佐倉哲エッセイ集

聖書は書き換えられたか

--- 「申命記」の作者をめぐって ---

佐倉 哲


「聖書は神の霊によって書かれたものであり、いかなる誤謬も含まない」という聖書信仰が、わたしたちにとって意味あるものとして認められるためには、単にオリジナルの聖書に間違いがないというだけでなく、現在のわたしたちに伝わってきた聖書に誤りがない、ということでなければなりません。しかし、果たして、長い伝承の経過のなかで、聖書は誰かによって書き換えられた可能性はないのでしょうか。本論は、「申命記」の作者に関連した部分の最新翻訳をいくつか吟味することによって、聖書が人間の意思によって意図的に書き換えられている事実を示し、しかも、この場合、その書き換えの動機が聖書信仰そのものであること、つまり「聖書には誤謬がない」と信じる聖書学者が、聖書の矛盾を隠蔽しようとしたためであることを明らかにするものです。

1997年8月15日



申命記

申命記とは、いわゆる「五書」(ペンタテューク)といわれる、聖書の最初の五つの書のうち、五番目の書のことを指します。内容は、エジプトを脱出したモーセとイスラエルの民が、神によって約束された土地カナンを目の前にして、モーセが最後の言葉を語るものであり、申命記のほとんどの部分はこのモーセが語った長い別れの言葉です。これがモーセの最後の言葉になるのは、モーセは、ヨルダン川を渡って民とともにカナンの地にゆくことを許されず、いわば、目的地を目の前にして、ここで死んでしまうからです。

                   | ヨ |
                   | ル |
    <西> カナンの地(目的地) | ダ | モアブの地(モーセ最後の場所) <東>
                   | ン |
                   | 川 |


申命記の作者

伝統的に、ユダヤ教においてもキリスト教においても、聖書の最初の五書はすべてモーセの作であると信じられてきました。その五書のひとつである申命記の作者も、したがって、モーセその人であるとされてきました。 ところが、ここにひとつの問題があったのです。申命記の最後の章には、モーセの死のことや死の直後のことが述べられているのです。

ヤーウェの僕モーセは、ヤーウェの命令によってモアブの地で死んだ。ヤーウェは、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、誰も彼が葬られた場所を知らない。モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてなかった。イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。(申命記34:5-8)
これが問題なのは、もちろん、このようなモーセの死や死後のことをモーセ自身が書いたわけがないからです。 そこで、この最後の部分だけは、モーセの後継者となったヨシュアによって書かれたのだろう、ということになって、これが、今日まで、申命記の作者に関する伝統的な考えとなりました。最後の部分が少しだけ、モーセの後継者によって書かれたことを認めたとしても、申命記全体が、基本的にはモーセの作であれば、一応、申命記の作者はモーセである、と言えるからです。


「ヨルダン川の向こう側」

ところが、申命記がモーセの作ではないことを示唆するものが、別にもあることがいくつか発見されたのです。この事実は、とくに、今世紀に入って、聖書を批判的に研究する聖書批評学の学者の著述にしばしば現れるようになりました。特に、そのうちの一つは、あくまでもモーセが作者であるという信念を貫こうとする伝統的・保守的学者を困らせるものでした。それが、申命記にしばしば記述されている「ヨルダン川の向こう側」という表現です。なぜ、これが問題となるのでしょうか。

すでに述べたように、モーセはヨルダン川を渡ってカナンの地へ行くことができず、その対岸にあるモアブの地で死を迎えました。申命記におけるモーセの最後の言葉は、このモアブの地で語られたものです。ところが、申命記の作者は、モーセが語った場所のことをしばしば「ヨルダン川の向こう側」と記述しているのです。例えば、

すなわちモーセはヨルダンの向こうのモアブの地で、みずから、この律法の説明に当たった、そして言った… (申命記1:5、日本聖書協会「改訂版」)
このことは、作者がそれを書いているときに、ヨルダン川の「こちら側」、つまり、カナンの地にいたことを意味するのです。すると、どうしてもこれはモーセであってはならないのです。しかも今度は、モーセの死に関する部分のように、この部分だけは、ヨシュアによって書かれた、という言い訳は通じません。何故なら、この「ヨルダン川の向こう側」という表現は、申命記のあちこちに散在しているからです。では、伝統的・保守的学者は、ついに、申命記がモーセの作であるという主張を取り下げたのでしょうか。いいえ、彼らは別の道を選んだのです。


