佐倉様こんにちわ、T&MさんはじめましてTakeと申します。佐倉さんの聖書の間違いへの投稿です。

しばらくぶりにSiteを読ませて頂きました。何度読んでも豊富な情報を理路整然と分析されていることには、本当に感服いたします。

「殺せ!と神が命ずる時」で貴兄が記しているのは旧約の部分でした。人間イエスに魅せられ、それが自分たちの救い主だった喜びを感じたものには、ただそれだけでキリスト教は殺戮の宗教といわれているようで釈然としません。

勿論、クリスチャンとして旧約が新約の元になったことは十分理解しておりますが、昨年11月にT&Mさんが“聖書が書かれた背景には厳しい自然と,破壊と殺戮の歴史があると思います。その中で育った人間がどのように「神」をとらえたのか,ということを聖書は語っているのだと思うんですが,いかがでしょうか?

旧約聖書の「殺せ!殺せ!」はもしかしたらイスラエルの民の心からの願いだったのかもしれません。先住民を駆逐して豊かな土地を自分達だけのものにしようという。イエスの奇跡物語には,その頃の人が何を渇望したのかがえかがれているように思います。”と言っているその言葉に僕も同意します。

新約にはそのような出来事は載っていません。僕はイエス様を通じて神様は「殺せ!」と言わないようになったと思います。もし「殺せ!」の声を聞いた、と言う人がいるのならそれは貴兄の言うような「思い込み」であって決して神の声ではないと思います。しかし、現在、宗教持つものの中に自分の信仰を偏った見方をして「思い込み」で自分の神様にそむいている人が多いと思うのは、間違った見方なのでしょうか?

聖書の中の間違いについて、僕はこう思います。例えば江戸時代の人にカラーテレビのことを書かせれば、本人は真剣にきちんと書こうと思っていても間違えてしまう。僕らの感覚、知恵を超えた存在の神の言葉は、如何に聖霊が下ろうが人間の書いたことですので完璧はないと思います。それは如何に神が正しくても、間違った人間のやることです。そしてそれを読むのも人間です。

ただ、理解できないにしてもカラーテレビがあることは事実です。分からないカラーテレビの前をガラクタと思い通り過ぎるか、何かある!とピンと来て立ち止まるか?の違いではないでしょうか?たとえが悪かったでしょうか?

いずれにしても江戸時代の人は(電気がないので)カラーテレビが使えません。でも、立ち止まった人はその物体に何か!を感じ、それが夢や希望や発見につながるのではないでしょうか?

何とかして自分の見たことを皆に伝えたい。たぶんカラーテレビを見た江戸時代の人の中からそんなことをしでかそうとする人がいます。それが物質でなく、心の問題となったら…。福音の希望はそんなようなもののような気がします。もっといいたとえをすればいいのかもしれませんが、残念ながら僕はこんな変なたとえ話しか出来ません。1%の希望が僕は救いであると思います。完全に理解していたら、それは救いでないと思います。僕はキリスト教はその1%に賭ける価値があると思います。

本当に変なたとえで申し訳ありません。それと勝手にT&Mさんの発言をお借りしてしまいました。貴兄にメールを送ると同時にCCでT&Mさんにも送ります。もし、T&Mさんの方でNGでしたら、ごめんなさい、これは3人だけの会話とさせてください。

T&Mさんには突然のメール失礼しました

1.新約聖書は「血の復讐」を予言しています

旧約聖書の「殺せ!殺せ!」はもしかしたらイスラエルの民の心からの願いだったのかもしれません。先住民を駆逐して豊かな土地を自分達だけのものにしようという。・・・新約にはそのような出来事は載っていません。
そんなことはありません。ほとんどのクリスチャンがそうであるように、Takeさんも、聖書のつまみ食いをされているのではないでしょうか。たしかに、ちまたでは、新約聖書は愛と許しの宗教だなどと宣伝されています。しかし、よくよむと、新約聖書は復讐の書であることが明らかになります。(カンナさんへ00年12月28日」を参照してください。

