私は現在福岡に住んでいる、普段は佐倉さんと同じコンピュータ技術者です。 妻と9ヶ月の長男、それに妻のお腹に3ヶ月の次男がいる、32才のパパです。 私の取り柄といえば、真空気功術という気功を独自に体得していることです。 気功といっても特に先生がいるわけではなく、神から直接指導を受けている といったらよいでしょうか。

私は仏教、キリスト教など宗教には一通り関心はありますが、佐倉さんのように 専門的に学んだことがありませんし、仏教の経典も聖書も走り読みしかして いませんので、本当は意見を言えるような立場ではないのですが、佐倉さん がなぜか気に入ってしまったので、メールを送ることにしました。

まず、神様について言えば、私にとっては神様はいつも身近に存在し、語らうこと ことのできる父親のような存在です。哲学的に議論するような存在ではなく、正し く“あってあるもの”なのです。神様は単純かつ慈愛に満ちていて、私と共に笑い、 共に喜びを享受しておられます。自我という存在がありながら、依存性も兼ね備え ているのです。神様が共におられるとき、私には何の思い煩いもありません。

次に、空について述べたいと思いますが、その前提として、仏陀はイエス・キリス トは私たちに何を求めたのでしょうか。 “生きることは空しい” ”あなたたちは煩悩(悪魔)から逃れることはできない。 ただ、仏(神)にすがって生きるしかない”と言ったのでしょうか。 私はたぶん、このように言っていると思います。 “あなたたちは、神(仏)によって生かされていることを知らなければならない。 神(仏)の愛(慈悲)を知り、その愛をあなたの親兄弟に実践すれば、神(仏) が共にあり、心に平安が訪れるであろう。神(仏)が共にあるとき、私自身が 天国(極楽浄土)であり、またその家庭が天国(極楽浄土)である。”

では、空について意見を述べたいと思います。

・旧約聖書の伝道の書、第1章2節に、 “伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である”というみ言があります。 が、ここで言う「空」とは一体なにを意味しているのだろうかと考えたことが あります。キリスト教では一般的には“空しい” と解釈されているのでしょうか。 、あえて私が感じる心霊の世界から解釈すると、この「空」は“愛”と表現するこ とができます。ここで言う“愛”とは、神様から与えられるあふれんばかりの愛です。 ですから、上記のみ言を私風に言い直すと、“ああ、大いなるかな神の愛。いっさいは神の愛のなかにあった”となります。

・旧約聖書の伝道の書、第3章10節に、 “わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせる仕事を見た。神のなされることは 皆その時にかなって美しい”と語っています。 自分に与えられた仕事を感謝して行なえば、苦労に見える仕事も楽しいし、 楽な仕事でも不平不満な心であれば苦労しかありません。佐倉さんのいうように 心のあり方ひとつで人生はばら色にもなり、灰色にもなるものだと思います。

最後に聖書は何を言わんとしているのか。 神様は、アインシュタイン博士が言っていたと思いますが、”単純明解な方です”。 ですから、旧約聖書創世記の2ページの中だけ見れば、その回答が得られます。 旧約聖書の創世記、第1章27節に、“神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに 創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ ・・」”

結論として、“神(仏)の愛を悟り、その願いにかなった夫婦となり家庭を築くこと” ではないかと思います。



再びKeizo Uchidaさんより

97年9月17日

佐倉さんのホームページを見るのはこれで3回目(2日前から)ですが、 いろいろ批判的な意見も多いようですが、私はそれを読ませていただいて、 キリスト教的考え方(これも各宗派によって異なるのかな)や聖書、仏教など 勉強しているところです。ですから、佐倉さんには大変感謝しています。

今、佐倉さんの「空の思想」の序論を読み終えたところです。「空」ひとつ とっても様々な思想があり、混乱の極みみたいですね。佐倉さんがやろう されていることは、とても有益であり、私も陰ながら応援したいと思います。 私が学生の時に、50才を過ぎたヘーゲル哲学の教授に”自由とは何ですか” とたずねたことがありました。しかし、その教授の回答はあいまいで、 抽象的であり、何も見出すことができませんでした。そのときに自由さえ よくわからない世の中なのかと幻滅したものです。

佐倉さんは、本当によく勉強されていますし、自分の意志がしっかりして いますので、私は好きです。 私は聖書も好きですし、仏教も神道も大好きです。日本の仏像を見ている と不思議な力を与えられることが多々あります。神社の神聖な雰囲気も 大好きです。私は宗教団体にはあまり関心がありませんが、神様を信じて いますし、神様と和合するのが何よりも楽しくあります。

ところで、「殺せ!と神が命じるとき」について、1つだけ言わせていただければ、 悪魔(サタン)を抜きして語ることはできないと思います。 ”神は実存するのか”とよく論じることがありますが、”悪魔は存在するのか”と いうことも重要なのです。私の回答はYESです。悪魔は神を語って人間を惑わす 張本人です。私もかつて、悪魔の試練を受けて人を本気で殺してしまいそうな 感情にさせられたことがありました。そのとき、私は自分を消そうしました。 イエス・キリストも仏陀も悪魔の試練を受けています。あれは実話に基づいている と思いませんか。

最近、日本では青少年の狂気的殺人事件が起きていますが、その青年たちは、 ”神がそう言ったのでやった”と言っています。あれは、悪魔が悪霊をもちいて 行なっていることです。悪魔を軽んじてはいけませんよ。

私は修行の身ではありますが、エクソシスト(悪魔払い師)の力を持っています。 修行といっても山篭もりしたこともありませんし、ふだんは冴えないコンピュータ エンジニアにしか過ぎません。これからもそうかもしれないですが・・ まあ、神様と毎日楽しく明るく修行しているところです。

こちらはすでに夜中の12時を過ぎてしまいました。私の妻はいつものように テレビの前で寝てしまっています。これから、妻をふとんまで運んでいっしょに 寝ます。私より妻の方が体重があるので、運ぶのは一仕事なのです。 おかげで私もゆっくり休むことができるので、そのような妻を与えて下さった 神様に感謝し、妻に感謝したいと思います。



