佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

川口さんより

00年6月22日

97.10.19のsamtsumiさんへの佐倉さんの応答について御質問とわずかばかりの御意見 を書かせていただきます。

1 バーラーについては、samtsumiの意見に賛成しています。  これに対する佐倉さんの御意見は今一つ説得力が無いと思います。人間は、自分が できないことについても想像でき、その概念を頭に描くことができるからです。神様 も何もないところから、創造できると思います。  実際、佐倉さんも、天地創造の見たこともない出来事について判断しようとしてい るのではないでしょうか?

2 佐倉さんは、農業について学ばれたことはありますか?植物は、太陽が見えてい ない曇りの日にも十分に光合成を行い、成長しているんですよ。水蒸気が被っている からといって金星や木星などのような分厚い大気を想像する必要がないのではと思い ます。太陽の輪郭が見えないで、しかも光りが程よく届く状態を神様が用意できない ことがあるのかと思います。神様がそうされたら、そうできるのではないでしょうか 。

3 「見えるようにしただけなら、、バランスが崩れる」というのも、今一つ大雑把 な観察だと思いますよ。佐倉さんが他のことについてと同じ位、ちゃんと考えられた らこのようなリストをあげられることはなかったでしょう。  一つの理由は、空の上の水(シャーマイム)と空の下にある水(マイム)はもとも と一つのもので、その境目として空という部分ができたからだと思われるからです。 見えるようにしただけではないのでしょうが、いわゆる光りを造られたという造った というのとは意味が違うでしょう。

 陸地を創造したというのも、佐倉さんにしては早まった表現だと思います。これも 造ったのではないからです。 丁度、水蒸気が薄くなり、太陽がよりはっきり見えるようになったように、海水が引 き陸地が見えるようなったのです。

 基本的に、創造の物語りは、人間が手で何かを造ったというのとは違い、神がそう なるように語られたらそうなったという大きな概念があるのではないかと思います。 その中で、人間に理解できやすく、文学的にも豊かな表現である単語を用いているの ではないかと思います。

 明らかに、佐倉さんのリストは、自分の主張を支持するために、根拠をつくり出そ うとしているものと思われます。でも、もしかしたら気がつかなかっただけなのかも しれません。少し言い過ぎたかもしれません。ごめんなさい。





作者より川口さんへ

00年7月9日

(1)バーラーについて

バーラーについては、samtsumiの意見に賛成しています。・・・神様も何もないところから、創造できると思います。 実際、佐倉さんも、天地創造の見たこともない出来事について判断しようとしているのではないでしょうか?

samtsumiさんのご意見は「バーラー」というヘブライ語は、「何もないところから造る」を意味するのではなく、すでにある素材から「組織するま たは形造るを意味しています」、というものでした。それに対して「samtsumiの意見に賛成しています。・・・神様も何もないところから、創造できると思います」というのでは、お話がずれていると思います。

さらに、「佐倉さんも、天地創造の見たこともない出来事について判断しようとしているのではないでしょうか?」というご批判も理解しかねます。天地がどのように創造されたかどうかなどについては、わたしはなにも語っていないからです。


(2)「光りが程よく届く状態」

植物は、太陽が見えていない曇りの日にも十分に光合成を行い、成長しているんですよ。水蒸気が被っているからといって金星や木星などのような分厚い大気を想像する必要がないのではと思います。太陽の輪郭が見えないで、しかも光りが程よく届く状態を神様が用意できないことがあるのかと思います。神様がそうされたら、そうできるのではないでしょうか。

このご意見は、昔からファンダメンタリスト・グループのなかをたらい回しにされている護教論のひとつです。その間違いは岡崎さんからのお便への答えですでに述べております。

この解釈には、すくなくとも二つの問題点があります。先ず、第一に、もし第四日目までは地球と太陽が遮断されていたとすれば、太陽のエネルギーを必要とする植物が第三日目にはすでに地上に生成していた、という[聖書の]記述が依然として説得力をもたないことになります。また、植物が生成するに必要な太陽エネルギーは地上に届いていた、というふうな解釈をすれば、第四日目になって始めて太陽が姿をあらわした、という解釈そのものが怪しくなってしまいます。


(3)「造った」のではなく、「見えるようにした」?

空の上の水(シャーマイム)と空の下にある水(マイム)はもとも と一つのもので、その境目として空という部分ができたからだと思われるからです。 見えるようにしただけではないのでしょうが、いわゆる光りを造られたという造った というのとは意味が違うでしょう。

だったら、「分けた」と書いているように、「見えるようにした」と書けばよいのです。そうではなく、

それで神は二つの大きな光るものを造られた。・・・また星を造られた。神はそれらを天の大空に置[かれた]。(創世記1:16〜17)
と書いてあるわけです。これはどう読んでも「すでに造ってあった太陽と月と星をたんに見えるようにした」というふうには解釈できません。聖書には間違いがないという信仰を正当化するために、あとから無理やりにこじつけた曲解にすぎないことは明らかです。

それに、いま気がついたのですが、もし、第四日目の創造が「見えるようにした」だけなら、天地創造物語の中には、太陽や月や星の創造の記述はない、ということになります。


(3)主張の根拠

明らかに、佐倉さんのリストは、自分の主張を支持するために、根拠をつくり出そうとしているものと思われます。

もちろんそうです。他人に自分の主張をするからにはその根拠を提示するのがわたしの方針です。聖書信仰者のように、何の根拠もなく、聖書には間違いがないと主張したり、「四日目に、神は太陽と月と星を造って、大空に置いた」という聖書のことばを、何の根拠も提示しないで、「すでにそれまでに造られていた太陽と月と星が、四日目に見えるようになった」と解釈することはしません。


おたより、ありがとうございました。


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