佐倉さん、はじめまして。

私は柴田という、一クリスチャンです。 正式に聖書を学んだことはありません。 ですから、私を素人の聖書愛好家と思って下さると助かります。

この度、このHPを拝見させて頂きまして、大変難しい用語が飛び交いながらも、真剣に討議されているようですので、私は素人として、自分の思うことくらいの意見を述べたいと思います。

まず、ノアの洪水の話が、聖書が書かれた時代より古い時代の書物にあったところで、当然と考えるのが普通です。

クリスチャンと言うと、非科学的なことをうのみに信じている人々というイメージが、世の中にあるかもしれませんが、実際に教会に通っていれば、いやがおうでも聖書がどのように書かれたかも学びます。だから、社会からかけ離れた思想の持ち主なんてことはないのです。だから、キリスト教に不信を抱いている人も、せめて、勉強のためだけでもいいので、教会に通ってみるといいと思います。

さて、私は、『聖書ハンドブック』(ヘンリー・H・ハーレイ)(初版は1953年、私のは3版1989年)という本を持っています。これは、キリスト教界ではかなり有名なので、聖書を勉強したいと考えるクリスチャンは、持っている人も多いと思います。(私は教会の先生から誕生日プレゼントでもらってしまいました。ハイ。)

その『聖書ハンドブック』ですら、洪水に関するバビロニアの伝説(P74)として、ノアの洪水の話に酷似した記録文書について書いてあります。

それもそのはず、ノアの箱舟がたどりついたとされるアララテ山から、ユーフラテス川が流れてあり、そのそばをチグリス川が流れている。その辺りにメソポタミア文明が起こり、バビロンとニネベが世界の主要都市となったそうな。(P81)

ちなみに、アブラハムはそのユーフラテスの河口にあったウルという町出身である。

ノアがたどり着いたところに、ノアの話が広まって当然であり、もっとも具体的に伝わっているのが普通である。当然文書化されたろう。

聖書はあとから書かれたかもしれないが、真実を書いてあるのだから、バビロニアの文書と内容が同じであっても、不思議ではない。それどころか、聖書の方がもっと具体的であり、もっと昔からのことも書いてあり、ずっと続いて書いてある。聖書では、ノアの話は一部だ。バビロニアの文書はバビロニアに関することがあって当然だが、聖書は別のテーマで書かれてあり、その一部がノアの話なのです。バビロニアの文書が聖書の記述にかなうわけありません。バビロニアがノアの記述を書くなら、せいぜい物語調にするのが精一杯でしょう。

しかし、聖書は物語りではすまされません。ノアの記述も、系図や地名や神と人間のやりとりなどもしっかり述べています。

バビロニアの文書が元であるなら、その位のことをしてみてちょ。

第一、聖書があとから書かれたと、劣った言い方をされたくはないです。たしかに、編集されたのは後でしょう。しかし、ノアの箱舟には、洪水前の文書が積まれてあったと思われるので、それをもとに書いたのなら、洪水後に書かれたバビロニアの文書より、洪水前の文書の方が先だ。洪水前のことも詳しく述べられている聖書に洪水後のバビロニアの文書が勝てるわけがありません。

聖書の洪水の記述とバビロニアの洪水の記述が似ているからといって、格が全然違います。もちろん、聖書の方が、詳しく、しかも、発掘調査の太鼓判は次々押されています。

あとから書かれたから盗作だ、などと、私は、口が裂けても言えません。

だから、ノアの洪水の話が人間の創作だといいたければ、発掘、とくに、地層などを調べてから言って下さい。ところが、バビロニアの少なくとも3ヶ所で、洪水が事実であったことを裏付ける洪水体積層がとっくに確認されています。

ノアの洪水物語が人間の創作だったなどと、おっしゃるお方は、この道の素人ならしょうがないが、研究家としては、いかほどのお方なのでしょう。

御返事よろしくお願い致します。

柴田


御返事がまだのようです
2001年1月21日

佐倉さん、こんにちは。

先日「ノアの話は盗作だ」に反論を送った柴田です。御返事がまだのようですが、どうしましたか。

聖書の一部をあからさまに盗作扱いしたのですから、聖書の著者である、主なる神様に宣戦布告したくらいのことを考えておいて下さい。

あなたは神様の恩恵を受けておりながら、神様の血と涙の愛のことばを盗作として公に公表したのですから、神の恩恵は、もう要らないということでしょうか。それに、公に聖書を盗作呼ばわりすれば、当然、論争が起きるものです。しっかりと反論を送り返して下さい。

黙っていれば私が引き下がるだろうとお考えでしょうか。かりに、私が引き下がっても、只では引き下がりません。別に悪さをするわけではありませんが、私の主に、こう申し上げざるを得ません。