(1)神様について

神様とは、父親とのように、語らい合う関係だそうですが、どのようなことを語り合うのですか。どのようなことを、神様と語り合ってこられましたか?とても興味がありますので、くわしく教えて下さい。


(2)悪魔について

悪魔が話題に上るのは初めてです。とても、興味深いテーマです。いろいろお聞きしたいのですが、まず、 どのようにして、悪魔が実在していることを知るように(あるいは信じるように)なられたのでしょうか。それを教えて下さい。

悪魔は、神が創造されたものですか、それとも、神が創造されたものではないのでしょうか。もし、神が創造されたのだとしたら、なぜ神は悪魔を創造されたのでしょうか。もし、神が悪魔を創造されたのではないとしたら、「すべてのものが神によって創造された」、という聖書の主張は間違っていることになりますが、聖書は間違っているのでしょうか。

殺せ!と神が命じるとき」で述べているように、そこにあげられた殺人例は、みんな、ヤーヴェ神からの命令ということになっていますが、Uchida さんは、モーゼは、神の命令に従ったのではなく、悪魔に利用されたのだ、と言われているのでしょうか。

以上、質問ばかりしましたが、時間がありましたら、教えて下さい。おたより、ありがとうございました。



再びKeizo Uchidaさんより

97年10月3日

(1)神様について

佐倉さんがDavid Ahnさんに神の存在について回答されている中で、ながいキリスト教遍歴をされたことを知って、その心情的苦労を思わずにはいられません。神を信ずる者は多いけれど、神と出会い、語らうことのできる者がほとんどいないのが現実です。私もたくさんの信仰者を知っていますが神様と身近に接することのできる人と出会ったことがありません。ですから、神を本当に知らなくても信仰できる人がすばらしく思えるのです。

前置きがながくなりましたが、神様と何を語り合うのかということですが、難しいことでは、日本の将来のことや現在起こっている事件の霊的原因についてですが、最近はあまり尋ねていません。知ることはできてもそのことに関して私自身責任を負えないからです。ですから、日常生活においてどうすべきか判断するとき、心のなかで尋ねます。そうすると、右手が動いて○や×を描くのです。簡単なことは心の声となって現れません。人の生命に関わること、悪霊に対するときには直接声となって指導することがあります。でも、私が本心で喜んでいるときに神様も喜んで会話に参加されて、私と共に笑うのです。そのときは漫才をしているような状態です。神様は人間とともに喜びを味わいたいと願っておられます。私の心に余裕がないときには、神様からのアクセスはありません。

(2)悪魔について

私は30才過ぎまでは霊的なことはあまり経験したことがなく、霊界の存在は信じていましたが実体験がありませんでした。なんとなく私を導いている存在がいるとは思っていましたが・・

私は結婚してすぐのときに、突然私の守護霊である謝ビンランという2千年前の人が私のからだに降りてきました。この霊人は今の雲南省昆明のあたりに住んでいた仙人(気功術師)で、神様と気功を通じて会話をしていたそうです。私はこのときから、霊的なことがだんだん分かるようになったのです。人のからだに獲り付いているさまざまな悪霊を供養する力を与えられました。そして、悪霊が悪霊となった背後に悪魔がいることを知ったのです。悪霊は自己中心的で愛情に非常に飢えています。ですから、悪霊にはそれぞれの苦しみに応じて愛情を注がないと成仏してくれません。

さて、本題ですが「悪魔は神が創ったものかどうか」は、答えはYESでありNOでもあります。悪魔は最も自己中心的で最も愛情に飢えています。ですから、悪魔自身は神は創造していません。神様は万物の創造に際してはじめに天使長を創造し天使達の創造と共に霊的世界を創造されました。悪魔は最初の創造物である天使長ルーシェルが愛を失って堕落したものだと確信しています。ですから、神様を真似ることは容易いことなのです。映画の「Oh!God3」は悪魔を知る上でわかりやすいのではないでしょうか。天使の堕落説は聖書研究家の中でもいくつかでできていたと思いますが、佐倉さんどうでしょうか?

モーゼが悪魔に利用されたかどうかですが、モーゼは神の言葉に従っています。悪魔との闘いにおいては、神様も人を殺すことを辞さないことも有りえます。バプテスマのヨハネが私たち人間を「まむしの子らよ。・・」と呼んでいるように神をわからなくなった人類は悪魔に属する者になります。その者たちから特定の人々を神様が用いようとするとき、殺すこともしかたない場合があるのです。

(3)その他(イエス・キリストの奇跡と復活)

イエスの服に触って病気が治った話をDavid Ahnさんの回答でしてますが、イエス・キリストの奇跡はたぶん気功を使って悪霊を追い出し、善なる気を送ることで病気を治したものだと思います。これは私も実際に行なっていることなので、経験によるものです。ですから、イエスが行なったことは奇跡ではなく、気をコントロールできる人間であれば、力の差はあれ可能なことです。ただ、イエス・キリストの力はたぶんものすごかったと感じます。また、イエス・キリストの復活は霊的な存在として、ある人物に入り込んで弟子達に現れたものだろうと推測します。だから、弟子達ははじめその人がイエスであると信じることができなかったのは当然のことです。このことも私自身が実体験しているので、間違いないだろうと思うのですが。



Uchidaさんのお話は興味が尽きません。一見、聖書の宗教から見ると、「守護霊」だとか「悪霊を供養する」などという、とても聖書の宗教とは思えないようなことがここで語られているのですが、わたしは、Uchidaさんのお話の中から、聖書について何か大切な事実が学ぶべるような気がしています。とくに、神が人に語る、ということについてです。通常クリスチャンは、神の言葉を聖書の中のみに限定していますから、神がかれらに何かを直接語るというようなことは考えられません。しかし、聖書を見ると、その著者たち(普通の人間たち)は、神が直接彼らに語ったことを、何の躊躇も疑いもなく、当たり前の出来事のように、繰り返し繰り返し述べています。彼らは如何にしてそのようなことを書き得たのか。それが長い間のわたしの疑問でしたが、Uchidaさんのお話を通して、わたしはこの問題を解くことができるかも知れません。少なくとも、その手がかりのようなものがつかめるかも知れません。

