初めまして。

今まで電話代を惜しんで、検索などあまりしなかったものですから、 こういうホームページにめぐりあえて、ちょっと心踊る思いです。

この「聖書の間違い」、なかなかいいですね。 テーマがはっきり限定されているのが、特にいいです。気に入りました。 その趣旨を誤解して筋違いの反応をなさる方も多々おられるようですが、 それもまた賑わいを増していいではないですか。

ただ、だれかが言っておられるように、 このような形で聖書の間違いを追求するのは、「無駄な努力」なのかもしれません。 −−私もその無駄な努力をしている一人なのですが。−−

というのも、大抵の場合、キリスト者は聖書の言葉に<恋している>状態にあるからです。 とてもではありませんが、論難に対して聞く耳を持ちません。 恋する相手の欠点をあげつらう言葉は、心の門衛が追い返し、かえって恋心を鼓舞する始末です。 −−とはいえ、自分のためにしている努力なので、やめるわけにはいきませんが。−−

恋は盲目です。 やがて恋の熱の冷めたとき、苦い言葉を投げかけた人のいたことを思い出すのでしょう。 もし冷めるときがあるなら、ですが。

ところで、田川建三さんの書物を読まれたことはありますか。 たとえば『書物としての新約聖書』(勁草書房、1997)とか。 もし読まれたことがなければ、一度読んでみられるといいですよ。 元気が出ます。

ただ、議論もあまり熱が入ると、客観性を失いますね。 「少しだけ聖書を勉強しただけ」の岡野なおみさんの言いたい放題も、 その佳境に立ち入ってしまったようです(岡野なおみさんの反論サイト)。

このように、少しだけ聖書を勉強しただけのわたしでさえ知っていることを、 彼は書かない。あるいは知らない。また、かれの批判する聖書についても、日本語の、 しかも一冊だけ(共同訳のみ)が唯一絶対の聖書であるかのような扱いをしている。 クリスチャン内部でも犬養道子先生は、共同訳だけでなく、英語の聖書も持つようにと すすめているのだが、彼はそうせず、翻訳に難があるので有名な「共同訳」で 決めつけをするような発言をするのである。
確かに「共同訳」は翻訳に難があるので有名です。 しかし「新共同訳」はそうではありません。 もちろん「共同訳」の名残がいくらか残っていますが、 「共同訳」とはもはや異質の翻訳になっています。

それに、英語の聖書を持てということですが、英語だって日本語と同じくらい ギリシャ語やヘブライ語にとっては異質の言語なのです。 なぜ、日本語の聖書をもう何冊か持て、と言わないのでしょうかね? とつとつと英語で聖書を読むよりは、数種類の日本語訳を読みこなすほうが はるかに理解が深まるというものです。 もちろん、英語の聖書も、あるに越したことはありませんが。

クリスチャンにとって、あまりにポピュラーなことについて、ポピュラーであることを 伏せる(あるいはそういう事実を知らない)、クリスチャンの常識を知らない、 といっただけでなく、上記の理由により、 佐倉氏には聖書学を学べるだけのスキルがあるのか、非常に疑問である。 聖書の勉強をするにあたっては、複数の訳本を参照するのは当然であり、外国のもの である以上、外国のもの(英語なりドイツ語なり)を取り入れて発表するべきである。 
"少しだけ聖書を勉強しただけ"の岡野さんに、そんな判決を下す資格があるのでしょうか? それに、スキルとは、生まれながらに持っているものではなく、磨くものです。

第一、"外国のものである以上、外国のものを取り入れて発表する"というのは、 どういうことでしょうか?"ギリシャ語で書かれた書物について語るのだから、英語で書かれた書物も参照せよ"?日本語としてさえ通じませんよね。

ここでわかるのは、聖書学を学ぶ人間は、最低限クリスチャンでなければ、 ただ単純に矛盾だけに目をとられる可能性があることである。 木を見て森を見ずのたとえどおりになってしまうのである。 聖書学はそもそも、聖書を肯定する学問であったことを忘れてはならないだろう。
学問は宗教とは違って、もっと自由なもののはずですが・・・・。

