ポイラ村です。

事実はひとつしかないというご見解ですが・・・・事実はひとつではないと思いますよ。

つまり、福音書の記述するイエスの最後の言葉は、それらが事実の記述ではなく、おっしゃるとおり、個々の信仰つまり、各記者が事実だと思い込んでいた個々の信念を書いたものに過ぎないことを示しています。事実は一つしかないからです。
正確に録音再生してものが事実であるかということでしょうか?それもホンモノではあると思いますが、本当かどうかってことだと思うのですね。この「マルコ」「マタイ」の最期の言葉も「ヨハネ」「ルカ」の最期の言葉も言いたい事はひとつだと思うのです。もちろん、ここが引っかかってこんないいかげんな事が全能者なる神のなさる業ではないと判断する事も結構だとは思います。しかし、記者が自身で一番良い表現としてとった方法であれば、それはそれで受け入れるべきであると思うのです。

それと信仰に関して誤解があるようなのでご指摘申し上げますが、「事実だと思い込んでいた個々の信念」は信仰とは申せません。信仰を表すためにそして記者なりに忠実に伝えるために異なった表現を使う事をわたしは言っているのです。聖書の信仰・十字架の贖いの信仰は同じです。

それを信仰によって書かれたものは、信仰を持って読む。と言うのではないでしょうか?佐倉さんもこの観点で聖書を吟味しなおされても良いのではないでしょうか?「信仰によってかかれたものは信頼できない」ということですが、問題は事実と信仰という言葉の理解にあります。

事実を正確に伝えることよりも、自分の救いに関する教義・ドグマを述べたものが多く、その結果、信頼できない記述が沢山生まれます。

佐倉さんの知りたい事実はなんなのかって事です。キリストが最期に本当は何を言ったかってことですか?それとも何を言いたかったかってことですか?それともキリストが私たちに何をしに来たかってことですか?なにもしにこなかってってことでしょうか?まさか、聖書の矛盾を挙げてそれで事実が見えてくるとは考えておられないでしょう?

遠藤氏の「イエスの生涯」もひとりのキリスト者が描いたイエス像であってそれは彼の信仰に基づいているのです。もし、わたしがイエス伝を書くなら、もし、娘の枕元でイエスの生涯の最期の部分を語るなら逆に「エリ・エリ・レマサバクタニ」を強調するでしょうね。

という宣教目的で、遠藤氏の『イエスの生涯』が書かれているからです。 まことに、信仰(救済に関する根拠のない思いこみ)によって書かれた書物は、真理であるかどうかの吟味にはとても耐えられないので、信仰(救済に関する根拠のない思いこみ)によって読まなければ、とうてい受け入れられない、というのは、当然と言えるでしょう。
これは信仰のない人には解らない事でしょうが、信仰のある者には「告白」が伴います。それは、主の救いにあって止むに止まれぬ衝動から生まれてくる物ですが、遠藤氏の著作もこれに類するものだと思います。宣教目的ではありません。もちろん告白も宣教にしかならないとおっしゃるのでしたら、話しは別ですが・・・

また、真理かどうかの吟味には耐えられないというのは、非常に人間的なご意見ではないかと思っています。(これもわたしの信仰よる意見ですが・・・)真理は完全なものであって不完全な人にはその努力によっては掴み得ないと思っています。(その不完全ゆえの多くの事実があるという意見であるのですが・・・)だから、信仰が必要なのであり、十字架が立つのであり、無信仰の信仰なのです。

ただ、真理はひとつです。それは完全な存在である方から賜物として「もらう」しか獲得の方法はないと思います。ざくっくり言ってしまうとそれが、キリスト教信仰の醍醐味だと思います。

カクレキリシタンなどを見ていると正当なキリスト教信仰から大変逸脱している。しかし、その信仰はちょっと例のないものであると思うのです。江戸時代の長い禁教を超えて信仰が守られてきた姿。これは立派な事実だと思うのです。しかし、彼らの伝えてきた神の姿なりは大変変化していました。これも事実です。

ところで、無信仰の信仰とか神無き信仰という事にもお返事いただきたいのですが?そこらの主の言葉の本質を議論しないとそれこそ事実の向こうの真理は見えてこないと思いませんか?

