あなたの見解を明確にしていただきまして感謝いたします。 そして、あなたとの意見交換が意義深いものでると考えています。

『聖書』の内容について研究したり議論すればするほどに真の信仰からは遠ざかることは歴史上のいかなる有識者・哲人においても明らかです。

信仰者にとっての『聖書』とはあたかも不治の病人にとっての『最後に残された希望の新薬』のごとくに、もはやそれ以外には救いの道がないものであります。しかも、必ずその道で救われるかは本人にしか自覚できないものです。

つまりは、『聖書』とは病に苦しまぬ健康であると自覚する者にとっては、全くの不要物でしかありません。それどころか、その神秘性に関して理性や知性で理解しようとすればするほどに、かえって不毛の結論しか見出せません。

真のキリスト信仰に至るものの道は「自己の醜さと罪の自覚」を超えなくては絶対にありえないものです。単なる教会の洗礼や祝福にによっての既成キリスト教的な儀礼の上にあっては、容易に道は築かれないでしょう。

孤独や疎外感や逃げることのできない自己との葛藤があってこそ、多くは信仰に至るものと信じます。『聖書』を単なる書物の一つとしてしか扱えないうちは真の『聖書』の価値や力やその神秘性を認めることは到底できないものなのです。

あたかも、単なる木や石でできた仏像に仏を見る信者や「戒律・教義」や教祖に隷属する宗教組織の人のごとくに、キリスト信仰者には『聖書』とイエスの生涯と教えは特別なものなのです。

そして、多くの宗教組織とは異なって、キリスト信仰とは個人とイエス(神)との直接契約と対話にあって、間接的な関係ではなく、もし、教会や聖職者を介することを必要とする信仰ならば、それは、本来の姿ではないのです。

ヒルティによれば、聖書を疑うものはまだ救われる望みがあると説きます。つまり、自己の覚醒によって、もはや、人生のやり直しをせざるを得なくなったときに、『聖書』の真の意義を知ることがあるチャンスが残されているからです。

私が多くの聖書研究者や聖職者の中に感じ取れる『聖書』に対する懐疑的思考については、彼等自身が自己を直視したことも、自己を嫌悪したこともないからだと考えます。

『聖書』は単なる書物ではないということを認識するには、まず、自分自身をいやというほどに知らされる試練に遭う必要があるでしょう。私にとっても、自身の人生を振り返ってそこから全く違う人生を歩まざるを得ない道に導かれる試練を与えられたからです。感謝なるはこの試練という恩恵です。この恩恵によって私自身には『聖書』の言葉は霊的な力を与えてくれるものとなりました。

もしも、試練なくして『聖書』研究にのぞめば私もあなたのように、小説や物語のひとつとしてしか見出せなかったでしょう。そして、信仰の意義すらも考える機会はなかったといえます。

ただ一つだけいえることは、真理は求めつづけたからこそ与えられたのです。私は『聖書』を恩恵として受け入れるまでに、人生の意義や真理を求め続けて多くの寄り道をしてきました。比叡山の千日廻峰行者と生活したり、自己啓発セミナーに参加したり、精神的な師を求めたりした結果の上に与えられた「魂の救い」への試練でした。

今の私は『聖書』こそが最大の福音であると確信しています。信仰は日々新たにその力を発揮してくれます。しかし、同時に『聖書』は正しきキリスト信仰と聖書の理解の為にはあまりにも誤解をもたらす書物ともなりうるものなのです。


追伸


あなたのホームページに記された意見や考察についての概要を改めて読み返した結果として、今一度意見を述べます。

『聖書』は神の義と愛の本源であり、人間の叡智では到底実現できない理想と思想に満ちた世界であると同時に神の創造したもうひとつの聖書的存在である『天然』のごとく荒地もあれば砂漠もあり、未開の地や不毛の地も存在します。そして、美しさだけでなく、激しき厳しき荒れ狂う自然現象のごとき面も存在します。この矛盾に満ちた存在こそがこの世の姿であり、当然ながら『聖書』にも示されています。

我々がこの世の真理や『聖書』の真理を正しく把握することは不可能であることを改めて自覚するべきです。現在の人類の叡智において未だ『聖書』の全貌を把握することができないことは、「天然」すらも解明できないことと何ら変わることのない事実であります。

『聖書』が素晴らしき神の証であることの唯一の証拠とは、その難解なるユダヤ人の歴史的預言書であるにもかかわらず、素直な心、傷ついた心、病んだ心の人にも、老若男女、古今東西の民族においても、平民であろうと権威者であろうともすべての人の自由意志に門戸開放された平等で公平に触れることのできる身近なる書物であるということです。

