はじめまして。平岡広志と申します。
佐倉さんの主張される「五書のモーセ著者説を保持するために保守的な聖書は意図的 に書き換えられた」との主張と、それに対する鈴木さんのやりとりを興味深く拝見させていただきました。両者ともに、説得力のある主張に思えますが、私個人としては鈴木さんの考えに近いものがあります。

私はクリスチャンで、現在は佐倉さんのおっしゃる「保守的」な福音派の教会に属していますが、育った教会は比較的リベラルな教会で、また東京神学大学で学んだこともあり、聖書批評学は抵抗なく受け容れています。ですので、五書のモーセ著者説をそのまま受け容れるものではなく、いわゆるJEDP説によって現在の聖書が形作られたと思っています。従いまして、佐倉さんのおっしゃるように、自分たちの教義を守るために聖書を意図的に都合よく翻訳するということがあれば、それは批判されても仕方ないと思います。その意味で、佐倉さんのご主張には説得力がありますが、読んでいてちょっと(?)と感じたことがありますので、その点を質問させて下さい。

佐倉さんの97.11.12付の鈴木さんへの反論を引用させていただきます。

第五に、鈴木さんが指摘しておられるように、このような書き換えをしていない聖書もあります。わたしはその例として、RSV (Revised Standard Version) や日本聖書協会の改訂版をあげました。問題は、このような書き換えをやる聖書(『NIV』や 『新世界訳』など)が、聖書を誤謬のない完全な神の言葉と考える保守的な聖書であることです。したがって、前者(1:1、1:5、3:8、4:41、4:47)を「ヨルダン川の向こう側」と直訳しては保守的聖書解釈にとって困る理由があったに違いありません。ところが、一般に、聖書を保守的に解釈する人々は、申命記を、少なくともその大部分は、モーセの著作であると主張してきました。
ここで佐倉さんが主張されているのは、保守的な聖書解釈者が、このような書き換えをするということだと思いますが、私が疑問に思うのは、その主張を裏付ける実例の部分なのです。佐倉さんもご承知のように、キリスト教の世界はいわゆる「リベラル」派と「保守派」に大別することができます。前者は聖書の高等批評を受け入れ、後者は逐語霊感説をとります(これは全く大雑把な分類ですが)。

佐倉さんのご主張をそのまま受け取ると、「保守派」の翻訳した聖書こそが「書き換え」を行うことになります。ところが、実例で示された聖書は、書き換えがされた日本語訳として新共同訳をあげておられます。それに対して、書換えがされていない聖書は、鈴木さんがおっしゃるように新改訳があげられていますが、新共同訳の翻訳はいわゆる「リベラル」な聖書学者によってなされたものであり、新改訳こそが、いわゆる「保守的」な陣営に」よってなされたものであります。

新共同訳が、なぜ「ヨルダン川の東」と翻訳」したかといえば、鈴木さんがいわれるように、ダイナミック・イクイヴァレンスという翻訳原理に従ってなされた意訳だからで、その意図は、新共同訳聖書を読む日本人に分かりやすい翻訳をというものであります。佐倉さんは、「ヨルダン川の向こう」でも問題ないではないかとおっしゃいますが、聖書が書かれたユダヤ・イスラエルに住む人であれば、ヨルダン川の向こうは直感的に分かっても、外国人にとってはいちいち地図で確認しない限り、このような表現ではピンとこないと思います。新共同訳は、その点をふまえてこのような翻訳をとったのであり、けっしてモーセ著者説を固持するためのものではないと思います。

そもそも、新共同訳を翻訳した人たちは基本的にJEDP仮説をとられる聖書学者であって、五書がすべてモーセによって書かれたという主張には異を唱える立場の人たちです。それゆえに、新共同訳は福音派ではあまり用いられていませんし、むしろ批判があります(理由は他にもありますが)。

さて、ここでいよいよ佐倉さんに質問です。佐倉さんの主張が本当であれば、保守派が翻訳した「新改訳聖書」こそが、書換えをしているべきはずですが、実際には「ヨルダンの向こうの地」と正確に訳されています。しかし、なぜか佐倉さんはその点についてはあまり触れておりません。むしろ、「意図的」にそのことを避けておられるような印象を受けるのです。(これは私の誤解かもしれませんので、そうだったら済みません)でもこれは、佐倉さんの主張を検証する重要なポイントだと思いますので、あえて質問させていただきます。よろしくお願いします。