さて、洪水の話ですね。最初に基本的な反論。

しかも、シュメール文明崩壊後も、メソポタミアを支配した数々の文明はそれぞれ、シュメール文明が生んだ高度な文学を「古典」として継承していったのです。それは、現在の西欧文明が、いまでも、ギリシャ・ローマの文化を古典的遺産として継承しているのと同じようなものだったと考えられています。

はい、これはこの時代どれだけ人に文字が使われていたかによると思います。人が古典に親しむというのはそれこそギリシャ・ローマを古典として勉強するじだいかれですよ。でも、それは現代のわれわれと同様大変な苦痛と睡魔の戦いである「継承」だったでしょうね(^_^)民間には口承で伝わったと考えるのが妥当です。

アッカド語をはじめとした洪水伝説をご覧になられましたか?元のギルガメシュとはそれぞれ違ってはいませんか?伝わる間に変化することはある事だとお分りいただいてるとは思いますが・・・

また、ギルガメシュ伝説が元ネタであったとしても、まさかその記載が佐倉さんのおっしゃる意味での「事実」だったとは思っておれらないと思うのですが、如何ですか?大洪水をこの伝説がルポしたとは思っておられないでしょう?全くの創作かあるいは伝わって来た物の潤色か。それは不明ですがつまりはそれを書き残させるエモーションがあったことは間違いないのです。つまり、この伝説も当時かの地で広まっていた宗教のその宗教的な史観で書かれた物語なのです。そこに人は神々の意志や摂理を汲み取ったわけです。

ギルガメシュの洪水にも原物語があったと考えるのが妥当とわたしは思いますが、その方面の議論はちょっと趣旨がずれるので置いときます。ギルガメッシュ叙事詩が創世記の元ネタであったとします。もちろんそれは口承で伝えられるうちにかなり変化したでしょう。なにしろ、

現代のわれわれと旧約聖書の時代との間にある時間的距離に相当する期間が、旧約聖書の時代とシュメール文明の間にはあるのです。
から、(実際の資料の書かれた時期はもっとシュメールに近づきますが・・・それも置いておきます)創世記の手法もこのギルガメシュのそれと同様です。つまり、聖書もその記者達の生きた時代のヤハゥエ信仰による宗教的な史観で書かれているのです。

元ネタからどれだけのヤハゥエ信仰を引き出すかが聖書記者の腕の見せどころだったと思うのです。例えば、この度の小渕自民党総裁選出に関して、政治評論家がいろんな見解を述べるのと似ています。それが聖書記者の場合は「ヤハゥエの御心や如何に?」ってところにポイントを置いてるわけですから。「聖書を新聞のように、新聞を聖書のように読め」って私の師匠が言っていた事を思い出します。

で、元ネタとを比べて読んでみると大変内容が違っていることがわかります。もちろん叙事詩に登場するのは神々。洪水の原因も人間が増えてやかましくて寝れなくなったから。洪水を逃れた人間も別の神の別の思惑で選ばれてますね。

パクっていても聖書で言いたい事とは随分違うように思いませんか?聖書では人の罪というものが説かれています。それがギルガメシュ叙事詩との根本的な違いです。盗作云々とか聖書の矛盾とか誤謬を指摘されるのも結構ですが、こうした点も取り上げて批判される事をのぞみます。

で、他のメールでも述べたように佐倉さんの指摘される聖書の矛盾の多くは資料の違いに起因する物であって、その資料間にも時間的な隔たりがあることはご承知の通りです。もちろん、そこには記者の主観が働くわけです。その差を取り上げて「聖霊は働いていない」とか「神様の言葉であればこうした間違いはないはず」と言われても当の聖書記者は面食らうでしょうね。彼らにすれば完璧な物を書き上げたなんて思いはなかったはずですから。

例えば、遠藤周作氏に「あんたの著作の中の十字架の個所は聖書のどの福音書にも合致していない。あんたの作品には神様の意志などない。『勝手な思い込みで書かれた』ものだ」と言ったらどうでしょうか?いろんな画家がイエスの姿を描いていますが、その顔は全部ちがいます。もし、神様の意志があれば顔はみんな一緒になったはずって言えるのでしょうか?

