みました。  「アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ」(創世五 ・四)  と記されています。アダムとエバは、神の「生めよ。ふえよ。地を満たせ」 (創世一・二八)のご命令に従い、この「八〇〇年間」に多くの息子、「娘た ち」を生んだのです。彼らは地の表に増え広がっていきました。

当時は聖書によれば、人々は長寿であり、多くの人々はしばしば一〇〇歳前後 、または数百歳でも結婚し、子どもを生むことができました(創世記五章)。  したがってカインは、自分の妹たちの中から、彼女たちが成人したのちに妻 を得ることが可能でした(あるいは姪)。この点で、聖書は全く矛盾していま せん。  

また、カインの妻が彼の妹だとすると、「それでは近親結婚ではないか」と 非難する人もいるでしょう。しかし、人類の創始期においては、近親結婚は何 ら問題がありませんでした。  なぜなら、今日、近親結婚が禁止されているのは、遺伝子エラーの問題があ るからです。子どもは両親から遺伝子を一つずつもらいますが、そのとき遺伝 子の片一方にエラーがあっても、もう一つが正常なら、そのエラーを補って正 常な子どもが生まれます。  けれども、両親が近親の場合、遺伝子の同じ箇所にエラー(欠陥)がある確 率が高くなります。そうなると障害者が生まれるので、近親結婚は好ましくな いとされているのです。  しかし、人類の創始期においては、アダムとエバの遺伝子は完全でした。ま たその後もしばらくはそうであったので、遺伝子エラーの問題は全くありませ んでした。  したがって当時は、近親結婚は何ら支障がなかったのです。また、カインが なしたのが近親相姦≠ニいうような姦淫的行為ではなく、恋愛をもとに愛し 合ってなした近親結婚≠ナあったならば、なおのこと道徳的にも全く問題は ありませんでした。  しかし、人間に罪が入って以来、世代を重ねてしばらくたつと、遺伝子エラ ーの問題は次第に大きくなってきました。そのため、近親結婚はモーセの律法 の中で禁止され(レビ一八・六〜一八)、また今日の多くの国々の法律でも禁 止されているのです。


主張2 二つの天地創造伝承カインの妻 二つの天地創造伝承

 「創世記には、天地創造に関する話が二つ記されている。一つは創世記一章 のものであり、もう一つは二章のものである。この二つの天地創造の話には矛 盾がある。  たとえば、一章では人は第六日に造られているが、二章では第七日のあとに 造られている。また、一章では動物のあとに人が造られているが、二章では人 のあとに動物が造られている」。

回答

 創世記一章と二章の内容は、矛盾していません。  二章は、一〜三節までと、四節以降の二つの部分に分けられます。  一〜三節は、天地創造の第七日について記していますが、これは内容的には 、一章における天地創造六日間の記録に続くものです。一章と二章三節までは 一つのものなのです。  

一方、二章四節以降は、神の天地創造を述べながら、とくに創造第六日の人 の創造に関して詳しく記した記事となっています。  「これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造ら れたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出し ていなかった。……その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻 にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。……  神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼の あばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は 、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げられた」(二・四〜二二) 。  

これは、一章では述べきれなかった創造第六日の人の男女の創造を、詳しく 記したものです。  

同様に、二章では人の創造のあとに動物が造られているという主張も、読み 違いです。  「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたと き、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られ た」(二・一九)。  この記述は、人の創造後に動物が造られたと述べているのではなく、すでに 造られていた動物たちが、人の創造後になって「人のところに連れて来られた 」と述べているに過ぎません。  

このように創世記一章と二章の間には、何ら食い違いや矛盾はありません。 二章は、一章の一部分を詳しく記したものです。


主張3 イエスの系図

 「マタイの福音書一章とルカの福音書三章には、イエス・キリストの系図が 記されているが、その内容が互いに異なっている。これは聖書の矛盾ではない か」。

回答

 マタイの系図とルカの系図とでは、確かにダビデからヨセフに至る部分の系 図が異なっています。マタイの系図では、

 ダビデ──ソロモン……ヤコブ──ヨセフ──イエス
 であり、ルカの系図では、
 ダビデ──ナタン……ヘリ──ヨセフ──イエス
 です。この「ナタン」は、ソロモンの兄弟です(Uサム五・一四)。つまり 、ダビデ以降、別の系統を記しています。しかし、これを「矛盾」と考える必 要はありません。  これに関して、二つの場合が考えられます。一つは、マタイの系図はヨセフ の家系を記したものであり、ルカの系図は、マリヤの家系を記したものだ、と いうことです。

