佐倉様のHPの「来訪者の声」欄で、長谷川様が、マルコ伝2-27の「安息日は人のために設けられたのであって、人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日に対しても主である」という箇所の「人の子」の解釈について書かれていたものを拝見いたしました。

長谷川様には、感想のメールを既に差し上げましたが、ここで、問題になっていることは、聖書に関心を持つすべての人にとって大切なことと思いました。

そこで、佐倉様のHPの読者の声欄に、改めて、私の感想を述べ、それと共に、長谷川様に触発されて、私が考えたことを、大変に未熟なものではありますが、いくつか書かせていただきます。

「安息日は人のために設けられたのであって、人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日に対しても主である」という箇所の「人の子」の解釈についての 御論考の結びの部分で、長谷川様は、次のように仰っています。

この<だから>を生かすのは、次のような文です。「神は人間を愛しておられる。<だから>この弱く小さなはかない者〔と言いながら自分を指す〕をも愛しておられる。」同じく「安息日は人のためにあるもので、人が安息のためにあるのではない。<だから>、ただのひとりの人〔と言いながらイエスは自分を指した〕は、(あらゆる律法に対してと同様)安息日に対してもまた主なのである。」<だから>はこうして、前後を結びつけます。これがマルコの真意、マタイやルカや新改訳が理解しなかった文脈です。
このくだり、非常に興味深く読ませて頂きました。長谷川様の「人の子」に関する読み方、実は、私が、自分の祈りの中で、込めていた意味と共鳴する部分があります。そして、旧約から連なる言葉の意味の伝承の中にそれに対応するものを見いだすことも出来ると思います。

「人の子(ベンアダーム=アダムの子)」という言葉で、私が祈るときにすぐに心に浮かぶのは詩篇89-47の

ねがはくは我が時の如何に短きかを想ひたまへ、
汝いたづらに凡ての人の子を造りたまはんや。
誰か生きて死を見ず、また己がたましひを黄泉より救ひ得るものあらんや
と、詩篇8-3の
汝、幼子乳飲み子の口により、力の基をおきて、敵に備へ給へり。
こは仇びととうらみを報ゆるものとを鎮静めんがためなり。
我、汝の指のわざなる天を観、なんじの設け給へる月と星とを観るに
世の人は如何なる物なればこれを聖念にとめ給ふや
人の子は、如何なるものなればこれを顧みたまふや
ただすこしく人を神よりも低くつくりて、栄えと尊貴とを冠らせ
またこれに御手の業を治めしめ、万物をその足の下におき給へり
です。最初の引用は、「人の子」が如何にみじめで卑小な存在であるか、いつまでも生き続けることなく、よみがえることもない存在であるかを述べるときに使われます。二番目の引用は、敵に恨みを抱くものを鎮めるために、強者ではなく、「幼子と乳飲み子」の口に「力の基」がおかれ、卑小なる「人の子」に「栄えと尊貴」が与えられることが告げられます。

私が、長谷川様の投稿で共鳴できると申し上げたのは、イエスが、何故ご自身のことをさすときに「人の子」と呼ばれたのか、それはとても大切なことだという点です。

長谷川様は、従来、「再臨の時に権威を持って裁かれる栄光の主」という黙示録的な「人の子」のイメージではつくされない、意味の剰余のようなものに眼を向けていらっしゃいます。それは、おそらく長谷川様にとって、最も共感できるイエス像であるに違いありません。

しかしながら、長谷川様が、

本当は「人の子」はすべて「ただのひとりの人」と訳しておくべきだったのかもしれません。そうすると、終末に到来する救い主のことを呼ぶのに、メシアとかダビデの子とか言うよりも、好んで「人の子」と呼んだそのニュアンスも実感できるはずです。「天変地異のさなかにやってくる救い主は、実はそんなに恐ろしい人じゃないよ。彼もまた、ただのひとりの人なんだよ。」そこには、「彼もただのひとりの人、私もただのひとりの人」という不思議な連帯感さえ浮かび上がってきます。

と続けている箇所には同意できませんでした。福音書のイエスの言葉として使われている「人の子」をすべて「ただの一人の人」と訳すことが出来るでしょうか。共観福音書の描く終末の場面では、「人の子」は雲に乗って来臨し栄光の座につき、すべての人をその行いによって裁く権威あるものとして語られています。

大祭司の「あなたはほむべきものの子、メシアか」という質問に対し、イエスは、きっぱりと「あなた方は、人の子が力ある御者の右に座し、天の雲を伴ってくるのを見るであろう」と語ります。

このような文脈では、「人の子」はメシアの超越性を示す意味に解釈されるのが普通だと思います。

「人の子」の多義性の故に、「ただの一人の人」という意味だけに焦点を当ててしまうと客観的な釈義としても成立しないし、まして、翻訳語として、「ベンアダーム」を「人の子」と直訳しないで「ただの一人の人」と意訳してしまうのは適切ではないと思います。それ故、新約聖書を記した人も、そのままギリシャ語訳したのだと思います。