神自身が人間を通じて真理を書かせたものではなく、それを書いた人々がそれぞれ勝手にこころに描いていた神や歴史に関する思いこみが書かれているにすぎないわけです。それだからこそ、おしゃられるとおり、聖書の記述には矛盾や誤謬が沢山あるわけです。
こうしたご意見が出てくる背景にはやはり「絶対者」という物をご理解なさっていらっしゃらないとお見受けしました。神自身が人を使って真理を書くという事を私は信じません。神様がいればこうするはず、そうなるはずという絶対者に対する「勝手な思い込み」がありますね。また、真理という言葉間違って使っておられるように思いますね。特にクリスチャンが神学的に使うそれとは多いに違っていますね。不完全なヒトによってそれは描ききることはできません。神様は人の都合に左右されるドラえもんではないし、真理は人が勝手に引き出せるATMではないのです。

実はこのページは他の方からご紹介頂いてやってきたのですが・・・正直もすこしおもしろい話しが聞けると思っていました。既にキリスト教が超えてしまった聖書の問題点を繰り返すばかりで、なにかを生み出そうという雰囲気がありません。正直、あまり価値のある場所とは思えませんね。


(1)信仰の偏見が生む奇妙な理屈

一つの事件に関して複数の記録があり、その記録の間に矛盾がある場合(単に表現が異なっているのではなく、矛盾している)、少なくともその記録のうち一つは、事件について間違った記録をしていることになります。単純なことです。ところが、聖書は真理だという偏見があるために、この単純明快な論理が受け入れられず、どうしても奇妙な理屈になってしまいます。

本当かどうかってことだと思うのですね。この「マルコ」「マタイ」の最期の言葉も「ヨハネ」「ルカ」の最期の言葉も言いたい事はひとつだと思うのです。もちろん、ここが引っかかってこんないいかげんな事が全能者なる神のなさる業ではないと判断する事も結構だとは思います。しかし、記者が自身で一番良い表現としてとった方法であれば、それはそれで受け入れるべきであると思うのです。
これでは、矛盾はあっても、聖書は真理であることになっているのだから、矛盾はないとみるべきである、というまるで駄々をこねているような理屈が述べられているにすぎません。したがって、一つの事件に関して複数の記録があり、その記録の間に矛盾がある場合、少なくともその記録のうち一つは、事件について間違った記録をしていることになる、というわたしの単純な主張に対する反論になっていません。「記者が自身で一番良い表現としてとった方法であれば、それはそれで受け入れるべきである」のは当然ですが、それらの記述が相互に矛盾していれば、すくなくともそのうちの一つは、それらの記述が語ろうとした一つの事実について、まちがった記述をしていることになるのです。

(2)信仰者が好む曖昧な表現

信仰による真理の主張は客観的な根拠をまったく欠いているために、その主張はいつでも曖昧な表現になってしまうようです。

真理は完全なものであって不完全な人にはその努力によっては掴み得ないと思っています。・・・だから、信仰が必要なのであり、十字架が立つのであり、無信仰の信仰なのです。 ただ、真理はひとつです。それは完全な存在である方から賜物として「もらう」しか獲得の方法はないと思います。ざくっくり言ってしまうとそれが、キリスト教信仰の醍醐味だと思います。
「真理は完全」? 意味不明、曖昧です。「真理は・・・努力によっては掴み得ない」? いかなる根拠がありますか。「だから、信仰が必要なのであり、十字架が立つのであり、無信仰の信仰なのです」? 意味不明、曖昧そのものです。「真理はひとつです」? 意味不明。いかなる根拠がありますか。「完全な存在である方」? いかなる根拠がありますか。「[真理は]「もらう」しか獲得の方法はない」? いかなる根拠がありますか。これでは、信仰とは根拠のない思いこみに過ぎないというわたしの主張を、そのまま生で実演してもらっているようなものです。信仰者が曖昧な表現を使用するのは、信仰には根拠がないというところから必然的に生じるため、避けることはできないだろうと思われます。