「佐倉さんはあなたの文書を盗作として公表し、その反論には答えず、しかもなおも公にしたままです。神の恵みを偽りとして扱ったのですから、神の恵みは要らないものと考えられます。すでに祝福は少なくなってしまっていると思いますが、残りの祝福も引き上げてしまって下さい。」

また、聖書にこうあります。(ローマ1:28〜)「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、(中略)死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっている(後略)」

そういう訳で、佐倉さん、真摯にうけとめ、お答え下さい。

そういえば、ベン・ハーという映画をつくった人の話を聞いたことがあります。キリストが大嫌いで、聖書の誤りを徹底的に捜し出し、その矛盾を世界に公表しようとした人がいました。そんじょそこらの研究ではなく、とくに、あなたのような、浅いふぬけの研究ではなく、世界を相手に戦いをいどむほどの研究でした。彼が、徹底的に聖書を調べ、あらゆる考古学等の調査を行なった結果、やっと第1章を書き上げることができそうになりましたが、結局、第1章を書き上げる前に、「聖書は真実だ、これぞ、神のことばだ!」という結論に達してしまい、そして、映画『ベン・ハー』を作りました。

あなたはどういうたちでしょうか。浅い研究では、聖書の真理に目覚めることが出来るかどうか、心配です。

だから、疑問があれば、早目に私にメール下さい。私は聖書には素人ですが、私の方がまだましな研究者といえるでしょう。とくに、読解力では、あなたのようにまったく国語から逸脱してはいませんので、大丈夫です。精一杯お答えします。

では、よろしくお願い致します。

柴田

(1)「非科学的なことをうのみに信じている人々というイメージ」

ノアの箱舟には、洪水前の文書が積まれてあったと思われるので、それをもとに書いたのなら、洪水後に書かれたバビロニアの文書より、洪水前の文書の方が先だ・・・
ノアの洪水などという「全世界を覆う洪水」が本当にあったと単純に思い込んでしまうところに、「クリスチャンと言うと、非科学的なことをうのみに信じている人々というイメージが、世の中にある」のではないでしょうか。

同様に、人間が930歳まで生きたとか(創世記5章)、「神の子たち」(天使たち?)が美しい人間の娘たちとセックスして子どもを産ませて「ネフィリム」という人種(?)をつくったとか(創世記6章)、太陽がまる一日、中天に止まったとか(ヨシュア記10章)、墓が開いて死人が生き返り、多くの人々のまえに現われたとか(マタイ27章)、人間が水の上を歩いた(マタイ14章)等々-- このような荒唐無稽なことが事実であるかのごとく書かれている『聖書』というものを「誤りのない真理」であると信じるのなら、「非科学的なことをうのみに信じている人々というイメージ、世の中にある」のも当然だと思います。


(2)ノアの洪水に関する考古学的証拠

しかも、発掘調査の太鼓判は次々押されています。・・・ノアの洪水の話が人間の創作だといいたければ、発掘、とくに、地層などを調べてから言って下さい。ところが、バビロニアの少なくとも3ヶ所で、洪水が事実であったことを裏付ける洪水体積層がとっくに確認されています。
単なる洪水なら、世界中至る所にありますが、ノアの物語の言うように、西暦前2400年ごろ、世界中を覆い尽くし、ノアの家族以外のすべての人類が滅んだ、などという考古学的発見はまったくないどころか、世界中の考古学的発見は、ノアの物語が嘘であることを証明して余りあります。

まず、聖書の言う洪水はいつ起こったのか、聖書の語るところを調べてみましょう。「歴史学者の一致した意見」(P. Kyel MacCarter, Jr, "The Patriarchal Age: Abraham, Isaac and Jacob", ANCIENT ISRAEL, p.2)によると、ソロモン王が死んだのは西暦前930年前後であるということらしい。そこで、一応、この年から換算しますと、ソロモンの統治期間が40年であったという記述(列王記上、11:42)と統治四年目に神殿を作り始めたという記述(同、6:1)から、ソロモンの神殿の建築事業は西暦前966年(930+40−4)に始まったということになります。

さらに、この神殿が作り始められたのは「イスラエル人がエジプトの地をでてから480年目」であったという記述(同、6:1)から、イスラエル人がエジプトの地を出たのは西暦前1446年(966+480)であったということになります。また、「イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は430年であった」という記述(出エジプト記、12:40)から、ヤコブの家族がエジプトに入ったのは、西暦前1876年(1446+430)であったということになります。

