初めまして。
佐倉さんに以下の事を伺いたいのですがよろしいでしょうか?
1)神は存在する思いでしょうか?
2)イエスキリストは、どのような方だっただと佐倉さんは思いでしょうか?
3)イエスキリストが十字架で殺された理由は何故だったと思いますか?
1)神は存在する思いでしょうか?わたしにとって、神の存在についてのもっとも重要な事実は、その存在感の完璧なる欠如です。アンセルムスは神はすべての面において最高の存在であり、その存在のあり方も、もっともすぐれた存在のあり方をしている、と語りましたが、それほどすぐれた存在性が、なぜ、わたしにとっては、これほど完璧なまでも欠如しているのか。
わたしは、神を信じたくて、ながいキリスト教遍歴の年月を過ごしましたが、神を信じていると思っていたときでさえ、この神の存在感の欠如は厳然とした事実でした。この事実は、ときあるごとに、わたしの信仰は虚偽ではないのか、わたしは自分を偽っているのではないのか、という疑問をわたしに投げかけ、わたしはその苦痛から逃れることはできませんでした。
もちろん、わたしが出会った多くの信者がするように、わたしも神についていろいろ想像することはできたのですが、わたしが想像して造り上げたものは偶像でしかありません。聖書の語る、本当の神は、わたしの造り上げる想像の神像を打ち破って、向こう側から、わたしに有無を言わせないような存在感をもって、現存しなければならないはずです。しかし、わたしは、結局、わたしが想像した神以外の神に出会うことは、決してありませんでした。いまは、神の存在感が完璧に欠如しているというこの厳然たる事実を素直に受け入れ、大切にしています。
わたしたちが、史的イエスについて知りうることがらは、非常に限られています。福音書に語られるイエス像は、初期のクリスチャンたちの描いたイエス像であって、「これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためである」(ヨハネ20:31b)と証言しているように、福音書の各記者やそれを書かせた初期のクリスチャン・サークルが、読者に信じてほしいイエス像なのです。したがって、福音書に語られるイエス像をそのまま、史的イエス像として信じる行為は、たとえば、新興宗教の「教祖様」を熱心に信じている信者が語る教祖像を、そのまま実像として信じる行為と、まったく同じ知的レベルの行為であると言えます。
2)イエスキリストは、どのような方だっただと佐倉さんは思いでしょうか?
ところが、現存するイエスに関する報告は、ほとんど彼の信者のものしかないのです。したがって、史的イエスの実像を知ることはほとんど不可能である、というのがわたしの意見です。しかし、知ることは出来なくても、想像することはできます。福音書を読んでいると、史的イエスはこうだったのではないかと、わたしはしばしば想像をめぐらします。たとえば、わたしの大好きな物語のひとつは、イエスの服に触れて病気が治った女の話です。
ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄ってきて、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのは誰か」と言われた。人々は皆自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです。」と言った。しかし、イエスは、「誰かがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカ8:43-48)わたしは、この女のように、「病気直しで今有名なこの先生の服に触ることができたら、もしかしたら、わたしの病は治るかも知れない」、そう思って、イエスの服に触って実際に病の治った人がいたのだと思います。ところが、イエスはここで「あなたの信仰があなたを救った」と言っているのに、ルカはイエス自身の持つ特別の力がそうしたのだ、と言いたいために、イエスに「わたしから力が出て行ったのを感じた」などと言わせていますが、ルカのこのような、イエスを神の人として信じさせるためのわざとらしい記述を、わたしは信頼することはできません。
わたしは、そのように、史的イエスについて勝手な想像をめぐらせるのです。
わたしが想像する史的イエス像について、最も大切なことは、人間と律法との関係に関する彼の教えです。つまり、律法のために人間がいるのではなく、人間のために律法があるのだ、という教えです。そこで、伝統的な目で見れば律法を犯すような行為も、それが人間のためであるという理由で、たとえば、安息日に関する規則を破る話が沢山でてきます。
安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。(マルコ2:27)この「人間のための律法」という思想は、イエスの中心思想であるというのがわたしの考えですが、彼の言葉として残されている多くの表現のなかに発見することが出来ます。例えば、罪を犯した人々を、「罰」という観点からだけではなく、むしろ「赦しと再生」という観点から見つめる視点も、やはり、「人間のための律法」という思想から来ていると考えられます。