(1)神の声について

Uchida さんが聞かれるという神の声というのは、わたしたちが通常空気の振動を通して耳の鼓膜を振動させる音声ではなく、「こころの声」なのですか。もし、「こころの声」ならば、それが自分の思い込みではなく、神自身の声であると、どのようにして判断されたのでしょうか。これは、わたしがもっとも悩んだ問題のひとつなのです。是非、くわしく教えて下さい。また、「神様も喜んで会話に参加」されるそうですが、わたしが知りたいのは、神様がUchida さんに語られた具体的な神様の言葉そのものです。聖書の著者たちのように、できましたら、それをいくつか、直接引用で、是非教えて下さい。

(2)守護霊謝ビンラン

「守護霊である謝ビンランという2千年前の人」が降りてこられたそうですが、そのときの状況を詳しく語っていただけませんか。立っているときとか、歩いているときとか、眠っているときとか、いつどのように、降りて来られたのでしょうか。守護霊である謝ビンランさんは「霊」ですから、体もなく、無形なのでしょうか。それとも、体をもっておられて、Uchida さんが直接見ることのできるような方でしたか。謝ビンランさんが降りてこられるとき、たとえば霊とか気功とか信じていないような第三者にも、それが明白に認識できましたか。それとも、Uchidaさんだけにしか感得できない現象だったのでしょうか。もし、Uchidaさんだけにしか感得できない現象でしたら、それが単なる自分の思い込みではなく、客観的な事実であると、どのようにして判断されたのでしょうか。その判断の根拠となったもの、わたしはそれを知りたいのです。

(3)ルーシェル

「悪魔は最初の創造物である天使長ルーシェルが愛を失って堕落したものだと確信しています」、と言われていますが、どのようにして、それを「確信」するようになられたのですか。と言いますのは、「ルーシェル」などという名の天使は、聖書のどこにも登場しないからです。いったい何が、Uchidaさんをして、聖書に登場さえしない天使(あるいは天使かどうかもわからないもの)について、それほどの「確信」を持たせるようにさせたのでしょうか。そこのところを、ぜひ、くわしくお聞かせ下さい。

(4)神の殺人命令

すでに、他のところでも指摘したのですが、なんどでも繰り返して吟味すべき重要な聖書の物語なので、再び指摘しますが、「民数記」は次のようにモーセの命令を記録しています。

モーセは、戦いを終えて帰還した軍の指揮官たち、千人隊長、百人隊長に向かって怒り、かれらにこう言った。 「女たちを皆、生かしておいたのか。ペオルの事件は、この女たちがバラムにそそのかされ、イスラエルの人々をヤーヴェに背かせて引き起こしたもので、そのためにヤーヴェの共同体に災いが下ったではないか。直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。(中略) 」(民数記31:14-18)
このペオルの事件というのは、モーセに率いられたイスラエル人たちがシティムという所に滞在していたとき、その土地のミディアン人の女性たちが、イスラエルの民たちを食事に招いて、その地方の宗教であったバアル神を拝む儀式に参加させたことに端を発します。イスラエル人がこのようにして他宗教の神を拝んだので、イスラエルの神ヤーヴェは怒り、モーセに対して、イスラエルの「民の長たちをことごとく捕らえ、ヤーヴェの御前で彼らを処刑にし、白日の下にさらしなさい」と命じ、モーセは裁判人に対して、「おのおの、自分の配下で、ペオルのバアルを慕ったものを殺しなさい」という厳しい粛正を命じます。この災害で、2万4千人のイスラエル人が死んだと記録されています。それが、ペオルの事件とその「災害」です。(民数記25:1-9)

このため、イスラエルの神ヤーヴェは、モーセに次のように命令します。「ミディアン人を襲い、彼らを撃ちなさい。彼らは、おまえたちを巧みに惑わして襲い、ペオルの事件を引き起こした…」からだ(民数記25:17, 31:1-2)といいます。この神の命令に従って、モーセが、「あなたたちの中から、戦いのために人を出して武装させなさい。ミディアン人を襲い、ミディアン人に対してヤーヴェのために報復するのだ」(民数記31:3)、と命令して起きたのが、この戦争だったのです。

ところが、モーセの軍隊は女や子供は殺さないで帰ってきます。このため、「女たちを皆、生かしておいたのか」、とモーセは大変怒ったのです。それで、子供もすべて、男の子であれば、殺せ。女も、処女は自分たちのために捕虜にし、他はすべて殺せ。と命じたのでした。そして、分捕り品が山分けされます。

モーセと祭司エルアザルはヤーヴェがモーセに命じられたとおりにした。分捕ったもの、すなわち兵士が略奪したものの残りは、羊六十七万五千匹、牛七万二千頭、ろば六万一千頭、人は、男と寝ず、男を知らない女が全部で三万二千人であった。戦いに出た者の分け前は、その半数であって、羊の数は三十三万七千五百匹、その羊のうち、ヤーヴェにささげる分は六百七十五匹、…人は一万六千人、そのうちヤーヴェにささげる分は三十二人であった。…部隊の指揮官である千人隊長、百人隊長がモーセの前に進み出て、言った。「…わたしたちは、めいめいで手に入れた腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなど金の飾り物を捧げ物としてヤーヴェにささげ、ヤーヴェの御前に、わたしたち自身のあがないの儀式をしたいのです。」モーセと祭司エルアザルは、彼らから金の飾り物をすべて受け取った。それらはよく細工されたものであった。…モーセと祭司エルアザルは、千人隊長と百人隊長から金を受け取り、臨在の幕屋に携えて行って、ヤーヴェの御前に、イスラエルの人々のための記念とした。(民数記31:31-54)
このようなモーセの命令と軍事的行動は、わたしの目には、宗教的情熱によって正当化された、自分たちの宗教にだけ都合のよい、きわめて自己中心的な宗教戦争であり、また、強欲な略奪戦争としか、わたしには思えません。とくに何も知らない子供までも殺すのは、とても、許せない残虐行為だと、わたしには思われます。