 ルカ三・二三には、  「イエスは…人々からヨセフの子と思われていた」  とありますが、イエスは人々からはヨセフの子と思われていたが、ルカはイ エスの系図を記す際には、実際にはヨセフの系統ではなく、マリヤの系統を記 したのではないか、ということです。

 もう一つの場合は、ヘリはヤコブの親戚であり、ヤコブが子のないうちに死 んだため、その家系をたやさないためにヤコブの妻をめとり、その間にヨセフ が生まれた、という場合です(または、ヤコブとヘリの立場が逆)。

 このように、誰かが子のないうちに死んだ場合、その死んだ者の妻を親戚が めとるというのは、旧約聖書の律法で命じられていたことでした(申命二五・ 五)。それはイスラエルでは、ごく普通に行なわれていたのです。  このような場合、ヨセフと血のつながりのある父はヘリですが、律法上の父 は死んだヤコブでもあったのです。とすると、マタイの系図もルカの系図も、 両方とも正しいわけです。

 このように、マタイの系図とルカの系図の違いの背景として、二つの場合が 考えられますが、どちらの場合であっても、これを矛盾と考える全く必要はあ りません。


主張4 復活の記事の相違?

 「イエス・キリストの復活の記事が、福音書間で異なっている。たとえばマ タイやマルコの福音書では、女たちはひとりの天使に会っているが、ルカの福 音書では女たちはふたりの天使に会っている。これは矛盾ではないか」。

回答

 これは矛盾ではありません。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書にあ るイエス・キリストの復活の記事を総合すると、出来事は大体次のように起こ ったと考えられます。

 週の初めの日の朝早く、二組の敬虔な女たちが、イエスに最後の葬りの油を 塗ろうとして、墓に行きました。

 第一組はマグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、サロメです。また第二組は 、ヨハンナと他の女たちであったと思われます(マコ一六・一、ルカ二四・一 〇)。

 第一組の女たちは、墓石がのけてあるのを見ました。マグダラのマリヤは体 が盗まれたのだと重い、ペテロやヨハネにそれを知らせに戻りました(ヨハ二 〇・一〜二)。

 残りの女たちは墓の中に入り、ひとりの天使から復活の事実を知らされ、ま た弟子たちへのメッセージを託されました(マタ二八・一〜七、マコ一六・一 〜七)。

 急いで帰る途中、彼女たちは第二組の女たちに会いました。そこで皆は、も う一度墓に帰りました。そして、ふたりの天使から、再びより強い復活の保証 と指図を受けたのです(ルカ二四・一〜八)。

 女たちは今度は、すぐに町へ急ぎましたが、その途上でイエスが現われまし た(マタ二八・九、一〇)。それから彼女たちは、使徒たちのところに帰り、 自分の見聞きしたことを伝えました。

 その間に、マグダラのマリヤはいち早くペテロとヨハネのもとに行っていま したが、彼女の知らせを受けたペテロとヨハネは、墓に走って行き、その事実 を確かめました(ヨハ二〇・三〜一〇)。

 マリヤは墓に遅れて着き、ペテロとヨハネが園を出てからも、そこに残りま した。その時、イエスは彼女にも現われたのです(ヨハ二〇・一一〜一八)。

 イエスはその後、ペテロ(ルカ二四・三四、Tコリ一五・五)、またエマオ 途上の二弟子に現われました。その夕には、トマスを除いたほかの弟子達にも 現われたのです(ルカ二四・三六〜四三、ヨハ二〇・一九〜二三)。

 このように、四福音書を総合してみると、主イエスの復活の記事に矛盾はな いことがわかります。


主張5 訳本間の意味の違い

 「聖書には間違いがないというが、訳によって、意味が多少違うことがある 。たとえば口語訳と、新改訳、また新共同訳等の間で、意味が違う場合がある 。これは矛盾ではないのか」。

回答

 キリスト教においては、聖書は「原本において」誤りがない、と信じられて います。  誤りがないと信じられているのは、神の霊感を受けて書かれた聖書の「原本 」だけです。写本や訳本には、誤りがあり得ます。