第一「クリスチャン」とはだれのことなのでしょう? その厳密な定義は? 以前ある韓国人が「日本には本当のクリスチャンは十万人しかいませんよ」 と言っていましたが、その十万人の中に入らなければ、 聖書学に携わることはできないのでしょうか。 それとも、本当のクリスチャンはもっと少ないのでしょうか。 それとも、普通に言われているように百万人くらいはいるのでしょうか。 そんな曖昧な揺れ動く選抜条件によって、聖書学を縛ろうというのでしょうか。 (曖昧にしているから、キリスト者のゆるやかな連帯が保たれているのですが。)

さて、これだけ自信をもって聖書について語られるのですから、岡野さんは、 好んで引用しておられる「新改訳」が別の意味で問題のある翻訳だということも、 常識として当然知っておられるのでしょう。 つまり、根本主義の方向に歪められた翻訳だということを。

有名な実例を一つ挙げますと・・・・ 「安息日は人のためにあるもので、人が安息のためにあるのではない。 それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」(マルコ二・二八、口語訳)。

この「それだから」を、私の手元にあるどの訳も訳出しています。 口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳、文語訳、田川建三訳、荒井献訳、 前田護郎訳、岩隈直訳、塚本虎二訳。

ただ新改訳だけが訳出していません。 「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。 人の子は安息日にも主です」(同、新改訳)。

なぜあえて、この「それだから」を訳さないのでしょうか。 それは、ここが蟻の一穴とでも言うべき要の点、「人の子」の意味の分岐点だからです。

「人の子」のもっとも自然な意味は「ひとりの人」です。 そこには、小ささ・弱さのニュアンスの込められることも多いですから、 「ただのひとりの人」「一個の人間にすぎない存在」という感じでもあるでしょうか。 イエスは好んで自らを「ただのひとりの人」と語ったわけです。

これが「私」という意味でないことは、イエス以外の人が自分を指して 「人の子」と言っていないことから明らかです。 また「人の子」がメシアの意味を帯びるのは、ダニエル書以降に徐々に 発達したことであって、それがために基本的な意味用法が消えたわけではありません。

たとえば宮崎虎之助なる怪しい人物がいて、メシアを自称したとしましょう。 彼はこう言うかもしれません。 「皆の者、静まれ。心して、メシアの言葉を聞け。」 この「メシア」は自分のことを指していますから、「私」と置き換えても意味は通じます。 聴衆はそこに「宮崎虎之助」なる固有名詞を代入して理解することも可能です。

しかし、そのような書き換えは決して等価ではありません。 自分のことを「私」と言わず、あえて「メシア」と名乗ったところには、 「私こそメシアだ」という強固な自意識があふれ出しているのです。

ではイエスも、メシアというニュアンスで「人の子」を自称したのでしょうか? もちろん、そう解釈することは可能です。 しかもそうすれば、福音書の調和と一貫性とが保たれます。 ただ一カ所、このマルコの個所を除いて。

「安息日は人のためにあるもので、人が安息のためにあるのではない。 <だから>、メシアである私は、安息日にもまた主なのである。」

この<だから>はまるで無意味です。次の<だから>と同じように。 「神は人間を愛しておられる。<だから>神はご自身の独り子を愛しておられる。」 だから、新改訳はこの<だから>を割愛しました。 だから、マルコを引用したマタイやルカは、その前半をすべて削除しました。

この<だから>を生かすのは、次のような文です。 「神は人間を愛しておられる。<だから>この弱く小さなはかない者 〔と言いながら自分を指す〕をも愛しておられる。」

同じく 「安息日は人のためにあるもので、人が安息のためにあるのではない。 <だから>、ただのひとりの人〔と言いながらイエスは自分を指した〕は、 (あらゆる律法に対してと同様)安息日に対してもまた主なのである。」