しかし、同じようなことは、つい最近、日本でもおこなわれました。オウム真理教の教祖麻原彰晃とその弟子たちによると、坂本弁護士の家族を殺すのは、シヴァ神の命令で、そのままほっておけば、悪行を重ねて地獄に堕ちてしまうので、ポアすることによって、善趣へ転生させてやる慈悲の行為であった、といいます。そうして、ちいさな子供まで殺しました。

これもやはり、Uchida さんの言われるように、「神をわからなくなった人類は悪魔に属する者」になったのだから、たとえ小さな子供でも、神の立場から見れば「殺すこともしかたない」のでしょうか。それとも、オウム真理教の場合は、モーセの場合と異なって、悪魔にしたがったのでしょうか。もしそうなら、なにが、この二つの宗教殺人行為(あるいは、神と悪魔)を区別するものなのでしょうか。つまり、このように、(ユダヤ教やキリスト教やオウム真理教などの)教団の教理の都合で、罪のない幼児を殺す行為さえもが正当化されるとしたら、いったいどのようにして、Uchida さんは、何が「神の善」で、何が「悪魔の自己中心主義」であるかを、決定しておられるのでしょうか。是非、詳しく教えて下さい。

今回もまた、質問ばかりしてしまいましたが、Uchida さんは、神は(聖書に書いてあるように)実際に人に語るのだということや、神の命令ならば(聖書に書いてあるように)殺人も善である、という聖書の本質に関わることがら(そして、わたしの心をもっとも苦しめ続けた問題)について非常に率直に語っておられるので、もっともっと詳しく聞きたいのです。

おたより、ありがとうございました。



再びKeizo Uchidaさんより

97年10月27日

佐倉さん、お返事が遅くなってごめんさない。 最近、公私ともに忙しく、仕事で出張に出かけることが多かったり、町内の 運動会や気功による治療活動(精神修行を兼ねて)などしております。 佐倉さんの質問をいただいて、ここ5,6年読むことの無かった聖書を読み 直してみて、聖書の中で語られている神様やイエス様の愛を再び実感する ことができました。

今回わたしは、出張の合間にイザヤ書とヨハネの黙示録を重点的に読んで みました。ここに佐倉さんの質問に対する回答があると思ったからです。 イザヤ書とヨハネの黙示録を読んだのは、はっきり言って初めてではないか と思います。イザヤ書を読んでみると、神様の人間に対する深い愛情を感じ 取ることができますね。ヨハネの黙示録は、終末における人々の心のあり方 を感じ取ることができます。

(1) 神の声について

神の声は自分の心の中から聞こえてきます。自分の思い込みでないという 理由は、私の全く知らない歴史的な事実や人物の心情を教えてくれたり、私が精神的 に苦しんでいるときに慰めてくれたりします。また、私の妻に私の口を借りて私のこと を 上手に証してくれることもあります。(わたしと話し方が多少異なる) 佐倉さん、私の性格なのでしょうか、私は忘れることの天才であります。実は昨日のこ と さえ、きれいさっぱり忘れていることが多いのです。おかげで、恨みの心が残ることも ほと んどありません。 ですから、神様がわたしと日常的にどのような会話をしたか、 よく覚えて いないのです。わたしは神様から2、3ヶ月何の音信もないこともありますが、そのこ とさえ 特に拘っていません。自分の肉親と何ヶ月も連絡しないことだってよくあることだから 、神様 に対しても同じように感じているからです。 でも、何ひとつ覚えていないとなると、佐倉さんも わたしがうそを言っているのではと思われ るでしょうから、私の記憶に残っている会話をいくつか載せます。

・わたしが食器のかたずけをしていたときです。レンジの油汚れを取ろうと思ったとき に、
神様 「お前、そこの油汚れのところにまず石鹸水を落としてみろ。」
わたし 「神様、これでよいでしょうか。」
神様 「石鹸水を落とすと油汚れと反応して、油の表面が固まるようになるんだ。 次にママレモンをレンジの落として、ふきんか何かで拭けばきれいに落ちるぞ。」 わたし 「神様、ほんとうですね。神様は物知りですね。」
神様 「わたしは生活の神様でもあるんだよ。知らないことはないよ。」

・鏡についての神様の話。

神様 「おいお前、お前は鏡が昔から<神を象徴>してきた理由を知っているか。」
わたし 「知りませんが、なぜでしょうか。」
神様 「鏡は日本語で<かがみ>をいうだろう。これは、<神が見ている>という 言葉を縮めたものだよ。だから、鏡を通してわたしが見ているということだ。 鏡を見ると人は自分の心までを写し出されるように感じることがあるだろう。 人の目を見れば、その人の人格も見通すことができる。鏡もいっしょだよ。 だがら、古来より鏡を<神を象徴>とする宗教が多いんだ。」
わたし 「冗談みたいですけど、本当ですか。」
神様 「わたしだって、天的な冗談は使うんだよ。でも、納得するだろう?」

・宗教で右側(右手)を神側、左側(左手)を悪魔側と見ることについて、

神様 「お前は多くの宗教が右側を神側とする理由が分かるか。」
わたし 「分りません。何でですか」
神様 「キリスト教の讃美歌の中に<神の御手もうて・・>という言葉がよくででくる が、<神の御手もうて>というのは<神の右手でもって>ということを意味 する言葉なんだよ。だから右側が神側になるんだ。」
佐倉さん、神様との日常的な会話はこのような内容です。神様の摂理的な事柄に ついては、今後のお楽しみにしておいてください。

(2) 守護霊謝ビンラン氏

守護霊謝ビンラン氏との出会いは、わたしの妻との結婚を通してです。 具体的な状況については今は話せませんが、新婚初夜の出来事です。 わたしは長い間、自分の中に潜む善悪の二面性に苦しんできました。 そして、この問題を解決するのは結婚を通して、新生復活しなければ ならないと感じていました。そのためにわたしにあった啓示に従って、 特別の条件を立て実行したところ、謝ビンラン氏に出会いました。 わたしが悟った内容は、真言宗の開祖である空海が中国より持ち帰った あの『理趣釈経』に大きく関係しているのではと個人的に思っています。