(3)わたしの知りたいこと

佐倉さんの知りたい事実はなんなのかって事です。キリストが最期に本当は何を言ったかってことですか?それとも何 を言いたかったかってことですか?それともキリストが私たちに何をしに来たかってことですか?なにもしにこなかっ てってことでしょうか?まさか、聖書の矛盾を挙げてそれで事実が見えてくるとは考えておられないでしょう?
わたしの知りたいことは、聖書に間違いがあるか、ということです。それは「はじめに」で述べているとおりです。聖書の矛盾が見つかれば、聖書には間違いがあるという事実を知ることができます。

(4)「無信仰の信仰」?「神無き信仰」?

ところで、無信仰の信仰とか神無き信仰という事にもお返事いただきたいのですが?
「無信仰の信仰」とか「神無き信仰」とかについて、もうすこし説明をしていただければ、それらについて語ることがあるかもしれません。わたしには聞き慣れない言葉です。

(5)ギルガメッシュ叙事詩と聖書の洪水物語

おはなしが、ほとんど、わたしの拙論の意図とは無関係のところに飛んでいってしまっているようですが、わたしの批判は、もし、聖書の洪水物語がギルガメッシュ叙事詩という文学作品のコピーを含んでいるなら、その部分は人間的創作であって、神の啓示ではない、というものです。それは、

会社の社長が秘書に手紙を書かせるのと同じように、神は人々に情報を書き記させた・・・。

(『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』49頁)

という一部のクリスチャンの間に流布している考え方に対する批判なのです。


(6)真理のためには邪魔になる信仰

「聖書の間違い」の目的は、「はじめに」でも述べているように、また、他のところでも繰り返しているように、

「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味すること・・・
です。この主張は次のような論理的構造を持っています。
 前提1 神は全知全能である。
 前提2 聖書は神の霊に導かれて書かれた。
 結論  それゆえ、聖書には間違いがない。
わたしは、それに対して、聖書に間違いがある(結論が間違っている)例を示して、もし神が全知全能なら(前提1が正しいとすると)、聖書は神の霊に導かれて書かれた(前提2)、という主張はまちがっていることになる、と帰結しているわけです。

これも、単純明快だとわたしは思うのですが、矛盾があるのは資料間のことだから聖書の記述に矛盾があるとは言えない、とか、矛盾があっても間違っているとは言えない、というような非論理的立場を取っておられるポイラ村さんには、どうやら理解していただけないようです。

信仰という一つの偏見が、真理を知るためには邪魔になるということを、あらためて認識させていただきました。

(7)すり替えによる詭弁

もちろん、矛盾があっても間違いがあるとはいえない、というような曲芸的理屈が、まるで筋が通っている主張であるかのように思い込むためはどこかにタネが隠されているはずです。ボイラ村さんの場合は、すり替えという作業が、どうやらその役目をしているようです。これは、おそらく意図的なものではなく、無意識的になされたと思われます。そのために、ご自分の主張の矛盾に気がついておられないのだと思います。

それは、「矛盾」と「相違」をすり替えることです。例を挙げれば、

いろんな画家がイエスの姿を描いていますが、その顔は全部ちがいます。もし、神様の意志があれば顔はみんな一緒になったはずって言えるのでしょうか?
わたしが聖書の間違いを指摘する場合に取り上げているのは「矛盾」です。「相違」ではありません。しかし、ここに見られるように、ボイラ村さんは「矛盾」を「相違」にすり替えて話を進めています。矛盾とは、両方同時に真理にはならない、二つの主張のことを意味していますが、相違の場合は、必ずしも、両方同時に真理にはならないとは限りません。わたしが、「矛盾」があるから間違いがあるはずだ、と言っているのに、「相違」があるからと言って間違っているとは限らないと、巧妙にわたしの言葉をすり替えて言い返されているわけです。