 写本の場合は、人間的な写し間違いであったり、訳本の場合は、意味の取り 違い、あるいは翻訳上のミスなどです。  したがって、訳本間の意味の食い違い等を指摘して「聖書にも誤りや矛盾が あるじゃないか」と主張する議論は、的外れなものです。

 聖書の原本は大昔に書かれ、写本を通して伝えられてきました。これは原本 はパピルスや羊皮紙に記されたので、時間がたつと、もろくなり、どうしても 写本をつくる必要があったからです。  写本には誤りがあり得ますが、それでもユダヤ人は非常な厳密さをもって写 本をつくってきました。そのため、その正確さは比類ないものです。  またこの写本をもとに、様々な国の言葉への訳本が造られました。この際も 、聖書学者は細心の注意をもって、翻訳作業をしています。

 訳本の間で、しばしば意味が若干違う場合があるのは、原語の意味をより正 確に言い表そうとする努力のあらわれと見るべきでしょう。私たちは幾つかの 訳本の訳を参考にしながら、原語の意味を探る必要があるのです。

 聖書の原本は今日はすでに存在せず、最も古い写本も存在しませんが、私た ちが今読んでいる聖書は、ほぼ原本の内容そのままでしょう。そこには神の守 りがあったのです。


主張6 太陽の創造

 「創世記一章で、光は創造第一日に造られ、太陽は創造第四日に造られてい る。つまり、第一日には太陽という光源がまだなかったのに、光が輝いたこと になる。これは矛盾ではないか」。

回答

 これは矛盾ではありません。

 たとえば今日の科学者は、太陽の起源を語る際に、まず最初に熱せられたガ ス体として光を放つ原始太陽ができ、それがのちに収縮すると、核融合によっ て光を放つ現在のような太陽が形成された、と考えています。  つまり、太陽の起源を二段階で語っているのです。はじめに原始太陽は、熱 っせられたガス体として光を放ち、次に核融合が始まって、安定した光を放か つ太陽になりました。

 したがって創世記一章で、創造第一日に光が発せられるようになり、第四日 に太陽が形成されたというのも、このような状況であったとも考えられます。 第一日のは原始太陽のものであり、第四日のは核融合による太陽の形成でしょ う。

 実際、創世記一・一六の太陽を「造られた」という言葉は、原語ではすで にある材料を用いて何かを作る≠ニいうような場合によく使われる言葉です。  それは無からの創造というよりは、すでに存在していた原始太陽を、現在の ような核融合によって光を放つ太陽に形成された、という意味にとれるのです (レムナント出版発行『科学の説明が聖書に近づいた』パート1に、さらに詳 しい解説があります)。


主張7 マルコ一六章

 「マルコ福音書の最終章である一六章は、本来八節で終わっていた。九節以 降はあとでつけ加えられたものである。だから、キリストの復活の記事は信用 できない」。

回答

 たしかに、現存する最も権威ある写本によれば、マルコ福音書一六章は八節 で終わっています。九節以降は、二世紀になってから追加された文章であるこ とが明らかです。

 しかし、一〜八節も、キリストの復活を語っている文章です。ですから、九 節以降が追加文であるからといって、キリスト復活の記事の信用性を否定する 理由にはなりません。

 一〜八節をよく読んでみると、どうみても八節で終わるのは不自然です。天 使が墓に現われて、イエスは復活されたと女たちに告げているというのに、イ エスがご自身を人々に現わされた記事にまでは及んでいません。

 この不自然な終わり方から見て、マルコの福音書の原本には、本来は九節以 降もあったと見るのが自然でしょう。しかしそれが何らかの理由で失われたの で(たとえば原本は巻き物なので端は破損しやすい)、のちに新たに九節以降 が補われたと考えることができます。  しかし、あとで補われたその九節以降も、イエスの復活の事実を実際に見聞 きして知っていた人たち、または、イエスの復活の事実を確かに把握していた 人たちによって追加されたことでしょう。

 実際、マルコ一六章九節以降の復活の記事は、マタイ、ルカ、ヨハネ福音書 の記事と何ら矛盾するところはなく、私たちはその内容に信頼を置いてよいの です。  あるいはまた、原本で失われていた九節以降がのちになって発見されたため 、以後の写本には九節以降が追加されたのだ、という場合も考えられるでしょ う。