聖書は書き換えられた

驚くべきことに、「聖書には間違いがない」と堅く信じる伝統的・保守的聖書学者たちは、申命記がモーセの作であるという信念を守るために、モーセの作ではないことを示唆する「ヨルダン川の向こう側」という聖書の内容を書き換えたのです。そのために、わたしたちが手にする現代語訳聖書の多くは、実は、これら伝統的・保守的聖書学者たちによって、すでにひそかに書き換えられたものなのです。おそらく、今、これを読んでいるあなたの聖書も、すでに書き換えられたものである可能性が非常に大きいと思います。では、どのように聖書は書き換えられたのでしょうか。

わたしが調べた限り、もっともポピュラーなやり方は、「ヨルダン川の向こう側」という表現を「ヨルダン川の東側」という表現にすり替える方法です。例えば、アメリカでいま最もポピュラーな 「NIV 版聖書」 (New International Version) や日本聖書協会の「新共同訳聖書」など、非常にたくさんの現代語訳聖書がこの方法を使っています。 これは、相対的位置を絶対的位置に変換することによって、もとの表現「ヨルダン川の向こう側」に含意されていた作者の位置を抹殺するものです。「ヨルダン川の東側」という表現にしてしまえば、作者がヨルダン川のどちらにいるか分からなくなってしまいます。それが、このやり方のねらいです。

もう一つのポピュラーなやり方は、「ヨルダン地域」とか「ヨルダン近辺」という表現にすり替える方法です。例えば、「聖書には間違いがない」という固い信念を持っていることで知られている「エホバの証人」の「新世界訳聖書」では、「ヨルダン地域」という表現にすり替えられています。また、保守的聖書学の世界的権威として認められている "Word Biblical Commentary" の「申命記 1-11」では、「ヨルダン近辺」という表現が使われています。これらはいずれも、ヨルダン川のどちら側かという区別そのものを避けて、どちら側にも取れるように巧妙に工夫された意味のすり替えです。そうすることによって、やはり、もとの表現「ヨルダン川の向こう側」に含意されていた作者の位置を抹殺することができるからです。


それは意図的になされた

この聖書の書き換えは、申命記がモーセ以外の人物による作であることを示唆する部分を隠蔽するために、モーセが申命記の作者であることをかたくなに信じる保守的聖書学者によって、きわめて意図的になされました。

「ヨルダン川の向こう側」にあたるヘブライ語は "ベエルヴェルハヤルデン" (ミルトス・ヘブライ文化研究所『ヘブライ語聖書対訳シリーズ 申命記』の発音表記による)で、原語はまさに「ヨルダン川の反対側」とか「ヨルダン川の向こう側」という意味です。それは、そのまま直訳しても問題なく通じるのですから、少し前までは、そのまま「ヨルダン川の向こう側」というふうに訳出されていました。例えば、日本聖書協会の「改訂版」(1955年)や英語版の "RSV" (Revised Standard Version) など、みんなそのように訳出されていたのです。つぎの二つの表は、この「改訂版」の申命記にでてくる「ヨルダン川の向こう側」という表現のすべてです。語り手によって、二つのグループに分けています。

第一グループ(語り手=申命記の作者)
1:1 「これはヨルダンの向こうの荒野、パランと、トベル、ラバン、ハゼロテ、デザハブとの間の、スフの前にあるアラバにおいて、モーセがイスラエルの人に告げた言葉である。」
1:5 「すなわちモーセはヨルダンの向こうのモアブの地で、みずから、この律法の説明に当たった、そして言った、…」
3:8 「その時われわれはヨルダンの向こう側にいるアモリびとの二人の王の手から、アルノン川からヘルモン山までの地を取った。」
4:41 「それからモーセはヨルダンの向こう側、東の方に三つの町々を指定した。」
4:46 「[モーセは] すなわち、ヨルダンの向こう側、アモリびとの王シホンの国のベテペオルに対する谷においてこれを述べた……。」
4:47 「[モーセとイスラエルの人々は] その [シホンの] 国を獲、またバシャンの王オグの国を獲た。 この二人はアモリびとの王であって、ヨルダンの向こう側、東の方におった。」