私ならば、次のように主張いたします。--「人の子」が、たとえ超越的なメシアの力に言及して語られている際にもその言葉の意味の中には、「ただの一人の人」と言うニュアンスが常に込められていた。イエスの栄光も、その強さも、そのような意味の陰翳を抜きにして語ることは出来ない--と

聖書の釈義という場合、過去に書かれた文書が、その時代のコンテキストでどのような意図で、またどのような意味を込められていたかは、専門家の研究をまたないと分からないものと思います。

 堀剛様が既に指摘しておられましたが、学問的に聖書を研究している人から見れば、門外漢の聖書釈義は、既に学会では常識となっていることを、事新しげに吹聴したり、厳密な文献学的考証を経ない一面的な見方を断定的に語る点で価値のないものと映るでしょう。

しかし、聖書の言葉を、現在に生きる私たちが主体的に受けとめて、その言葉に生かされ、いわば、それを自分の心の中に一粒の種として蒔き、それを糧として生きるならば、聖書を過去の光だけでなく、未来を照らす光として受けとめるならば、その釈義は、聖書を読む一人一人の読者が、主体的に選択するものであり、私の言う、「言葉に生かされる心」と「言葉を生かす心」が共鳴する地平が開かれます。

新約聖書の作者達も又、(旧約)聖書をそのように読み、そのように生きたのではないでしょうか。彼らの旧約聖書の読み方は、正統派のユダヤ教では異端として受容されませんでしたが、私は、彼らの読み方が、間違っているとか旧約の曲解とか言うつもりはありません。宗教的な言葉の与える意味の地平というものは、常に未来に向けて開かれており、それを受けとめて生きる我々の実存にかかわるものだと思います。

長谷川様に教えて頂いた 「人の子」の深い意味について、私自身もさらに黙想を続けたいと思っています。


[追加:マルコ伝16章について]

「信頼できないマルコ16章」というタイトルを持った長谷川様の新しい御論考が佐倉様のHPに掲載されましたのを、先ほど拝見しました。このメールが長文になるのを恐れますが、大切な問題ですので、これについても感想を述べさせていただきます。

この投稿は佐倉様ご自身の論文「聖書伝承の不完全性2:信頼できないマルコ16章」のなかに組み込まれて居ます。

もっとも古い写本では、マルコ伝は16章8節で終わっていて、それから後は、後世の編集者の補足であることは、聖書をすこしでも詳しく読んだクリスチャンなら誰でも知っているようなことだと思います。

そのような補足が行われたことをもとに「聖書伝承の不完全性」とか「信頼できないマルコ16章」とか、「聖書の伝承過程で聖霊は良く働かなかった」 いうようなセンセーショナルなタイトルで聖書について議論されているのが、私には、とても残念です。

聖書を編集したのが、私たちと同じように過ちを犯しやすい、様々な弱点を持った人間であったということは、私には当然のことに思われます。聖書の伝統の中で神に選ばれた人として語られているのは、決して完全無欠の聖人君子などではありません。だとすれば、聖書を編集した人も同じではないでしょうか。

一冊の書物としてみれば、聖書もまた古代の他の文献と同じく、多くの人の手を経るうちにテキストに変更が加えられたり、増補がなされたと言うことは十分考えられる事でしょう。

聖書の本文を確定するためには、様々な欠損部分を持つ古代の写本をすべて収集して、比較照合するという実に忍耐強い地味な作業を必要とすると聴いております。その学問的な研究は、常に「よりよきもの」をめざす相対性の地平で為されるとはいえ、それなりに大変に貴重なもので、今日では、聖書のテキストの伝承過程に関する学問的な研究を抜きにして聖書を語ることは出来ないと思います。

佐倉様が念頭においておられるようなファンダメンタリスト、つまり聖書自身を偶像のように崇拝するひとたちというのは、実は決して聖書を真面目に読まない人たちなのです。 私の知っているクリスチャンのなかに、そのような教条的な態度で聖書を読んでいる人はいません。

生前のイエスの言葉と行いを物語るとき、その語り手も、編集者も、テキストを私たちの伝えた人々もまた、今の私たちと同じく、完璧な人間ではなく、様々な弱点を免れなかったとしても、その同じ人が、その人と一つであって同時に、無限にその人を越えるものの導きに、絶えず耳を傾けていたと思います。

本当に大切な問題は、偶像として崇められた聖書を盲目的に信仰したり、その偶像を破壊しようとして聖書のあら探しをして、党派的な論争を仕掛けたりする、むなしくも騒々しい作業にあるのではなく、そのような雑音がすべて消えたあとの沈黙のなかで、私たちに語りかけてくるものの声を聴くことではないでしょうか。