<だから>はこうして、前後を結びつけます。 これがマルコの真意、マタイやルカや新改訳が理解しなかった文脈です。

となると、イエスのほかの言葉の中の「人の子」も 解釈しなおす必要が出てきますね。

自分のことを「ただのひとりの人」と呼ぶということは、 そこに何の特権意識もないということです。 「ただのひとりの人」として宣言するということは、 すべての人に当てはまることを語ろうとしているということです。

本当は「人の子」はすべて「ただのひとりの人」と訳しておくべきだったのかも しれません。そうすると、終末に到来する救い主のことを呼ぶのに、 メシアとかダビデの子とか言うよりも、好んで「人の子」と呼んだそのニュアンスも 実感できるはずです。

「天変地異のさなかにやってくる救い主は、実はそんなに恐ろしい人じゃないよ。 彼もまた、ただのひとりの人なんだよ。」 そこには、「彼もただのひとりの人、私もただのひとりの人」という 不思議な連帯感さえ浮かび上がってきます。

「人の子」の意味ひとつ変えるだけで、聖書は実に異なる光彩を放ち始めます。 むしろそういう読み方のほうが、聖書の味わい深いものにしてくれます。 それにはまず、聖書の矛盾を認めることから始めなければ。 そうですよね。

なんだか言いたい放題ばかり書かせていただきましたが、 また感想文でも送らせていただきます。 佐倉さんの今後の活躍に期待しております。

それではまた。

BY 長谷川順旨


(1)「書物としての聖書」と「神の言葉としての聖書」


ところで、田川建三さんの書物を読まれたことはありますか。 たとえば『書物としての新約聖書』 (勁草書房、1997)とか。 もし読まれたことがなければ、一度読んでみられるといいですよ。
田川建三さんの共観福音書訳(講談社)は読んだことはありますが、そのほかにはありません。機会があったら読んでみたいと思います。タイトルの「書物としての…」という表現は、「神の言葉としての…」に対応する刺激的な表現です。

(2)「新改訳」によるマルコ2章28節の翻訳


「新改訳」が別の意味で問題のある翻訳・・・つまり、根本主義の方向に歪められた翻訳・・・
マルコ2章28節の翻訳について、念のため、わたしもいくつかの英訳を調べてみましたが、それらは次のように、「それだから」をちゃんと訳出しています。
The sabbath was made for humankind, and not humankind for the sabbath; so the Son of Man is lord even of the sabbath. (NRSV)

The sabbath was made for man, not man for the sabbath. That is why the Son of Man is lord even of the sabbath. (New American Bible)

The sabbath was made for man, not man for the sabbath. So the Son of Man is Lord even of the sabbath. (NIV)

ついでに、マルチン・ルターのドイツ語訳も見てみましたが、それもやはり、「それだから」を訳出しています。
Der Sabbats ist um des Menshen willen geschaffen und nicht der Mensh um des Sabbats willen. So ist der Menshensohn ein Herr auch uber den Sabbat.
新改訳が「それだから」を脱落させているのはとても興味深い事実だと思います。なぜなら、わたしには、聖書翻訳が翻訳者の信仰に影響されるのは当然だと思われるのですが、「新改訳」は原文に忠実であろうとした、と信じている人もあるようですから。

ご存じかも知れませんが、英訳聖書のなかでも、「根本主義の方向に歪められた翻訳」がありますが、そのなかでも、The Living Bible は極めつけのものです。それによると、この問題のマルコ2章28節は次のようになっています。

But the Sabbath was made to benefit man, and not man to benefit the Sabbath. And I, the Messiah, have authority even to decide waht men can do on Sabbath days!
この訳によれば、「それだから」ではなく、「そして("And")」です。しかも、驚くべきことに、「人の子」の部分では、「わたし、メシア」などというふうに、翻訳というよりも、むしろ書き換えとでもいうべきことがなされています。

どうやら、この現代語訳の翻訳者たちが読者に伝えようとしているのは、聖書の真実ではなく彼らの信仰のようです。