『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マタイ9:12-13)今日では、イエスの言葉として福音書が記録しているものには、イエス自身の言葉ではないものが多分に含まれている、というのが多くの現代聖書学者の通説ですが、「人間のための律法」という思想はイエス自身のものであった、というのがわたしの想像する史的イエス像であり、またイエスの最大の魅力です。
3)イエスキリストが十字架で殺された理由は何故だったと思いますか?福音書を読めば、イエスを死に追いやった張本人は、ユダヤ人の宗教指導者たちであったように書かれていますが、ファリサイ派や祭司長などのユダヤ人の宗教指導者たちに対する福音書記者たちの敵対意識は、彼らが福音書を書いた当時の初期のキリスト教団とユダヤ教との間の軋轢を反映している可能性がおおきいので、そのままイエス自身の死に関する史実として受け取るわけにはいきません。
イエスは、ローマ帝国の権威のもとで、ローマ帝国の法律によって、ローマ帝国への反逆者として、処刑されました。学者の中には、例えば、イエスが山の中で捕まったとき、彼の弟子が武器を持っていて、反抗を試みた事件(マタイ26:47-52)を理由に、イエス集団は武装革命集団で、ローマの支配からユダヤを解放しようとしていた、と主張する人もいますが、極論といえます。
当時ローマにいた歴史家ヨセフスは、洗礼ヨハネの死に関して、次のような記録を残しています。
ヘロデはヨハネの民衆に対する大きな影響が争乱を引き起こしはしないかと恐れた。彼らはヨハネが勧めることなら何でもしようという気持ちになっていたからである。そこでヘロデは実際に反乱が起こって窮地に陥り、そのとき後悔するよりも、彼によって引き起こされるかも知れない反乱に先手をうって、彼を殺す方が上策であると考えた。そこでヘロデの疑念のためにヨハネは前述した砦のマカイルスに送られ、そこで処刑された。 (ヨセフス『ユダヤ古代誌』秀村欣二訳、『原典新約時代史』より)わたしは、イエスの処刑も、だいたい同じような理由でなされたのではないかと思っています。実際、総督ピラトのまえで、イエスは彼が「ユダヤ人の王」であると自称していることで非難されているし(マタイ27:11)、何よりも、
罪状書きには「ユダヤ人の王」と書いてあった。(マルコ15:26)と記録されているからです。「ユダヤ人の王」とは、もちろん、ユダヤを敵国(この場合、ローマ帝国)から解放してユダヤ王国を復活するために現れると信じられている救い主、つまり「メシヤ」(ルカ22:67, 23:2)のことです。
わたしの考えでは、イエスの死は人類の罪をあがなうための犠牲の死であった、というのは、もちろん、教祖を失ったイエスの弟子たちが、あとから付け加えた解釈であって、イエス自身の思想ではありません。イエス自身は、おそらく、自分がメシヤであることさえ主張していなかったからです。だからこそ、福音書の記者たちは、生前、イエスは自分がメシヤであることを誰にもいってはいけないと弟子たちに言っておられた(マタイ16:20、マルコ8:29-30、ルカ9:20-21)、というような、イエスに関する生前の事実と死後の解釈のつじつまを合わせるためと思われる言葉をイエスに語らせているのでしょう。
簡単ですが、以上です。一言で言えば、わたしはナザレのイエスを一人のすぐれた宗教改革者として見ています。イエスを神格化して、祭り上げたのは、彼の弟子や初期のクリスチャンたちですが、やがて、イエスを祭り上げたひとびとを神格化して、彼らがイエスについて書いたものを神の言葉と信じ、したがって、それには「いかなる誤謬もない」と主張する人々がでてきます。この主張を吟味するのが、本シリーズの目的です。
おたより、ありがとうございました。
1)神は存在すると思いでしょうか?
の質問で、佐倉さんは、
わたしにとって、神の存在についてのもっとも重要な事実は、その存在感 の完璧なる欠如です。アンセルムスは神はすべての面において最高の存在 であり、その存在のあり方も、もっともすぐれた存在のあり方をしている、 と語りましたが、それほどすぐれた存在性が、なぜ、わたしにとっては、 これほど完璧なまでも欠如しているのか。結論的に言うと、神の存在自体は信じれるけど、この地球、人類に対して神の 判断、治め方に疑問を持っているという事でしょうか?わたしは、神を信じたくて、ながいキリスト教遍歴の年月を過ごしましたの ですが、神を信じていると思っていたときでさえ、この神の存在感の欠如は 厳然とした事実でした。この事実は、ときあるごとに、わたしの信仰は虚偽 ではないのか、わたしは自分を偽っているのではないのか、という疑問をわ たしに投げかけ、わたしはその苦痛から逃れることはできませんでした。
それと「神の完璧なまでも欠如している」ですが、一体神の、どういう所が 「欠如」しているのか、すいませんが教えて頂けないでしょうか?
もしかしてですが、もし佐倉さんが信じていた「神の欠如」が佐倉さんの勘 違いだったとしたら、その時は佐倉さんはクリスチャンに戻る可能性はあると 自分では思いでしょうか?
2)イエスキリストは、どのような方だっただと佐倉さんは思いでしょうか?