謝ビンラン氏は霊ですが、わたしの体を使って、妻の前で真空拳の踊り (神を称える踊りで中国武術に似ている)を舞い、その場を清めました。 そして、わたしの妻に今から話すことを書き留め …[解読不可]…に言い、神様と イエス様の証を2時間余りしてくれました。そのときの内容は機会が あれば掲載したいと思いますが、いろいろと問題になるかもしれないので、 迷っているところです。 霊にはしっかりしたからだもありますし、もちろん無形でもありません。 ただし、通常に人間には見ることができない存在でもあります。実は わたしも霊視する能力はないので、全然見たことはないのです。ただし、 わたしはわたしの体内に霊を呼ぶことができるので、そのことがわかり ます。わたしの友人には霊視できる人が数人います。

(3)ルーシェル

ルーシェルという天使は、佐倉さんが言われるように確かに聖書の中に でできませんね。キリスト教では「ルシファー」とよんでいるのでしょうか。 以下の聖書にででくる黎明の子、明けの明星、龍と呼ばれる天使のことです。 わたしにとっては、この悪魔と悪魔の使い、悪霊が悩みの種であります。 たぶん、多くの信仰者にとってもこれらによって神様と親密な関係を結ぶこと のできない問題となっているのではないでしょうか。

イザヤ書14章12節より、
「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。 もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。 あなたはさきに心のうちに言った、 『私は天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、 北の果てなる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、 いと高き者のようになろう』。

ヨハネの黙示録12章7節より、
「さて、天では戦いが起った。ミカエルとその天使たちとが、龍と戦ったのである。 龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。そして、そして、もはや天には 彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか 呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落とされ、その使たち も、もろともに投げ落とされた。」

ところで、わたしが「ルーシェル」と呼んでいた天使は、一般的には 「ルシファー」であることがわかりました。わたしも佐倉さんに質問 されて気になっていたので、昨日大きな本屋さんに行って確認して きました。わたしが本屋に行ってみてびっくりしたことは、天使や 悪魔に関する本が非常に多く出版されていたことです。今の時代を 反映しているのかもしれませんね。 わたしは以下に示した本から「ルシファー」と呼ばれる大天使(天使 たちを治める長のこと)の一般的な知識を本屋で学びました。

本の題名『堕天使 悪魔たちのプロフィール』
著者 真野隆也 発行 新紀元社

索引名:ルシファー Lucifer --- 天から失墜する“明けの明星”

“悪魔の王”であることを誰もが認め、かつ自負するのがルシファー、 あるいはルシフェルと呼ばれる存在である。 この名前は「光をもたらす者」のラテン語で「明けの明星(=金星)」と いう意味を持っている。 キリスト教の伝承によれば、ルシファーはもともと神の右側に座ること を許されたもっとも信頼された大天使だったのである。 彼は光り輝き、周囲の天使たちを圧倒する美しさと勇気、そして気品に 満ち溢れていたのである。 ところが、彼の心に魔がさしたとでもいうのだろうか、神になりかわって 自分が王座に座ることを考えたのである。しかし、これを察した神は 激怒して天界からこの地に投げ落とされたとされている。 つまり、堕天使となったのである。その罪は傲慢である。

(4) 神の殺人命令

神様の摂理において重要なことは「純粋な血統」です。神様が何よりも 重要視していることは、「神の血統」を繁殖することなのです。 オペルの事件において、イスラエルの民がバアル神を拝む儀式に参加 したとありますが、バアル神は豊穣、多産、愛、快楽の女神で、その儀式 には堕落した祭儀を伴っていたと日本聖書協会の聖書の付録に掲載さ れています。ですから、神の血統を守ることのできなかった者はサタンに 属する者となるため、このような事件が起ったのです。 「女も、処女は自分たちのために捕虜にし、他はすべて殺せ。」とモーセが 言っていることの意味がわかるのではないでしょうか。 ユダヤ教に限らず、仏教、イスラム教、キリスト教など主要な宗教が淫乱を 最大の罪とするのは、純粋な血統を守るためなのです。 最近、世界的に淫乱(フリーセックス)の嵐が吹き荒れていますが、その結果 は家庭崩壊という、愛情に飢えた貧しい世界を造っています。 最近亡くなられたあのマザー・テレサが言われていた言葉に、 「貧しい国の飢えよりもっと恐ろしい飢えは、先進国家の愛情の飢えである。」という 内容を語っています。

ヨハネの黙示録19章1節より、 「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。 その裁きと真実で正しいからである。 みだらな行いで地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、 御自身の僕たちの流した血の復讐を、彼女になさったからである。」 また、こうも言った。 「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」
ここで語っている<あの大淫婦>とは、エバのことを言っています。
ヨハネの黙示録19章6節より(子羊の婚宴)、 「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。 わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。 子羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。 この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」
「わたしたちの神である主が王となられた。」という内容は、今まで サタンがこの世の君であり、終末において神様がわたしたちの主と なられるということではないでしょうか。

神様が願われる世界(天国)とは、上記のように神様を中心にして 夫婦がひとつとなった理想の家庭の実現ではないかと思います。 神様が一人男性であるアダムと一人の女性であるエバを創造された 理由はそこにあるとわたしは思うのですが、…[以下欠落]…



再びKeizo Uchidaさんより

97年11月5日

つい最近、ジョン・デンバーさんが飛行機事故で亡くなりました。 わたし個人としてジョン・デンバーさんにとても憧れていましたので 少し残念ですが、きっと神様が特別の使命を与えるために召された のだろうと思っています。

確か昨年の初夏頃だったと思いますが、神様が次のようなことを言われた ことを思い出しました。 “「Oh!God」シリーズの映画(Part([文字化け])でジョン・デンバーさんが主演)は わたし(神様)が霊界を導いて造った物だよ。あの映画を見れば、わたしの ことがよくわかるよ。わたしもわたしを理解しない人間のことでたいへん悲 しんでいる。お前(わたしのこと)は映画の中のジョン・デンバーのような 存在だよ。”

さて、神様がどのような時にわたしに語りかけてくるかというと、炊事場で 茶碗を洗っていたり、ふろ掃除をしていたり、洗濯物を干していたりする時 が多いようです。わたしは汚い物をきれいにして行く過程が大好きで、 このような時間はとても心がリラックスしているのです。心の中に何の思い もないので神様が相対しやすいのではないかと思います。