第二グループ(語り手=申命記の中の登場人物モーセ)
3:20 「 [その時わたしはあなたがたに命じて言った、『…。] 主がすでにあなたがたに与えられたように、あなたがたの兄弟にも安息を与えられて、彼らもまたヨルダンの向こう側で、あなた方の神、主が与えられる地を獲るようになったならば、あなたがたはおのおのわたしがあなたがたに与えた領地に帰ることができる』。」
3:25 「 [その時わたしは主に願って言った、『主なる神よ、…] どうぞ、わたしにヨルダンを渡って行かせ、その向こう側の良い地、あの良い山地、およびレバノンを見ることのできるようにして下さい』。」
11:30 「 [見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福とのろいとを置く……。]これらの山はヨルダンの向こう側、アラバに住んでいるカナンびとの地で、日の入る方の道の西側にあり、ギルガルに向かいあって、モレのテレビンの木の近くにあるではないか。」

第一のグループでは、申命記の作者自身が語り手なのですが、第二グループでは、語り手はモーセという申命記の登場人物なです。問題は、第一のグループでは、申命記の作者(語り手)が「ヨルダン川の向こう側」にいるモーセやそこの土地について言及しているため、語り手の位置が、ヨルダン川をはさんで、モーセのいる地の反対側、つまり、モーセが決して渡って行くことのできなかったカナンの地にいることになることです。つまり、第一のグループの表現は申命記の作者がモーセではないことを示唆しています。それに比べて、第二グループでは、登場人物モーセの直接の言葉として「ヨルダン川の向こう側」という言葉が語られているため、申命記の著者の位置は関係ありません。

                   | ヨ |
                   | ル |
    <西> カナンの地(目的地) | ダ | モアブの地(モーセ最後の場所) <東>
                   | ン |
                   | 川 |

このため、申命記のモーセ著作説をかたくなに信じる現代の保守的聖書学者たちは、この問題となっている第一のグループの場合に限って、「〜の向こう側」という表現をことごとく避け、「ヨルダンの東側」とか「ヨルダン地域」という、巧妙な意味のすり替えをおこなっています。それをあらわすのが次の表です。

NIV 新共同訳 新世界訳
1:1 「ヨルダン川の東」 「ヨルダン川の東側」 「ヨルダン地方」
1:5 「ヨルダン川の東」 「ヨルダン川の東側」 「ヨルダン地方」
3:8 「ヨルダン川の東」 「ヨルダン川の東岸」 「ヨルダン地方」
4:41 「ヨルダン川の東」 「ヨルダン川の東側」 「ヨルダンの日の出側」
4:46 「ヨルダン川の東」 「ヨルダン川の東」 「ヨルダン地方」
4:47 「ヨルダン川の東」 「ヨルダン川の東側」 「ヨルダン地方」
3:20 「ヨルダン川の向こう側」 「ヨルダン川の西側」 「ヨルダンの向こう」
3:25 「ヨルダン川の向こう」 「ヨルダン川の向こう」 「ヨルダンの向こう」
11:30 「ヨルダン川の向こう」 「ヨルダン川の西」「ヨルダンの日没に向かう側」
【注】

「NIV」 = New International Version、米国で現代もっとも使用されているスタンダードの聖書の一つ。

「新共同訳」= 日本聖書協会発行、プロテスタントとカトリックの学者の共同訳。この翻訳書は、全体としてみれば、かならずしも、保守的とは言えませんが、部分的にはきわめて保守的翻訳が見られます。)

「新世界訳」= 聖書に誤謬がないことを強く主張する新興キリスト教団体「エホバの証人」の聖書。

このように、これらの保守的聖書学者たちは、ここに引用している表現はすべて同じ「ヨルダン川の向こう側」という意味を持つ原語「ベエルヴェルハヤルデン」であるにもかかわらず、第一グループ(赤色)の場合に限って、共通して、「〜の向こう側」という表現を避けています。明らかに、この書き換えは、申命記のモーセ著作説を守るためになされた、意図的なものと言わねばなりません。