『聖書』にある神の言葉に矛盾を見出せたからといって、聖書がその真の価値を失うことではありません。『聖書』によって悟るべきことは、間違い探しや謎解きだけではなく、「神の計画」が現在は未完成であることにあります。

この世が神による完璧な完成作品でなく、来世にこそ人間が神に近づける真理が存在することの事実を確信することにあります。したがって、『聖書』自体に完全なるものを求めて真理を考えることは正しくありません。我々がこの世で生きることとは、たとえば、幼虫の芋虫が成虫には蝶という全く異なる形に変わるごとき来世があることを学ぶべきなのです。

我々がこの現世だけですべての真理を把握することが不可能であることを『聖書』は語っているに過ぎません。そのことを自覚したものだけが、『聖書』を記し、守り、存続させてきた無名の多く人々の最愛なる情熱を感じ取れるのです。

信仰にあるものには人生につまづいた時や孤独や喪失感に陥った時や傲慢やねたみに苦しむ時や喜怒哀楽にいたるあらゆる時に、『聖書』こそが正しき道への言葉と教えを示してくれて、勇気づけてくれ再生・復活・革新の精神を常に与えてくれる力の本源なのです。

どのような時代や国や社会や組織に属していようとも、自己の正しき道を指し示してくれるものこそが『聖書』であります。そして、この世は常に革新と再生の繰り返しでありますが、個人自体もまた精神的に常に革新・再生の繰り返しを必要とします。

個人個人が悔いのない生涯を送ることができるためには、理想的な環境(国・政治・経済・社会)に属することにあるのではなくて、各人に与えられた世界唯一の肉体と精神(魂)である自己(自我)そのものだけで充分満足した自己実現ができることを自覚することから始まります。

個人が個人として自由意志の上に自己実現を目指して社会参加して生きることが許されている理由をこれほどに判りやすく明確に示している挑戦的革新的な思想が他にあるでしょうか。

『聖書』はそれを必要としない者の敵意と反論の中にあっても何ら力を失うことのない書物であることにこそ、『聖書』の存在価値があるのです。その時代や場所を超越した孤高の存在は、いかなる悪意や堕落への誘惑にあっても決して滅びることはないのです。

そして、『聖書』の真の意義とは精神的に革新・再生・復活して生きようとする者や社会で孤立無援や迫害にある人や孤軍奮闘して戦っている人にとっての実践的・挑戦的なる精神・思想の根源であり原動力なのです。

(1)聖書信仰

今回のおたよりは、聖書信仰というものがいかにして成立しているのか、この問題についての貴重な証言となっています。田中さんの主張を簡単にまとめればつぎの二つになると思います。

(ア)聖書は信仰の対象であって、理解の対象ではない。
(イ)自己の救済が聖書に依存しているという思い込みが、聖書信仰の重要な根拠である。

それは、ほぼわたしが理解していたものと一致しているように思われます。


98年9月16日
[クリスチャンが]自分の信じている内容が間違っていることを指摘されても、それを「あまり切実には感じていない」理由は、一つしかありません。それは真理を知ることに興味を持っていないからです。クリスチャンは、真理を知ることよりも、自己の個人的な救いに興味を持っているために、自分の救いを否定しかねない真理を直視することができないのだろうと思いますが、それが、クリスチャンをして、真理の探究者ではなく、ドグマの奴隷にしているのだと思います。

いわば、自己の救いのための信仰への執着が、かれらの知的良心を麻痺させているために、聖書に間違いがあるとは認めたくないクリスチャンは、彼らの拡大解釈の非合理性が気にならず、また、「聖書は間違いがあっても神の言葉なのだ」というクリスチャンも、その主張の矛盾がまったく気にならないのだろうと思います。(「作者より奥野さんへ」)


98年7月31日
聖書の間違いを直視できないのは、真理を知ることよりも、あるいはまた、自己に正直であることよりも、おのれの救いばかりを優先させているからに違いありません。救いの根拠は聖書にあり、その聖書に間違いがあるとすると、救いの根拠がなくなってしまうので、こわくて、聖書の間違いを直視できないのだろうと想像いたします。(「作者よりポイラ村さんへ」)


98年7月7日
外から見れば、なぜ、「平気な顔をして」、聖書は神の霊感で書かれて間違えが無い、などと信じられ得るのか「不思議でなりません」が、信じているものの立場から見れば、とても真剣で、それ以外は考えられないような感覚を抱いていると思います。わたし自身の個人的な経験でもそうですが、オウム真理教の信者の証言などを見ても、やはり、自分の救いということを真実を知る努力よりも優先していることが、そのもっとも重要な要因となっているのではないかと思われます。だから、知的能力においてはいかなる意味でも劣っているわけではないにもかかわらず、信仰(教祖や聖書の権威への盲目的依存)という行為が、疑う(真実を見極める自らの努力)という行為よりも、圧倒的に価値あるものとして、おどろくべき安易さで、その心に受け入れられているのだろうと思います。(「作者より有本康夫さんへ」)