ところで最近のことですが、神様がわたしに宿題を出されました。 “物事の本質を見極めよ”という内容です。 わたしがこのことを考えるに、たぶんすべての事象にはある特定の法則が あり、その中核となるものが喜びと何らかの関係があると思うのですが・・ これ以上は模索中です。

神様が語られたメッセージの中で、わたしたちにとって最も重要な内容は、 “今は新しい時代に入っており、今までわたし(神様)は地上に直接役事 ことができなかったが、これから直接わたしが役事することができるように なった。わたしを受け入れる心があれば、わたしはその人と共に生き、 その人を通してわたしを証するであろう” ということです。

ですから、自分の中に勝手な神様の概念を造らず、特定の思想に捕らわれず 心が開放されている状態(受信アンテナを全開する)であれば、どんな人でも 神様と心を通わせることは可能であると信じています。 佐倉さんも一度自分の心を開放することも試みてはどうでしょうか。



(1) 神の声について

もし、神の声とは、心の中の声であるとすると、それが、神の直接の声なのか、それとも、わたしが神の声だと思ったにすぎないのか、その区別が大切だと思います。このことについて、Uchida さんは、次のように語って下さいました。

自分の思い込みでないという理由は、私の全く知らない歴史的な事実や人物の心情を教えてくれたり、私が精神的に苦しんでいるときに慰めてくれたりします。また、私の妻に私の口を借りて私のことを私の妻に私の口を借りて私のことを上手に証してくれることもあります。(わたしと話し方が多少異なる)
このなかで、「精神的に苦しんでいるときに慰めてくれた」とか「私の口を借りて」何かを語った、というようなことによっては、それが、はたして神の直接の声そのものだったのか、それとも、神の声だとUchida さんが思われたにすぎないのか、それを区別できるようにはわたしにはどうも思われないのです。

また、油汚れの話にしても、鏡の話にしても、ジョン・デンバーの話にしても、正直言って、どちらかというと、Uchida さんの単なる思いつきにすぎないように、わたしには思われます。他の人なら、「こういうことを自分は思いついた」とか、「ああいうことを自分は思いついた」というふうに語るところを、Uchida さんは、わざわざ「神がわたしにこう語った」というふうに解釈されているに過ぎないように思われるのです。ごめんなさい。どのお話の中にも、神の声と言われるものが、Uchida さん個人の思い込みではなく、神の直接の言葉であることを保障するものが、残念ながら、どこにも見当たらないのです。

しかし、Uchida さんの「全く知らない歴史的な事実や人物」について神が教えてくれた、ということがあったとすれば、そこには何か検証できるものがあるかもしれません。歴史上のどんな事実や人物について神からの直接の教えがあったのですか。もしよろしかったら、教えて下さい。


(2) 守護霊謝ビンラン氏

また、残念ながら、謝ビンラン氏の霊についても、正直言って、Uchida さんの思い込みに過ぎないように思われます。少なくとも、語られた内容には、やはり、それが客観的に検証できるようなものが見当たりません。ごめんなさい。しかし、「真空拳」についてもう少し知りたいのですが、なにかそれについての本などあるのでしょうか。


(3)ルーシェル・ルシファー

「ルシファー」にしても「ルーシェル」にしても、それは Lucifer というラテン語の音訳にすぎないので、どちらでもいいのですが、どちらにしても、Lucifer などという名前の天使は、聖書には(旧約聖書にも新約聖書にも)まったく登場しません。

わたしの理解によれば、「ルシファー」という言葉が、キリスト教の歴史に始めて登場するのは、西暦五世紀になってからです。つまり、ヒエロニムスが聖書をラテン語訳(The Vulgate)したとき、彼は、イザヤ書の14章12節にでてくる「輝く者(明けの明星)」を意味するヘブライ語「ヘレル(helel)」の訳として、ラテン語 Lucifer を使用したときです。

イザヤ書の14章12節における、

明けの明星、曙の子よ。
という表現における、この「輝くもの、明けの明星」を意味する「ヘレル(helel)」というヘブライ語も、また「曙=夜明け」を意味する「シャハル(shahar)」というヘブライ語も、古代カナンの神話の中に登場する神々の名前であることが知られています。したがって、上記のイザヤ書の表現は、直訳的には「シャハル神の子、ヘレル神よ」という意味でもあります。もちろん、イザヤ書の著者がそのような神々を信じていたわけはないですから、そういう古代の神話をモチーフにして、実は、バビロニア王国の衰退を嘲る歌を歌ったものです。
主(ヤーヴェ)が、あなたに負わせられた苦痛と悩みと厳しい労役から、あなたを解き放たれる日がくる。そのとき、あなたはバビロン王に対して、この嘲りの歌をうたう。
と始まる14章の全体をよめば明らかにように、「明けの明星、曙の子よ」(12節)と呼ばれている者は、天使などではなく、バビロニア王(あるいはその王国)を指しています。そのことがより明らかになるのは、「捕らわれ人を解き放さず、故郷に帰らせなかった者」(17節)という表現にあります。これは、明らかに、イスラエル人をバビロニアに幽囚したバビロニアの王(ネブカドネザル王、あるいは彼に代表される王国)を指しています。そして、「天から落ちた」とか「地に投げ落とされた」という表現によって、栄光から没落してゆく、イスラエルの敵バビロニア王国の運命を嘲っているのです。無敵を誇ったバビロニアは、よく知られているように、西暦前539年に、キュロス王の率いるペルシャに滅ぼされ、ユダヤ人たちは解放されます。

ところが、この「天から落ちた」とか「地に投げ落とされた」などという部分的表現が、サタンに言及する新約聖書のいくつかの表現に非常によく似ているために、ある誤解が生じます。たとえば、ルカの福音書10章18節の「わたしはサタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」という表現や、ヨハネの黙示録九章1節の「一つの星が天から地上へ落ちてくるのが見えた」という表現や、おなじくヨハネの黙示録12章7節の「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされた」というような表現と似ているために、イザヤ書の「輝くもの=明けの明星」(へブライ語=helel、ラテン語訳=Lucifer)を、悪魔と同一視するあやまった解釈が、ラテン語訳聖書を読んでいた中世のクリスチャンの一部の間で起こったのです。Uchidaさんも、イザヤ書とヨハネの黙示録を並列させて引用されていますから、やはり、彼らと同じように、それらを同一視されているようです。