16章8節で終わったマルコ伝をそのままの形で受け入れ、今此処にいないイエス、弟子達のなかでもまだ復活が信じられてはいないその状況に、自分自身を置き生前のイエスの言葉と行いを想起しつつ、私たちならば、それぞれの自己自身の生の軌跡において、マルコの描いた物語に何を付け加えるのか--そちらの方が、私には、遙かに大切なことと思えます。


(1)真理や誤謬の発見はいつも感動的です

門外漢の聖書釈義は、既に学会では常識となっていることを、事新しげに吹聴したり、厳密な文献学的考証を経ない一面的な見方を断定的に語る点で価値のないもの・・・
聖書についてであれ、何についてであれ、真理や誤謬の発見というものは、それを求めている個々の本人にとっては、それが常識になっているかどうかなどというようなことには関係なく、いつもみずみずしい感動的な新しい知識としと感じられるものです。たとえ、今日はじめて聖書を手にする人であっても、その中のある記述に感動したり疑問を抱いたりする経験こそがそのひとにとって大切なものであり、「そんなことはすでに学会では常識となっているから価値のないもの」などという断定こそあまり意味のないものと思われます。


(2)「私たちに語りかけてくるものの声」

本当に大切な問題は、偶像として崇められた聖書を盲目的に信仰したり、その偶像を破壊しようとして聖書のあら探しをして、党派的な論争を仕掛けたりする、むなしくも騒々しい作業にあるのではなく、そのような雑音がすべて消えたあとの沈黙のなかで、私たちに語りかけてくるものの声を聴くことではないでしょうか。
わたしは、この「沈黙のなかで、私たちに語りかけてくるものの声」については、すでに、いろいろなところで、断片的にですが、述べています。(たとえば、 「David Ahnさんへ」 「Keizo Uchidaさんへ」 「考える他人さんへ」 など参照。)

きこさんが、どのようにして「無限にその人を越えるもの」と自分自身の意見にすぎないものを区別しておられるのか、知りませんが、わたしは、心の中でわたしに語りかけてくる声が、超越者(神)の声なのか、それとも、わたし自身の声(わたしが神の声だと思い込んだにすぎない)なのか、それを明瞭に区別する方法を、結局、見つけることが出来なかったのです。なんだかんだと神学的な理屈をつけても、結局、わたしは自分が信じたいことを、神の導きとして、正当化しているにすぎないのではないか、そういう疑問にわたしは決定的な回答を出すことができなかったわけです。

このきわめて個人的なわたしの経験は、やがて、「神の声を聞いた」といわれるすべての人々(聖書の著者や預言者、新興宗教の教祖たちなど)の主張に対しても、向けられるようになります。彼らは本当に神の声を聞き、それを伝えたのか。それとも、彼らの思い込みにすぎなかったのか。云々。

きこさんは、聖書の

その語り手も、編集者も、テキストを私たちの伝えた人々もまた、今の私たちと同じく、完璧な人間ではなく、様々な弱点を免れなかったとしても、その同じ人が、その人と一つであって同時に、無限にその人を越えるものの導きに、絶えず耳を傾けていたと思います。
と、語られていますが、彼らが「無限にその人を越えるものの導きに、絶えず耳を傾けていた」かどうかはひとつも明らかではありません。明らかなのは、彼らが実に数多くの間違い犯しているという事実です。そして、もし、彼らが「今の私たちと同じく、完璧な人間ではなく、様々な弱点を免れなかった」のなら、わたしたちと同じく、彼らも、自分の心に浮かぶ考えを神の声と思い込んでいたにすぎなかったことも、当然考えられます。


(3)誤謬を取り除く作業

聖書のあら探しをして、党派的な論争を仕掛けたりする、むなしくも騒々しい作業・・・
もし、以上に考察したように、聖書の著者も伝達者も、「今の私たちと同じく、完璧な人間ではなく、様々な弱点を免れなかった」のなら、そしてまた、彼らも自分の心に浮かぶ自分自身の考えを神の声と思い込んでいたにすぎなかったことが十分考えられるとするならば、聖書の記述を吟味することは、それほど「むなしくも騒々しい作業」ではないだろうと思われます。

もし、わたしたちが、こころに聞こえる神の声と自分自身の思い込みとを区別するすべを持たないとしたら、「沈黙のなかで、私たちに語りかけてくるものの声を聴くこと」こそ、永遠にむなしい作業となるかも知れません。それは、結局、自分が信じたいことを神の名において正当化することに終始するだろうからです。むしろ、わたしたちのなすべきことはわたしたちの能力の届く範囲に限るべきであり、わたしたちが「真理」であると信じている様々な主張の中から、ひとつひとつ誤謬を取り除いていく地道な努力こそ、真理へ近づくために必要不可欠な作業である、とわたしは考えています。

そのために、わたしは、「聖書のあら探し」などと軽蔑されるこの「聖書の間違い探し」という作業を、独断に陥らないようにみなさんのご批判を受けつつ、こつこつと、しかし、徹底的にやるつもりです。