なぜ、モーセ著作説にこだわるのか

このような事態が起きるのは、これらの保守的聖書学者が、申命記はモーセによって書かれた、という伝承に執着しているからですが、なぜ、聖書を書き換えてまでも、彼らはそんなにモーセ著作説にこだわるのでしょうか。

聖書が信頼できる神の権威をもった書であることを説得するために、長い間、保守的クリスチャンが提示してきた根拠の一つに、「内証」(internal evidence)と呼ばれるものがあります。考古学的発見などのように聖書外のものが聖書の信頼性を証する場合を「外証」(external evidence)といいますが、聖書自身がその信頼性を証する場合を「内証」いうのです。彼らが「五書」のモーセ著作説にこだわる最大の理由は、おそらく、彼らの聖書信仰の根拠の一つとなっているこの「内証」と関係があるのです。

この内証の考え方に依れば、聖書のある一書の内容が、聖書の他の著者によって権威ある神の言葉として引用あるいは言及されているとき、その書は信頼できるとされます。とくに、イエス自身の言葉の中に引用あるいは言及されている書は、特別に信頼できる権威ある書であるとされています。したがって、例えば、

The book [Deutoeronomy] itself testifies that, for the most part, Moses wrote it (1:5; 31:9,22,24), and other OT books agree (1Ki 2::3; 8:53; 2Ki 14:6; 18:12) -- though the preamble (1:1-5) may have been written by someone else, and the report of Moses' death (ch. 34) was almost certainly written by someone else. Jesus also bears testimony to Mosaic authouship (Mt 19:7-8; Mk 10:3-5; Jn 5:46-47), and so do othe NT writers (Ac 3:22-23; 7:37-38; Ro 10:19). Moreover, Jesus quotes Deutoeronomy as authoritative (Mt 4:4,7,10). In the NT there are almost 100 quotations of and allusions to Deutoeronomy. (THE NIV STUDY BIBLE, Zondervan Publishing House, 1995)

この書 [申命記] 自身が、モーセがその大部分を書いたのだと証しています(1:5; 31:9,22,24)。また、他の旧約聖書もそれに同意しています(列王上 2::3; 8:53; 列王下 14:6; 18:12)。ただ、その前書き(1:1-5)はおそらく誰か他の人によって書かれた可能性があり、モーセの死の報告(34章)はほとんど間違いなく他の人によって書かれたのでしょう。イエスもまたモーセが著者であることを証ししています(マタ 19:7-8; マル10:3-5; ヨハ 5:46-47)。他の新約記者も同様です(使 3:22-23; 7:37-38; ロマ 10:19)。しかも、イエスは申命記を権威ある書として、直接引用さえしています(マタ 4:4,7,10)。そして、新約聖書は全体として、百回近くも、申命記を直接引用するか、またはそれに言及しています。(『NIV 学習用聖書』佐倉訳)

というふうに語られるのです。

保守的キリスト教の中では、このような内証によってその神的権威を証するという方法が伝統的に取られてきたために、五書がモーセによって書かれたのではない、ということになると、単に、「内証」という方法が力を失ってしまうだけでなく、五書がモーセの書であると証しているイエス自身や新約聖書そのものの言葉が信頼できないことになってしまうおそれがあります。つまり、「ヨルダン川の向こう」という、一見何でもないような表現の背後には、聖書の権威に関する問題、とくに、イエス自身や新約聖書の言葉の信頼性に関する問題が存在しており、これが、おそらく、保守的聖書学者の多くがモーセ著作説にこだわる最大の理由だと思われます。


結論

このように、申命記が意図的に書き換えられた理由は、聖書が信頼すべき神の権威を持つ書である、という信仰を守ろうとしたためであると考えざるを得ません。いわば、「聖書には一切の誤謬がない」という聖書信仰が、聖書に間違いがないように、聖書そのものを書き換えさせたわけです。もし、聖書がこのように、わたしたちの手に届くまでの過程において、信仰的動機に駆られて、きわめて人間的な意図で神の言葉にふさわしいように書き換えられているという事実があるとすると、わたしたちが手にする聖書を、無邪気に、「いかなる誤謬も含まない、永遠の神の言葉である」、などとは言えないことになります。聖書は、数多くの信仰者の手によって書かれ伝えられてきたものだからです。


本論には、次の批評が寄せられています。

鈴木さんより