感想を述べさせていただきます。
聖書は自分の知識の中で理解されたから信じるとか、理解されないから信じないといったものではありません。なぜなら、神の思いはあなたの思いを越えているからです。
聖書を読むと神が人間に対する思いと願いが込められています。聖書は、哲学や宗教といった学問や思想ではなく、神と人間のハートとハートの関係なのです。これは、神からのぶあついラブレターなのです。
このサイトを見て非常に残念な印象を受けました。貴方は否定的な思いをいつも抱いて生きているのですか。あなたには確かな希望があるのでしょうか。あなたはこの世界が霊的であることをご存じですか。
私は神を人間の知識や感情の中に箱詰めにしようとすることが最も心痛いことです。何故そうするのか・・それは、人間が神との関係を持っていないから、“神”が解らないのです。
ここを読んで、あなたがとっても神(イエス)がきらいなんだなと感じました。
(1)聖書は「神からのぶあついラブレター」ではない
もし神が全知全能であり、うそをつかない存在であるとすると、聖書は神からのラブレターではありません。すでに本サイトの諸論でも明らかなように、聖書にはあまりにも多くの歴史的、論理的誤謬にみちあふれているからです。神が誤謬を犯さないとすれば、たくさんの誤謬を含んでいる聖書は神の書いたものではない、という結論になります。
むしろ、聖書ははなはだ人間的な作業のひとつの結実です。したがって、
聖書を読むと神が人間に対する思いと願いが込められています。というのではなく、
聖書を読むと、「自分たちを愛し救ってくれる神という存在があってほしい」という古代の人々の思いと願いが込められている。ということになるのではないかと思います。 聖書とは、神からの人間に対するラブレターではなく、人間の(存在するかどうかわからない)神に対する片思いのラブレターの山なのではないでしょうか。
(2)希望について
貴方は否定的な思いをいつも抱いて生きているのですか。あなたには確かな希望があるのでしょうか。あなたはこの世界が霊的であることをご存じですか。たよりにならない「確かな希望」を未来に託さねばならないほど、わたしは「この世界」に否定的ではありません。また、あやしげな「霊」などを空想しなければならないほど、わたしは「この世界」に不満でもありません。与えられた「この世界」の豊富さをきわめてありがたく思って生きています。
(3)神(イエス)がきらい?
神やイエスに関するわたしの考えは、「神の存在、イエス」に少しばかり述べています。