さらに、ヤコブの家族がエジプトに入ったときのヤコブの年は130歳であったという記述(創世記、47:9)と、ヤコブが生まれたのはイサクが60歳の時であったという記述(同、25:26)と、イサクが生まれたのはアブラハムが100歳の時であったという記述(同、21:5)から、アブラハムが生まれたのは西暦前2166年(1876+130+60+100)であったということになります。

さらに、テラが70歳の時にアブラハムが生まれ、ナホルが29歳の時テラが生まれ、セルグが30歳の時にナホルが生まれ、レウが32歳の時セルグが生まれ、ペレグが30歳の時レウが生まれ、エベルが34歳の時ペレグが生まれ、シェラが30歳の時エベルがうまれ、アルパクシャドが35歳の時、シェラが生まれたという記述(同、11:12〜26)がありますから、アルパクシャドが生まれたのは、西暦前2456年(2166年+70+29+30+32+30+34+30+35)であったということになります。

さて、創世記11章10節には、

セムが百歳になったとき、アルパクシャドが生まれた。それは洪水の二年後のことであった。
と記されていますから、洪水が起こったのは、西暦前2458年(2456+2)であったということになります。

この年代計算は、ソロモン王が死んだのは西暦前930年前後であるという歴史学者の想定から出発したのですが、その想定の誤差値は前後10年だそうですから、洪水が起こったと想定される年は、はやくて西暦前2468年(2458+10)、おそくても西暦前2448年(2458ー10)であったということになります。

そこで、もしこの時期に、本当に聖書の言うような、全世界を埋め尽くし、箱船に乗ったノアの家族を残して、すべての人類は滅んだと仮定すると、どういうことになるでしょうか。世界の歴史がまったく解釈不可能となります。

たとえば、日本の縄文時代の縄文土器の発展史です。西暦前2400年ごろと言えば、縄文時代の中期に当たります。もし、この時代に、聖書の言うように、ノアの洪水が起こったのなら、それ以前のすべての縄文人は洪水で死んでしまったことになりますから、ノアの子孫がはるばる中東から、のこのこと日本列島にやって来て、過去にそこに住んでいた縄文人と同じような人種と変身し、すでに滅んでしまったそれ以前の縄文文化を復活させて、それを発展させつづけたなどという、ほとんど不可能な縄文史解釈となります。日本の縄文遺跡は聖書の記述の歴史的間違いを証明しているのです。(「縄文人はノアの子孫か?」参照)

エジプトの歴史など見れば、もっとあきらかです。

エジプト古代史聖書の記録
前5000〜3100年先王朝時代
前3100〜2650年初期王朝時代(第1〜2王朝)
前2650〜2160年古王国時代(第3〜6王朝)ノアの洪水
前2160〜2040年第一中間期(第7〜10王朝)
前2040〜1786年中王国時代(第11〜12王朝)
・・・以下略

エジプト語の歴史を見ても、政治的変遷史を見ても、また、ピラミッドなどの発展史をみても、エジプトの言語、文化、政治、宗教は、段階的に歴史的変化をしています。もし、聖書の洪水記述が正しいとするならば、西暦前2400年ごろの大洪水で、エジプト人総てが死に、メソポタミアの方からノアの子孫が、テクテクとやって来て、すべて滅んでしまったはずの、エジプトの言語、文化、政治、宗教、等々を、何らかの方法で復活させ、継承したという、ほとんど不可能なエジプト史解釈をしなければならなくなります。

さらに、西暦前2400年ごろのインダス川流域では、かのインダス文明ハラッパー文化が花開きます。つまり、聖書の記述を信じれば、そのころ、世界の人口は数十人しかいなかったはずなのに、日本では縄文文化が花開き、ナイル川流域のエジプト文明が花開き、インダス流域では、インダス文明が花開いていたのです。

つまり、世界中の考古学事実は、聖書の洪水物語が嘘であることを証明しています。


(3)のんびりおつきあいください

先日「ノアの話は盗作だ」に反論を送った柴田です。御返事がまだのようですが、どうしましたか。
田中さんへ 00年12月15日」を参照してください。今回は、そのうえ、風邪で寝込んでしまいました。


(4)クリスチャンの本音

黙っていれば私が引き下がるだろうとお考えでしょうか。かりに、私が引き下がっても、只では引き下がりません。別に悪さをするわけではありませんが、私の主に、こう申し上げざるを得ません。

「佐倉さんはあなたの文書を盗作として公表し、その反論には答えず、しかもなおも公にしたままです。神の恵みを偽りとして扱ったのですから、神の恵みは要らないものと考えられます。すでに祝福は少なくなってしまっていると思いますが、残りの祝福も引き上げてしまって下さい。」

なかなか、こうも正直に、本音を語るクリスチャンには会えないものです。正直さに感謝し、敬意を表します。