(2)無知の自覚

田中さんの熱っぽい証言が示すように、また、わたしがしばしば指摘するように、「自己の救済への執着」こそが聖書信仰を支えているものです。

あたかも不治の病人にとっての『最後に残された希望の新薬』のごとくに、もはやそれ以外には救いの道がないものであります・・・。
真のキリスト信仰に至るものの道は「自己の醜さと罪の自覚」を超えなくては絶対にありえないものものです・・・。
孤独や疎外感や逃げることのできない自己との葛藤があってこそ、多くは信仰に至るものと信じます・・・。
腹が減っていなければ、だれも腐った魚をおいしいとは思わないように、確かに、「罪の自覚」がなければ、聖書を神聖化してありがたがることはないでしょう。罪の許しの約束!まさに、これこそが聖書の魅力と言わねばなりません。

しかし、「自己の醜さと罪の自覚」だけでは、聖書信仰は成立しません。もっと重要なことが必要とされます。それは、「無知の自覚のはなはだしい欠如」です。聖書は真理であると思い込むことが聖書信仰ですが、この聖書信仰が成立するためには、そのような思い込みをしている者が、それが知識ではなく単なる自分の思い込みに過ぎないという自覚にまだ至っていないことを必要とします。

信仰とは、本当は何も知らない領域(神、あの世)に関して、まるで知っているかのごとく確信することですが、その「確信」は、「本当は何も知らない」ということを自覚していないからこそ成立しているわけです。したがって、まだ自分の無知を自覚できていないこと、すなわち、まだ自己省察が徹底していない(「自己の醜さと罪の自覚」がまだ足りない)こと、それが聖書信仰を成立させているのではないでしょうか。


(3)感動は真理を証しするものではない

どんなに聖書に感動しても、それが真理であることを証しすることにはなりません。自分を幸福にしてくれる、自分に勇気を与えてくれる、自分に希望を与えてくれる、自分を善人にしてくれる、云々と、どんなに長く続けても、聖書の一行たりとも真理として証しすることにはなりません。嘘や誤謬も、人を勇気づけたり、希望を持たせたり、幸福にするからです。

ある教義が人を幸福にする、有徳にする、だからそれは真理である、というほど安易に考える者はいない。・・・幸福や道徳は論拠とならぬ。ところが、思慮ある人々ですらも、不幸にし邪悪にすることが同様に反対証明にはならぬ、ということを忘れたがる。たとえ極度に有害危険なものであろうとも、それが真であることを妨げはしない。

(ニーチェ、『善悪の彼岸』竹山道雄訳)

「幸福や道徳は論拠とならぬ」ことは、世界のすべての宗教の信者がみんな、「この信仰によって、わたしは幸福になりました、わたしは善人になりました、わたしは希望を持つようになりました」云々、とそれぞれに救済感動の証しをしている事実によって、証明されます。


(4)人類の愚かさ

『聖書』はそれを必要としない者の敵意と反論の中にあっても何ら力を失うことのない書物であることにこそ、『聖書』の存在価値があるのです。その時代や場所を超越した孤高の存在は、いかなる悪意や堕落への誘惑にあっても決して滅びることはないのです。
どんなに反対しても、「時代や場所を超越」して、滅びることのないものは人類史の中にたくさんあります。しかし、そのことだけでは、必ずしもその「孤高の存在」を示しているとは言えないのではないでしょうか。なぜなら、どんなに反対しても、「時代や場所を超越」して、滅びることなく生き延びてきた犯罪戦争などは、むしろ、人類の愚かさを示していると言えるからです。


(5)キリスト教の歴史と真理の主張

キリスト教の歴史は二千年です。二千年という長い期間、キリスト教は数多くの主張をしてきました。

(ア)神は存在する。
(イ)イエスはキリスト(救い主)である。
(ウ)イエスの死は人類の罪の贖罪行為である。
(エ)イエスをキリスト(救い主)であると信じるものは救われる。
これらはキリスト教が二千年間主張し続けながら、二千年かかってもいまだに証明できないでいる彼らの中心的主張です。キリスト教とはこれらの主張の上に立てられた楼閣です。単なる信仰告白(本当は知らないけれどそう思い込んでいるだけだと正直に認めてしまう)ならばともかく、「真理」を主張するならば、ぜひとも、これらの主張をだれもが納得できるように証明していただきたいものです。そうでなければ、キリスト教は砂上の楼閣にすぎず、キリスト教二千年の存続はやはり人類の愚かさを示している、と考えざるを得ないからです。