今日では、イエスの言葉として福音書が記録しているものには、イエス自身 の言葉ではないものが多分に含まれている、というのが多くの現代聖書学者 の通説ですが、「人間のための律法」という思想はイエス自身のものであっ た、というのがわたしの想像する史的イエス像であり、またイエスの最大の 魅力です。この答えは、「イエス像は殆ど創られたものだが、イエス自身は尊敬できる良 い人だった」と見てよろしいでしょうか?そうですよね。キリスト教は非難す るけど、イエスキリストは尊敬するという方々は多いですからね。一言で言えば、わたしはナザレのイエスを一人のすぐれた宗教改革者として 見ています。イエスを神格化して、祭り上げたのは、彼の弟子や初期のクリ スチャンたちですが、やがて、イエスを祭り上げたひとびとを神格化して、 彼らがイエスについて書いたものを神の言葉と信じ、したがって、それには 「いかなる誤謬もない」と主張する人々がでてきます。
3)イエスキリストが十字架で殺された理由は何故だったと思いますか?
ここで、佐倉さんは
わたしは、イエスの処刑も、だいたい同じような理由でなされたのではな いかと思っています。実際、総督ピラトのまえで、イエスは彼が「ユダヤ 人の王」であると自称していることで非難されているし(マタイ27:11)、 何よりも、 罪状書きには「ユダヤ人の王」と書いてあった。(マルコ15:26) と記録されているからです。「ユダヤ人の王」とは、もちろん、ユダヤを敵 国(この場合、ローマ帝国)から解放してユダヤ王国を復活するために現れ ると信じられている救い主、つまり「メシヤ」(ルカ22:67, 23:2)のことで す。イエス自身は、自分は「メシヤ」だと自負していなかったが回りの人達(パリサ イ人、律法学者など)にメシヤだとイエスが言ったと偽証言をされた、という理解 でよろしいのでしょうか?わたしの考えでは、イエスの死は人類の罪をあがなうための犠牲の死であっ た、というのは、もちろん、教祖を失ったイエスの弟子たちが、あとから付け加え た解釈であって、イエス自身の思想ではありません。イエス自身は、おそら く、自分がメシヤであることさえ主張していなかったからです。だからこそ、福音 書の記者たちは、生前、イエスは自分がメシヤであることを誰にもいってはい けないと弟子たちに言っておられた(マタイ16:20、マルコ8:29-30、ルカ 9:20-21)、というような、イエスに関する生前の事実と死後の解釈のつじつまを合わせる ためと思われる言葉をイエスに語らせているのでしょう。
伺いたいのですが、聖書を読むと:
ルカ22:67〜71:「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい .........」イエスは言われた。「私が言ってもあなたがたは信じないだろう。.........人 の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう。」彼等は言った。「では、あなた は神の子なのか。」イエスは言われた。「あなたがたの言う通りである。」する と彼等は言った。「これ以上、何の証拠がいるか。我々は直接彼の口から聞いた のだから。」と、他にもイエスキリスト自身最後の時は自分はメシヤだと明らかに言い表し ている箇所がありますが、「イエス自身は、おそらく、自分がメシヤであるこ とさえ主張していなかったからです」という考に疑問があるのです。ヨハネ8:58〜59:イエスは彼等に言われた。「よくよくあなたがたに言っ ておく。アブラハムの生れる前から私は、いるのである。」そこで彼等は石を とって、イエスに投げつけようとした。............ (ここは、何故イエスに石を投げつけようとしたのかは御存じだと思いますが、 「....私はいるのである」の言葉は、出エジプト記3:14と同じ言語を使って いたのを、他のユダヤ人達が分かったので殺そうとしました。)
ヨハネ18:33〜37:ピラトはイエスを呼び出して言った。「あなたは、 ユダヤ人の王であるか。」.........イエスは答えられた。「あなたの言うとお り、私は王である。私は真理について証をするために生れ、又、その為にこの世 に来たのである。だれでも真理につく者は、私の声に耳を傾ける。」
佐倉さんがおっしゃっていた、
「だからこそ、福音書の記者たちは、生前、イエスは自分がメシヤであるこ とを誰にもいってはいけないと弟子たちに言っておられた(マタイ16:20、マ ルコ8:29-30、ルカ9:20-21)、というような、イエスに関する生前の事実と死 後の解釈のつじつまを合わせるためと思われる言葉をイエスに語らせている のでしょう。 」も、イエスキリスト自身がまだ宣教を始めた頃で、まだ自分をメシヤだと言 い表す時期でなかったので、弟子達に言わないように指示していて、最後の 方になると、メシヤだと言い表す時だと判断したので、先程の如く自分をメ シヤだと言い出したと見れば、ごく普通に理解できる事だと思うのですが、 この考えはおかしいでしょうか?(この考えは恐らく殆どのクリスチャンが 持っている考えだと思います。)
それと、ヨハネ19:12では『....これを聞いてピラトはイエスを許そうと 努めた。しかしユダヤ人達が叫んで言った。「もしこの人を許したなら、あな たはカイザルの味方ではありません。自分を王とする者はすべて、カイザル に背く者です。.....」』とありますが、これを読む限りでは、ユダヤ人達が、 「イエスは王と主張したので殺せ」とピラトに言っているようにしか思えない のですが、いかがでしょうか?