しかし、実際、「明けの明星(Lucifer)」を悪魔と簡単に同一視できないことは、ヨハネの黙示録22章16節を見れば、イエス自身が「わたしは…明けの明星である」と言っていることからも分かります。

以上見てきたように、まず、 Lucifer はラテン語です。それはヘブライ語 helel の意訳としてラテン語訳聖書に使用されたものであって、 Lucifer という名前の天使が聖書に登場しないは、このことから当然のことと言えます。もちろん、もとのヘブライ語 helel という名前の天使も聖書には登場しません。すでに見たように、イザヤ書14章の歌は、天使に関する歌ではなく、かつて栄華を誇り、ユダヤ人を強制幽囚したバビロニア王国の没落を、「天から地上に落とされた」というふうに、多くの詩がそうするように、象徴的に表現したものに過ぎないからです。そして、新約聖書においてさえ「明けの明星」は、悪魔の天使としてではなく、イエスの象徴として使用されています。

このように、わたしは「ルシファー」を天使であるとするのは、誤解が生んだものと理解しているのですが、Uchidaさんは

悪魔は最初の創造物である天使長ルーシェルが愛を失って堕落したものだと確信しています
と言われているので、いったいどのような根拠をもって、Uchidaさんがそのようなことを「確信」するようになられたのか、ということをぜひお聞きしたいと思ったわけなのです。あやしげなオカルト本らしきものを引用されていますが、それが、Uchidaさんの確信の根拠となっているようにはとても思われません。


(4) 神の命令か、それとも自己の良心か

わたしの神の殺人命令に関する質問に対するUchidaさんのお応えは、大変興味深いものです。わたしの質問は、

教団の教理の都合で、罪のない幼児を殺す行為さえもが正当化されるとしたら、いったいどのようにして、Uchida さんは、何が「神の善」で、何が「悪魔の自己中心主義」であるかを、決定しておられるのでしょうか。
というものでした。ところが、それに対して、Uchidaさんは、「神の血統をまもる」という不思議な教理を持ち出されて、ヤーヴェ神による幼児(ミデアン人のすべての男の子)殺人命令を正当化されました。これは、オウム真理教が、「ポア」という不思議な教理を持ち出して、シヴァ神による幼児(坂本弁護士の子供)殺人命令を正当化したのと、まったく同じ論理です。つまり、それぞれに都合のよい教理(「神の摂理」)があって、それがいとも簡単に罪のない幼児殺しを正当化するのです。

この論理にしたがえば、もし、わたしが「Uchida 教」の信者であれば、わたしは、「神の血統をまもるために」、ヤーヴェ神の命令に従って、幼児殺しとミデアン民族を絶滅させることがわたしの取るべき正しい行動となり、もし、わたしがオウム真理教の信者であれば、シヴァ神の指示にしたがって、坂本弁護士の家族がこれ以上悪を犯して(つまり、オウム真理教に反対して)地獄に堕ちないように、幼児もろとも殺してしまうことが、わたしの取るべき正しい行動となります。

このような論理が成立するためには、その背後に、神の命令を人間の知識や良心に先行させるという思想があるに違いありません。そうでなければ、罪なき幼児殺しのような命令は果たして神の命令か、という疑問がおそらく生じているはずだからです。そのような疑問と向き合うことなく、いとも簡単に、幼児殺しが正当化できるのは、神の命令を、人間の良識や良心よりも、先行させることができるからに違いありません。Uchida さんの場合には、しばしば語られる「神を中心とする」という言葉がそのことを示しているように思われます。

どうなのでしょうか。神の命令と自己の良心とが対立するときは、神の命令に背いてまでも自己の良心に従うのが正しい行為だと思いますか、それとも、人間の良心は不完全なものであるから、絶対的な神の命令に従うのが正しい行為だと思いますか。Uchida さんが今まで、語られたところを、論理的に煮詰めてみると、後者の方だと、わたしには思われるのですが。


(5) 心を開放せよ

佐倉さんも一度自分の心を開放することも試みてはどうでしょうか。
ああ、わたしは、何度、このような言葉を聞かされたことでしょう。そのたびに、わたしが神の存在を知らないのは、わたしが悪いのだ、わたしの努力が足りないのだ、わたしの祈りが足りないのだ、わたしの真剣さが足りないのだ、わたしの聖書の理解が足りないのだ、わたしの動機が純粋でないのだ、と何度も何度も自分を責め続けてきました。

しかし、わたしが神の存在を知らないのは、本当に、わたしの努力が足りないからなのでしょうか。本当に、わたしのこころが開かれていないからでしょうか。

ながい年月の求道の果てに、わたしは知ってしまったのです。「こころを開いて素直になりなさい」と、親切にわたしにアドバイスして下さる人たちが望んでいることを。「こころを開いて素直になりなさい」とは、実は、「わたしたちの信じていることをあなたも信じなさい」という意味にすぎないことを。

わたしは、結局、彼らと同じようなことを信じることはできませんでしたが、それは、わたしが、結局、「神自身の声か」それとも「そうわたしが心の中で思い込んだだけなのか」、それを区別する方法を見出すことができなかったことにあります。そして、神の存在について実は自分は何も知ってはいないのだ、ということを素直に認めることが大切であるように思われ始めたのです。

神の存在が、心の中でわたしがつくり出した神像(それは偶像にすぎません)ではなく、わたしの意図とは無関係に厳然として客観的に実在する本物なら、向こう側からわたしに有無をいわさぬ実在感をもってわたしの前に立ち現れるものでなければなりません。心の中に神像をつくり出すことは、あまりにもたやすいことです。わたしが、しつこいほど、あるいは失礼かと思われるほど、「神自身の声か」それとも「そう心の中で思い込まれただけなのか」、それをどのように区別されているのかおたずねするのは、そのためなのです。これは本物の神を拝するのか、偶像を拝するのか、という重大問題なのです。いいかげんなところで妥協するわけにはいかないのです。