PS.ものみの塔の「新世界訳聖書」は、それこそ佐倉さんのおっしゃるように自分たちの主張を裏付けるための翻訳だと私も思います。ですからここでは議論の対象から外します。

平岡広志

1.わたしの主張

ここで佐倉さんが主張されているのは、保守的な聖書解釈者が、このような書き換えをするということだと思いますが・・・
そうではありません。保守的な聖書なら「ヨルダン川の向こう」を書き換え、そうでなければ書き換えない、ということではありません。聖書翻訳者がこの部分をわたしの指摘するような形に書き換るのは、「五書はモーセの著作である」という伝統的な考えを持っているからであり、聖書を神の言葉と信じる聖書学者こそがしばしばそのような考えを持っている、ということです。


2.新共同訳

新共同訳が、なぜ「ヨルダン川の東」と翻訳」したかといえば、鈴木さんがいわれるように、ダイナミック・イクイヴァレンスという翻訳原理に従ってなされた意訳だからで、その意図は、新共同訳聖書を読む日本人に分かりやすい翻訳をというものであります。佐倉さんは、「ヨルダン川の向こう」でも問題ないではないかとおっしゃいますが、聖書が書かれたユダヤ・イスラエルに住む人であれば、ヨルダン川の向こうは直感的に分かっても、外国人にとってはいちいち地図で確認しない限り、このような表現ではピンとこないと思います。新共同訳は、その点をふまえてこのような翻訳をとったのであり、けっしてモーセ著者説を固持するためのものではないと思います。
そういう主張が成り立たないことは、(1)新共同訳は「ヨルダン川の東」と一貫して訳しているわけではなく、もともと同じヘブライ語の表現なのに、ある部分だけを「ヨルダン川の東」と訳し、他の部分は「ヨルダン川の向こう側」と直訳しているからであり、しかも、(2)その「ヨルダン川の東」と訳されている部分だけが、それを「ヨルダン川の向こう側」と直訳したのでは五書は(ヨルダン川を渡らなかった)モーセの著作でなくなってしまう特殊な部分であり、そして、(3)そのような訳し分けをしているのは、新共同訳だけでなく、一般に保守的といわれている(聖書を間違いのない神のことばと信じる)人々の聖書翻訳がしばしばとってきた「おなじみの手口」でもあるという、どうしても、偶然としては考えられない事実から明らかだとおもわれます。

したがって、平岡さんが指摘されていますように、また、わたしも【】で述べていますように、「[新共同訳]は、全体としてみれば、かならずしも、保守的とは言えません」が、この部分を担当した翻訳者がモーセ著作説の立場をとる保守的な学者(あるいは、その学者が翻訳の参考にしたかもしれない海外のタネ本が保守的なもの)であることが察せられるのです。


3.新改訳

佐倉さんの主張が本当であれば、保守派が翻訳した「新改訳聖書」こそが、書換えをしているべきはずですが、実際には「ヨルダンの向こうの地」と正確に訳されています。しかし、なぜか佐倉さんはその点についてはあまり触れておりません。
すでに、上記でも述べましたように、わたしは、保守的な聖書なら「ヨルダン川の向こう」を書き換え、そうでなければ書き換えない、というような単純なことを主張しているわけではありません。モーセ著作説を取る立場が「ヨルダン川の向こう」を書き換えさせるのであり、聖書を間違いのない神のことばであると信じる保守的な聖書学者はそのモーセ著作説を取る傾向があるために、保守的な聖書学者の翻訳では、しばしば、「ヨルダン川の向こう」が書き換えられている、ということです。

わたしが、新改訳に触れていないのは、わたしは米国に住んでおり、それを書いた当時(まだインターネットが流行るずっと前、91年前後)、わたしは新改訳をまだ持っていなかった(それがあることさえ知らなかった)からです。現在でも、わたしの知っている米国の日本書籍店(3店)には新改訳を置いていません。あるのは、ほとんど改訳(1955年版)で、たまに、新共同訳を見かける程度です。わたしが新改訳について知ったのは本サイトでの皆さんのメールのおかげで、日本からわざわざ取り寄せことになったのは最近(99年6月)のことです。

論理的には、聖書を神のことばであると信じる立場が、モーセ著作説を取らなければならない必然性はまったくありません。したがって、保守的な新改訳が「ヨルダン川の向こう」を書き換えていなくても、不思議はありません。しかし、保守的な聖書学者がモーセ著作説をとる傾向にあることは否定できない事実です。平岡さんのように、聖書批評学の多資料説をそのまま認めるのは、むしろ例外ではないでしょうか。

