佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


  ホー   キリスト   聖書の 間違い  来訪者 の声 

K.M.さんより

00年2月23日


「『永遠の命』の思想 --- 聖書の伝統からの逸脱 ---」 に対する反論 その3


個人の生命が永遠に続くことを説く新約聖書(キリスト教)は、本来の聖書の教えから逸脱した宗教なのです。

「“『永遠の命』の思想--- 聖書の伝統からの逸脱 ---”に対する反論 」 作者よりK.M.さんへ

本当にそうでしょうか。以下の聖句はそうではないことを示しています。
 

「わたしは、まことの神が造られるすべてのもの、それは定めのない時に至るまで存続することを知るようになった。それに加えるべきものは何もない。まことの神がそれを造られたのである。それは、人々が神のゆえに恐れるためである。」―伝道の書 3:14

「わたし[知恵]を見いだす者は必ず命を見いだし、エホバからの善意を得る。」―箴言 8:35

「塵の地に眠る者のうち目を覚ます者が多くいる。この者は定めなく続く命に……至る。」―ダニエル 12:2

「陰府の支配からわたしは[イスラエル]を贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみはわたしの目から消え去る。」―ホセア 13:14、新共同訳
 





作者よりK.M.さんへ

00年2月27日


1.伝道の書

「わたしは、まことの神が造られるすべてのもの、それは定めのない時に至るまで存続することを知るようになった。それに加えるべきものは何もない。まことの神がそれを造られたのである。それは、人々が神のゆえに恐れるためである。」―伝道の書 3:14

(エホバの証人の新世界訳)

わたしは知った。すべて神のみ業は永遠に不変であり  付け加えることも除くことも許されない、と。 神は人間が神を畏れ敬うように定められた。

(新共同訳)

私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を畏れなければならない。

(新改訳)

これは、「神のみ業」が永遠不変であることを述べているのであって、人間の個人の命が永遠に続くことと解釈するのはすこし無理だと思います。キリスト教〔新約聖書)の色眼鏡で本来の聖書(旧約聖書)を見るから、このような句まで、人間個体の永遠の命について書いてあると思われてくるのではないでしょうか。しかも、この部分は、次のように続いています。

人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊を持っているに過ぎず、人間は動物に何ら勝るところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。

(同、3:19〜21、新共同訳)

さらに、読み進んでいますと、

いつかは行かなければならないあの陰府には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。

(同、9:10)

とも書かれています。


2.箴言8章

「わたし[知恵]を見いだす者は必ず命を見いだし、エホバからの善意を得る。」―箴言 8:35
ここでも、個人の命の永遠性を読み込むのは無理だと思います。やはり、キリスト教〔新約聖書)の色眼鏡で本来の聖書(旧約聖書)を見ることから生じる錯覚とおもわれます。ここでは、知恵を見出すものは神に祝福されるという一般的な教えが説かれている(そのことを「死」に対する「命」という言葉で文学的に表現しているだけ)のであって、同じようなことを述べている11章を見ると、そのことはもっとはっきりすると思います。
慈善は命への確かな道。悪を追及する者は死に至る。・・・悪人は何代を経ようとも罰を逃れえず、神に従う人の子孫は免れる。(同上、11:19〜21)
となっています。人間の善悪の行為に対する神の祝福や罰は、個人の命の永遠性やその否定としてではなく、子孫への影響として考えられています。

本来の聖書における神の人間に対する祝福とは、常に、子孫が繁栄することでした。たとえば、アダムとエバには「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1:28)、生き残ったノアの家族にも「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(同9:1)、イスラエルの太祖アブラムにも「わたしはあなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」と祝福しています。個人が永遠の命を得るというキリスト教的(新約聖書的)祝福の考えは、やはり、本来の聖書(旧約聖書)の考え方ではないと思われます。


3.ダニエル書12章

「塵の地に眠る者のうち目を覚ます者が多くいる。この者は定めなく続く命に……至る。」―ダニエル 12:2
すでに何度か指摘していますように、現代聖書学の成果が正しければ、ダニエル書の7章以降は、もともとダニエル書にあったものではなく、キリスト教が生まれる少し前(西暦前164年前後)に付け加えられたものです。それは、いわゆる、旧約外典や偽典をたくさん生み出した終末思想運動(キリスト教もその一部に過ぎません)のまっただ中に作成されたもので、その内容も形式も、本来のダニエル書〔1章〜7章)と、かなり異質なものです。ダニエル書の7章から12章までは、分類上、旧約偽典に所属するものです。このことについては、すでに、「作者より魚の切り身さんへ 」で詳しく説明しました。(「「世の終わり」思想の源流」も参照になるでしょう。)


4.ホセア書13章

「陰府の支配からわたしは[イスラエル]を贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみはわたしの目から消え去る。」―ホセア 13:14、新共同訳

ホセア書全体の中から、その前後の脈絡を無視して、この限られた部分だけを取り出して独立したものとして読むとき、人間の死を否定しているようにも見えます。パウロも同じような間違いを犯しています。(コリント第一15:55)このような誤読が、パウロが所属していたユダヤ教パリサイ派のドグマ(そしてそれを引き継いだキリスト教の永遠の命の思想)を正当化したのです。