そして、そのことをまるで示すかのように、キリスト教の歴史は血の歴史です。キリスト教ほど他宗教や他民族を迫害した宗教は、人類の中でも見当たりません。アメリカ大陸の先住民はそのもっとも悲惨な犠牲者です。(「征服の踊り」)

キリスト教と異なって、ユダヤ人の歴史は迫害するよりはむしろ迫害された歴史です。また、ユダヤ人たちが自分たちの宗教を他民族に強制することはありません。


2.信仰の正体

分からないカラーテレビの前をガラクタと思い通り過ぎるか、何かある!とピンと来て立ち止まるか?の違いではないでしょうか?・・・立ち止まった人はその物体に何か!を感じ、それが夢や希望や発見につながるのではないでしょうか?
まったくその通りです。これは信仰というものの本質を告白したものと思います。「夢や希望や発見につながる」その「ピン」、まさにその「ピン」 -- 自分の救いに都合のよい、根拠のない思い込み --それこそが信仰の正体です。


3.どうやって「神の声」と「思い込み」を区別したのですか

もし「殺せ!」の声を聞いた、と言う人がいるのならそれは貴兄の言うような「思い込み」であって決して神の声ではないと思います。
Takeさんは、どのようにして、「神の声」と「思い込み」を区別したのですか。

聖書の著者は、たとえばつぎのように、「殺せ」という声は、「主(ヤーヴェ)」、すなわちイエスが「父なる神」と呼んだ、創造主の命令であった、と疑う余地のない明せきさで記しています。

彼らはしかし、人間をことごとく剣にかけて撃って滅ぼし去り、息のある者は一人も残さなかった。主がそのしもべモーセに命じられたとおり、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりにした。

(ヨシュア記11章14〜15節)

この聖書の記述によると、「主のしもべ」であるモーセもヨシュアも、「殺せ」という声を神の命令だと判断し、忠実にその命令にしたがったことになります。すなわち、この聖書の著者は、あきらかに、「殺せ」という声を神の命令だと判断しています。

聖書を神の言葉であると信じるクリスチャンはそのために、この聖書の立場を弁護して、殺人を正当化します。

ヨシュアとイスラエルの民は、神の直接の命令に従って行動したのであって、自分勝手な行動をしたのではありません。確かにエリコの壊滅はイスラエルの軍隊によってもたらされました。しかし、イスラエルの軍隊は単なる正義の道具にすぎないのであって、そこに住んでいた人々の罪を罰するために、全地上の最高裁判官である神によって使用されただけなのです。従って、彼らのやったことの正当性を疑う者は神の正義を疑うことになるのです。

(Norman Geisler and Thomas Howe, When Critics Ask, SP Publications, p138)

殺人の正当化は典型的なクリスチャンの立場です。

ところが、Takeさんによれば、「殺せ」という命令は、神の命令ではなく、モーセやヨシュアや聖書の著者の勝手な「思い込み」にすぎなかった、と言われるわけです。

聖書は「殺せ」という命令は神の命令であったと主張します。Takeさんはそれは神の命令ではなく聖書の著者の勝手な「思い込み」だと主張されます。どちらが正しいのでしょうか。聖書は神と直接対話するモーセの姿を描いています。それを否定するTakeさんは、どのようにして、「殺せ」という命令が神の言葉ではなく、単なる「思い込み」にすぎないと、判断されたのでしょうか。

お書きになっていることから想像してみるに、これこそが、あの「ピン」なのでしょう。

(なお、「神の声」と「思い込み」をいかに区別するかという問題については、Uchidaさんからの貴重なお便りをぜひ参照してください。)


4.問題の本質

「殺せ!と神が命ずる時」で貴兄が記しているのは旧約の部分でした。人間イエスに魅せられ、それが自分たちの救い主だった喜びを感じたものには、ただそれだけでキリスト教は殺戮の宗教といわれているようで釈然としません。
殺せ!と神が命じるとき」において、わたしの取り上げた問題の本質は、「キリスト教は殺戮の宗教」である、というようなことではありません。もう一度読み返していただきたいと思います。わたしの取り上げた問題の本質は、聖書を根拠にするにせよ、個人的な体験を根拠にするにせよ、「神の声」と「人間の思い込み」を区別することができると思う人間の思い上がりなのです。