おたより、ありがとうございました。

佐倉 哲



再びKeizo Uchidaさんより

97年11月20日

佐倉さんはわたしが不思議な教理を持ち出して「Uchida教」の 論理を宣伝しているかのように言われていることに、はじめ強い ショックを感じました。 正直な話「しまった。申し訳ない」と思ったのです。 わたしの心の中に確かに傲慢な心が存在していたことは事実で あり、それが本来の目的から自分を見えなくしていたことに気づ いたのです。そういう意味で、佐倉さんの「Uchida教」の一言は わたしにとっては神の声でありました。

(1)神の声
神の声を他人が区別することが果たしてできるでしょうか。 わたしの中で展開される会話をどう判断するのでしょうか。 「わたしはあってあるもの」 その声を聞いた者にしか実感することは難しいでしょう。 りんごを食べたことのない人にりんごの味は一生理解することは できないのではないでしょうか。

(2)守護霊謝ビンラン氏
守護霊や霊界の存在もそれを実体験したことがなければ、その 声やかたち、心の苦しみは理解することはできません。 わたしは謝ビンラン氏がわたしにどのようなことを語ったか、何も 言ってはおりませんが、たぶんその内容を記載しても、何を根拠に それを判断するのでしょう。聖書に記載されていないから、それは 事実ではないと判断するのでしょうか。神様の本質を知らなければ 聖書を理解することはできないのではないでしょうか。 わたしは聖書に関しては初心者にしか過ぎないけれど、神様の ことや霊界のことは体験によって少しは理解しているつもりです。

(3)ルーシェル・ルシファー
天使長に関して、あやしげなオカルト本らしきもので引用されたと 佐倉さんは言っておりますが、わたしは本屋で何冊も読んでみて、 同様な記載がされていることを確認して、キリスト教で一般的に 「ルシファー」がどうように判断されているか知っただけのことです。 わたしにとっても、佐倉さん同様、天使長をなんと呼ぼうがどうでも よいことなのです。 わたしが間違ったのは、佐倉さんに対して聖書から引用しなければ いけないと判断したことです。わたしは聖書で生きてきた人間では ないので、特に聖書に囚われる必要はなかったのです。 聖書や古い文献に書いてあることだけがすべて真実であるのでは なく、真実は今の時代にも存在し、神様も昔も今も生きているの です。

(4)聖書の殺人は神の命令か
佐倉さんの論理には時代的背景が全く無視されています。 神様は時代と共に生きており、着実に人間を導いているのです。 モーセの時代には個人としての尊厳を問うことは難しかったのです。 民族が生き残るかどうかという状況の中にあって、神様は神の血統 を繁殖するためにイスラエル民族を守ったということです。 今は個人が個人の尊厳を守ることの出来る民主主義の中に生きて いるでしょう。神様も時代的環境に対応して働いているのです。

(5)心を開放せよ
この言葉を安易に使ってしまったことは、佐倉さんに対して本当に 失礼なことをしてしまったと思っています。佐倉さんがすでに悟って いる内容があるのであれば、それはそれでいいことなのです。 わたしは現実何も悟っているわけではありませんが、世の中が少し でも喜びに満ちて、心のわだかまりの無い世界ができたらと思って いるだけであり、そのためにわたしなりに努力しているだけです。



(1) 神の声について

Uchidaさんのおっしゃられることをまとめてみると、

(a)神は心の中の声である。
(b)それは第三者にはわからない。
(c)しかし、それが神の声であることは本人が「実感」している。
ということになると思われます。しかし、Uchidaさんは一度も自分の「実感」を疑われたことはないのでしょうか。

わたしの個人的な経験を述べさせていただきますと、わたしが神の声を心の中に聞いたと思ったときも、わたしは、少し時がたつと、ほとんどかならず、「あのときは、ただ、そうわたしが思っただけなのではないか」、という疑惑が生まれ、それを完全に払拭する術を得ることが結局なかったのです。

そのような疑惑はUchidaさんにはまったく起こらないのですか。


(2)ルシファーについて

わたしの疑問は、「ルシファー」を天使であるとする考え方が、ヨーロッパ中世にラテン語訳の聖書を誤読したことから偶然に生まれ、一部のクリスチャンの間で広まり伝えられてきた俗説の一つにすぎず、それゆえ、現代聖書学やキリスト教史に詳しい現代のキリスト教はそのようなことはもう教えていないはずであるのにもかかわらず、なぜ、Uchidaさんは「悪魔は最初の創造物である天使長ルーシェルが愛を失って堕落したものだと確信」されるようになったのか、ということだったのです。これは、わたしにはとても不可解です。


(3)神の命令に従うべきか、それとも良心に従うべきか

神の殺人命令がわたしたちに突きつける問題は、わたしたちは、神の命令に従うべきか、それとも自分が正しいと思うこと(良心)に従うべきか、ということです。

モーセとその軍隊という過去の例をあげるまでもなく、わたしたちは、つい最近、天皇と日本軍隊の行動を見たのであり、また麻原彰光とその弟子たちの行動を見たのです。神の命令を自己の思い込み(良心)より上位に置く思想が存在する限り、どの時代に生きていようと、この問題は存続するのです。

オウム教団の殺害事件にたずさわった弟子たちの証言によると、明らかに、その行動に対する戸惑いがみられますが、それは、神の声(麻原の命令)と良心の声との葛藤であると見ることができます。モーセの軍隊も、もともと女や子供は殺さないで帰ってきたのです。良心に従えば、昔も今も、人は皆通常そうするでしょう。ところが、モーセは、「女たちを皆、生かしておいたのか」、といって激怒するのです。そして、「直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ」、と再命令を下します。

ぜひ、知りたいのですが、もし神の命令が、モーセとその軍隊がなしたような、幼児殺害・他民族絶滅・他宗教迫害・財産と女性の略奪のような、わたしたちの良心を苦しめるような内容であるとき、間違っているのはもしかしたら「神の命令」(あるいはそれを正当化する教理)の方ではないか、という発想は、神の声を「実感」するようになった人の心にはまったく起こらないのでしょうか。

たびたび、おたよりありがとうございます。