もう一つ例を挙げれば、

この「マルコ」「マタイ」の最期の言葉も「ヨハネ」「ルカ」の最期の言葉も言いたい事はひとつだと思うのです。もちろん、ここが引っかかってこんないいかげんな事が全能者なる神のなさる業ではないと判断する事も結構だとは思います。しかし、記者が自身で一番良い表現としてとった方法であれば、それはそれで受け入れるべきであると思うのです。
ここでも、矛盾が、単なる「表現の相違」に、すり替えられています。イエスの最後の言葉として、マルコ・マタイは「わが 神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と記述していますが、ルカは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と記述しています。また、ヨハネによれば「成し遂げられた」であったことになっています。したがって、もし、イエスが最後に語った言葉が「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」であったのなら、ルカやヨハネの記述は間違っています。もし、イエスが最後に語った言葉が「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」であったのなら、マルコ・マタイやヨハネの記述は間違っています。また、もし、イエスが最後に語った言葉が「成し遂げられた」であったのなら、マルコ・マタイやヨハネの記述は間違っています。

それが、「言いたい事はひとつだと思うのです」ということになり、そのうえで、「記者が自身で一番良い表現としてとった」というふうに表現のちがいにすり替えられているわけです。どんなに矛盾していても、「言いたいことは一つだと思うのです」などと強弁してしまえば、すべては、表現上のちがいに過ぎないと言うことになるからです。これでは、世界中いかなるものも矛盾していないと強弁することさえ可能です。「言いたいことは一つだと思うのです」と言えばよいのですから。試験の答案が間違っていたら「表現は異なっていても、言いたいことは正しい答えの方だったのです」と言えばいつでも満点ということになります。これはあきらかに詭弁です。

ではなぜボイラ村さんはこういった詭弁に陥られたのでょうか。理由は一つです。聖書には間違いがあってはならない、という信念を絶対的なものとして前提にされているからです。どんなに矛盾していても、「言いたいことは一つだと思うのです」などと強弁せざるをえないのは、聖書の無誤謬性が前提にされているからに違いありません。

なぜ信仰によって主張されるものが信頼できないのか、ここでも、その実例が示されているといえるでしょう。

(8)信仰は主観的な思いこみに過ぎない

信仰告白は、

主の救いにあって止むに止まれぬ衝動から生まれてくる物
だそうですが、たしかに、神の存在も、イエスがキリストであることも、イエスの死が救いの業であることも、イエスを信じることによって救われるということも、そのどれもが根拠のある事実として提示されたことは一度もありませんから、「止むに止まれぬ衝動」 によって信じられているに過ぎないのは、確かにそうでしょう。

(9)聖書の間違いを直視する

既にキリスト教が超えてしまった聖書の問題点を繰り返すばかりで、なにかを生み出そうという雰囲気がありません。
多くのクリスチャンがすでに、聖書には沢山の間違いがあること、聖書は神によって書かれたものではなく、人間が書いたものであること、など認めていることをわたしは知っています。彼らは、ボイラ村さんのように、詭弁を使って、矛盾があっても間違いはない、などと強弁してはいません。彼らは聖書の間違いを直視しています。

他方、多くのクリスチャンが今でも、聖書にはいっさいの間違いはないこと、聖書が神の言葉であること、聖書が聖霊によって人間を通して書かれたこと、などを堅く信じていることもわたしは知っています。いわゆるファンダメンタリストと呼ばれるクリスチャンです。彼らは、本気で、矛盾があるのは一見そう見えるだけで、実際には矛盾がないのだ、と信じて、聖書解釈にさまざまな調和化を持ち込みます。彼らの調和化の努力は必ずしも説得力のあるものではありませんが、それなりに一貫した立場です。ボイラ村さんのように、矛盾は資料間にあるに過ぎないのだから、聖書に間違いがあるとは言えない、などというような詭弁は弄しません。彼らは聖書の無誤謬説を信じているために、聖書の多資料説も否定しています。

聖書の間違いを直視できないのは、真理を知ることよりも、あるいはまた、自己に正直であることよりも、おのれの救いばかりを優先させているからに違いありません。救いの根拠は聖書にあり、その聖書に間違いがあるとすると、救いの根拠がなくなってしまうので、こわくて、聖書の間違いを直視できないのでだろうと想像いたします。なんとも不自由な世界に閉じこめられたものです。