新改訳は、「ヨルダン川の向こう」の部分に関しては、平岡さんのように聖書批評学の多資料説をそのまま認める立場から書き換えをしなかったのではなく、単純に、書き換えなければモーセ著作説が否定されることになることに気がついていなかった、という可能性もあります。新改訳は「根本主義の方向に歪められた翻訳」ともいわれており、聖書を、それとなく、自らのドグマに合うように書き換えている事実もあるからです。

有名な実例を一つ挙げますと・・・・ 「安息日は人のためにあるもので、人が安息のためにあるのではない。 それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」(マルコ二・二八、口語訳)。

この「それだから」を、私の手元にあるどの訳も訳出しています。 口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳、文語訳、田川建三訳、荒井献訳、 前田護郎訳、岩隈直訳、塚本虎二訳。

ただ新改訳だけが訳出していません。 「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。 人の子は安息日にも主です」(同、新改訳)。

なぜあえて、この「それだから」を訳さないのでしょうか。 それは、ここが蟻の一穴とでも言うべき要の点、「人の子」の意味の分岐点だからです。

長谷川順旨さんより 98年1月24日)


4.新世界訳

ものみの塔の「新世界訳聖書」は、それこそ佐倉さんのおっしゃるように自分たちの主張を裏付けるための翻訳だと私も思います。ですからここでは議論の対象から外します。
エホバの証人の聖書『新世界訳聖書』は、わたしたちの手に届く<聖書>というものが、決して神からのことばではなく、それを伝えようとする人間たちの「主張を裏付けるため」に書かれている、というきわめて重大な事実を知るうえにも大切な資料です。けっして論議の対象からはずしてはいけません。自分の持つ聖書には、神のことばがそのまま伝わっており、他派の聖書はそうではない、という手前勝手な主張には客観的な根拠はありません。みんなわたしたちと同じ人間が翻訳しているのですから。


5.新改訳の改竄例

新改訳に携わった人々も「人の子」であり「神の子」ではないことは、かれらも自分たちのドグマにあうように聖書を改竄している事実から明らかになります。新改訳に携わった人々のドグマとは言うまでもなく、「聖書は永遠の神のことば」(「あとがき」)である、という考えです。「永遠の神のことば」なら矛盾や間違いがあってはなりません。

では、「聖書は(矛盾や間違いのない)永遠の神のことば」であると信じる翻訳者が聖書に矛盾を発見するとき、かれはどうするでしょうか。聖書改竄というのが新改訳のとっている一つの方法です。矛盾がなくなるように聖書を書き換えてしまうことです。

新改訳によると、サムエル記下 21:19において、エルハナンが殺した相手は「ゴリヤテの兄弟ラフミ」であるとしています。

ゴブでまたペリシテ人との戦いがあったとき、ベツレヘム人ヤイルの子エルハナンは、ガテ人ゴリヤテの兄弟ラフミを打ち殺した。ラフミの槍の柄は、機織りの巻き棒のようであった。
ところが、ヘブライ語原文では、エルハナンが殺した相手は、「ゴリヤテの兄弟ラフミ」ではなく、「ゴリヤテ」となっているのです。
ペリシテ人との戦いはさらにもう一度ゴブで行われ、ベツレヘム人、ヤイルの子エルハナンはがガテのゴリヤテを殺した。ゴリヤテの槍の柄は機織りの巻き棒のようであった。(関根正雄訳、『新訳 旧約聖書 II 歴史書』、641頁)

新改訳の翻訳者はどうして「ゴリヤテ」を「ゴリヤテの兄弟ラフミ」、「ゴリヤテの槍」を「ラフミの槍」に改竄したのでしょうか。それは、ゴリヤテを殺したのは、エルハナンではなく、ダビデであったという記述がサムエル記上16章にあり、後者の方が一般に良く知られているからです。(詳しくは「ダビデ物語の矛盾と混乱(2)」を参照してください。)

つまり、サムエル記上16章とサムエル記下21章は矛盾しており、この矛盾を隠ぺいするために、この新改訳の翻訳者は「ゴリヤテ」を「ゴリヤテの兄弟ラフミ」へ、「ゴリヤテの槍」を「ラフミの槍」へと改竄したのです。わたしの知るかぎり、新改訳だけがこのような改竄を行っています。(他翻訳とのくわしい比較は「作者よりSatoshi & Naomiさんへ 98年11月24日」を参照してください。)