ホセア書は短い書ですから、始めから終わりまで、一気に読まれることをお勧めします。それが面倒なら、引用されている13章全体〔2頁ほど)だけでもよろしいでしょう。そうすれば誤読が明らかになります。エホバの証人の「聖書研究」でやるように、エホバの証人の出版物を読みながらそれが聖書引用している部分だけを読む、といった要領で「聖書研究」をしていると、パウロと同じように、前後の脈絡を無視した(ドグマ正当化のための)誤読に陥ることとなるでしょう。

ホセアは、イスラエル民族が南北(北方イスラエル王国と南方ユダ王国)に分裂していた時代の預言者(神の言葉を預かる者)であり、この書は、その始めから終わりまで、預言者(神の言葉を預かる者)としてのホセアが、これらのイスラエル民族に対して、豊かなメタファー(隠喩)を駆使しながら、その不信仰と罪を戒め、イスラエルの神ヤーウェ(主)への信仰にもどることを呼びかけたものです。

ホセアは、あるときは、ヤーウェ神とイスラエル民族を夫と妻の関係になぞらえて、イスラエルの不信(異教のバアル神への偶像崇拝)を「姦淫」の罪として弾劾し、あるときはその関係を親と子になぞらえてヤーウェ神のイスラエルに対する愛を悟らせてイスラエルの民がヤーウェにたちもどることを訴えます。

告発せよ、おまえたちの母を告発せよ。彼女[イスラエル]はもはやわたし[ヤーウェ神]の妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない。彼女の顔から淫行を、乳房の間から姦淫を取り除かせよ。・・・彼女は言う。「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨で塞ぎ、石垣で遮り道を見出せないようにする。彼女は愛人の後を追っても追いつけず、訪ね求めても見出せない。その時、彼女は言う。「初めの夫のもとに帰ろう、あのときは、今より幸せだった」と。彼女は知らないのだ。穀物、新しい酒、オリーブ油を与え、バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのはわたしだということを。(2:4〜10)

まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼らを呼びだし、わが子とした。わたしが彼を呼びだしたのに彼らはわたしから去って行きバアルに香をたいた。エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らを癒したことを彼らは知らない。(11:1〜3)

そこで神はイスラエルの罪に対して滅びの警告を行ないます。しかし、その警告は救いの約束を伴っています。
懲らしめの日が来れば、エフライムは廃虚と化す。・・・エフライムは蹂躙され裁きによって踏み砕かれる。・・・わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。(5:9〜15)

剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者たちを断ち、たくらみのゆえに滅ぼす。わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることはない。

ああ、エフライムよ、おまえを見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。(11:6〜9)

引用されている13章も同じように、イスラエルの民〔エフライム)に対する神の滅びの警告が、「死」のメタファー(隠喩)で語られているのです。〔救いの約束は続く14章、最終章で語られます。) エフライムが語れば恐れられ イスラエルの中で重んじられていた。しかし、バアルによって罪を犯したので彼は死ぬ。・・・(13:1)

エフライムの咎はとどめておかれ その罪は蓄えられておかれる。産みの苦しみが襲う。かれは知恵のない子で 生まれるべき時なのに、胎から出てこない。 陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪い[疫病]はどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみはわたしの目から消え去る。 エフライムは兄弟の中でもっとも栄えた。しかし熱風が襲う。主の風が荒れ野から吹きつける。水の源は涸れ、すべての富、すべての宝は奪い去られる。 (13:12〜15) 「バアルによって罪を犯したので」、イスラエル(エフライム)は「死ぬ」のです。しかし、この「死」が、人間個体の死ではなく、「水の源は涸れ、すべての富、すべての宝は奪い去られる」ということのメタファー(隠喩)であることはもうあきらかでしょう。このイスラエルの滅びの状態(「死」)は、彼らの度重なる不信仰と罪の故の結果であり、それは神にとっても仕方のない(「憐れみはわたしの目から消え去る」)ことなのです。その絶望状況が、

陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪い[疫病]はどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみはわたしの目から消え去る。(13:14)
という表現で語られているのです。すなわち、「わたしは死(滅びの状態)からイスラエルを解き放つだろうか。解き放ちはしない。なぜなら、死(滅びの状態)にはなんの罪もなく、罪はむしろイスラエルにあるからだ。イスラエルに対するわたしの憐れみも消えうせるほどである」、ということが語られているのです。それはイスラエルに神への回帰を促すためのメッセージです。

明らかに、ホセアは、ここで人間個体の永遠の命などについて語っているのではなく、人間の「死」と「再生」のメタファー(隠喩)を駆使して、イスラエルの滅びと回復(救い)について語っているのです。続く14章〔最終章)を読めば、そのことは、もう疑う余地もありません。

イスラエルよ、立ち帰れ。あなたの神、主[ヤーウェ]のもとへ。・・・ああエフライム なおも、わたし[ヤーウェ]を偶像と比べるのか。彼[イスラエル、エフライム]の求めに答え、彼[イスラエル、エフライム]を見守るのはわたし[ヤーウェ]ではないか。わたし[ヤーウェ]は命に満ちた糸杉。あなた[イスラエル、エフライム]は、わたし[ヤーウェ]によって実を結ぶ。(14:1〜9)
人間の「死」と「再生」のメタファー(隠喩)を駆使して、イスラエルの滅びと回復(救い)について語っているのは、ホセア書だけでなく、イザヤ書やエゼキエルなど、旧約聖書においてはしばしば用いられている文学的手法です。そこに、人間個体の永遠の命を読み込むのは、キリスト教〔新約聖書)の色眼鏡で、旧約聖書を読むからでしょう。


おたより、ありがとうございました。


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