僕の知っている人に、ユダヤ人がいるのですが、イエスキリストが殺された 理由は、「イエスが王、メシヤ」だと主張したから、ユダヤ人達に殺された と、全員ユダヤ人は認識している事だと言ってたのですがですが、間違って いるのでしょうか?
結論的に言うと、神の存在自体は信じれるけど、この地球、人類に対して神の 判断、治め方に疑問を持っているという事でしょうか? それと「神の完璧なまでも欠如している」ですが、一体神の、どういう所が 「欠如」しているのか、すいませんが教えて頂けないでしょうか?神の存在感がわたしに欠けている、と言ったのです。
「イエス像は殆ど創られたものだが、イエス自身は尊敬できる良 い人だった」と見てよろしいでしょうか?そうですよね。そうではありません。わたしが勝手に想像する史的イエス像の一番の特徴は、律法に関して新しい見方を示した「宗教改革者」である、ということです。良い人かどうかとか、尊敬できるかどうか、ということなど考えたこともありません。そのようなことを決定するには史的イエスに関する資料があまりにも少なすぎます。
イエス自身は、自分は「メシヤ」だと自負していなかったが回りの人達(パリサイ人、律法学者など)にメシヤだとイエスが言ったと偽証言をされた、という理解でよろしいのでしょうか?そうではありません。福音書の記者たちが自分たちの信仰に合うような言葉を、その物語の中でイエスに語らせた、ということです。
ユダヤ人達が、「イエスは王と主張したので殺せ」とピラトに言っているようにしか思えない のですが、いかがでしょうか?イエスの受難物語に関する各福音書や他の文献を、歴史的に書かれた順番に読んで行くと、イエス殺害の責任が、しだいに、ピラトに代表されるローマ帝国の支配者から、ユダヤ人へ移行して行くのがわかります。福音書が書かれた少し後に書かれたクリスチャンの文献には、ピラトは実はイエスをキリストとして心の中で信じていた、とさえ記録されています。したがって、イエスの受難物語には、イエスが殺された時代の事情ではなく、イエスが殺されて何十年も経ったあと、イエスの受難物語が書かれた時代の事情が反映されている、と考えられるのです。つまり、それらが書かれた当時の教団が、ユダヤ人宗教指導者に対しては敵対意識を、ローマ帝国に対しては友好的意識をもっていたことが、そこに反映されていると考えられるのです。
僕の知っている人に、ユダヤ人がいるのですが、イエスキリストが殺された 理由は、「イエスが王、メシヤ」だと主張したから、ユダヤ人達に殺された と、全員ユダヤ人は認識している事だと言ってたのですがですが、間違って いるのでしょうか?イエスが「ユダヤの王メシヤ」つまり政治犯として殺されたのは、明らかにそうですが、「ユダヤ人達に殺された」ということは、ユダヤ人有識者たちによって強く否定されてきました。それにはいろいろな理由がありますが、とくに、そのことが、歴史上、クリスチャンがユダヤ人を迫害してきた大きな原因となっていたからです。聞き違いではないですか。もう一度お確かめになって下さい。
イエスが、ローマ法の下でローマ帝国の力で政治犯として殺されたことは間違いないと思います。福音書の特徴は、それにもかかわらず、ローマ帝国の責任をできるだけ軽し、ユダヤ人の責任をできるだけ重くすることに、異常とおもえるほどの努力をしているところにあります。マタイは、例えば、ピラトに「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」と語らせ、「群衆の前で手を洗う」という儀式さえさせています。そして、ユダヤ人には「その血の責任は、我々と子孫にある」と語らせています。
もしかしてですが、もし佐倉さんが信じていた「神の欠如」が佐倉さんの勘 違いだったとしたら、その時は佐倉さんはクリスチャンに戻る可能性はあると 自分では思いでしょうか?神を認めることが、ただちにクリスチャンになることを意味することはないでしょう。そうするには、キリスト教はあまりにも多くのドグマを引きずっています。しかし、クリスチャンと非クリスチャンが対話するとき、クリスチャンはキリスト教を棄てる用意がなければならず、非クリスチャンはクリスチャンになる用意がなければならない、とわたしは思っています。
再び、おたよりありがとうございました。