 いずれにしても、マルコ一六章九節以降がのちの追加文ではあっても、キリ ストの復活の記事の信用性に疑義をさしはさむ理由はありません。

 ほかにも、聖書に反対する人々が「これは聖書の矛盾だ」と主張しているも のはあります。しかし、いずれのものも、理にかなった説明をすることが可能 です。

 一見、表面的には矛盾のように見えても、その前後関係や、背景等をよく調 べてみると、じつは矛盾ではないことがわかってきます。  人間的な考えで聖書を読んで、矛盾があるように誤解して聖書を間違った書 物のように考えることは、つまらない過ちです。私たちは、「聖書には矛盾は ない」と信じてよいのです。

聖書には矛盾があるように見えるけれど、実際はそうではないのだ、というご意見をいただきましたが、このうち、「カインの妻」と「イエスの系図」に関するもの以外は、わたしも本シリーズにおいても言及し、聖書の間違いの例としてあげていますので、いただいたご意見のうち三つは、対応するわたしのページ(「二つの天地創造物語」、「太陽の創造」、「なぜマルコ16章は信頼できないか」)に追加掲載し、わたしの応答もそれらに追加しました。「復活の記事の相違」に関しては、わたしはいくつかの別のテーマに分けて扱っていますので、それらとは別に、あたらしく「復活物語の調和化」というページを設け、久保さんのご意見を考察しました。

以下では、「訳本間の意味の違い」に関して、わたしの意見を述べさせていただきます。

誤りがないと信じられているのは、神の霊感を受けて書かれた聖書の「原本」だけです。写本や訳本には、誤りがあり得ます……。したがって、訳本間の意味の食い違い等を指摘して「聖書にも誤りや矛盾があるじゃないか」と主張する議論は、的外れなものです。
聖書の誤謬が指摘されるとき、間違いは、写本や訳本にあるのであって、原本に誤りはない、という護教的主張はよくなされます。他にも、投稿者の中にはこの点について言及されておられる方々があります。
佐倉さんの理論展開、引用はすべてすべての聖書が一語一句の 間違いもなく、すべて正しいと考えている方にしか適用できません。 なぜなら、『原書は正しく、間違いはない』といわれればそれで終わり なのです。(沖広鍋勝さん)

「聖書の原本は聖霊の導きによって記述されたが、写本の段階で写し間違いが生じた」という抗弁がまかり通ることになります。そうすると佐倉さんの「聖書は神の言葉であるから、いかなる誤謬も含まないという主張を批判・検討する」というものは、無意味な行為と替わらなくなってしまうだけです。(platon さん)

原本は存在せず、聖書批判は写本や訳本に対する批判ですから、「聖書が正しいとは、原本が正しいといことである」という考え方をすれば、すべての聖書批判はムダとなり、聖書信仰は安泰である、というわけです。

ところが、このきわめて短略的な考え方は、聖書批判をかわすための一時的な、なぐさめとなっても、長続きしません。なぜなら、もし、原本は神の言葉であるが、わたしたちに伝わってきたものは神の言葉ではない、ということになれば、現実生活における聖書信仰、つまり、聖書信仰を土台にした宗教生活は不可能となってしまうからです。聖書批判者が相手にする聖書も写本や訳本ですが、聖書信仰者が日々相手にする聖書も写本や訳本だからです。したがって、一方では、聖書批判者に対しては

誤りがないと信じられているのは、神の霊感を受けて書かれた聖書の「原本」だけです。写本や訳本には、誤りがあり得ます。
と言っておきながら、自分自身や信仰仲間たちに対しては、結局は、
聖書の原本は今日はすでに存在せず、最も古い写本も存在しませんが、私たちが今読んでいる聖書は、ほぼ原本の内容そのままでしょう。そこには神の守りがあったのです。
と、告白せざるを得ないのです。

もちろん、比べるべき原本がないのですから、「私たちが今読んでいる聖書は、ほぼ原本の内容そのままでしょう」などという主張は、まったく根拠のない希望的空想にしかすぎませんが、そこには、原本と写本の間に、護教用の「溝」を造ることが、聖書信仰にとって自分の首を締める行為であることが、示されています。

聖書批判は、誰も知らない原本を対象にしても何の役にもたちません。聖書批判は、わたしたちの現実の宗教生活の中で使用する聖書を対象にするから、役にたつのです。そして、原本がどうであれ、わたしたちに伝わってきた聖書に間違いがあれば、聖霊は、神の言葉を伝達するために、あまりよく働かなかったと言わねばなりません。