佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

キャスバル兄さんさんより

00年8月9日

神の殺人命令

確かに、旧約の時代は、神の殺人命令が良く表されています。では、現代のクリスチャンは、どうなのでしょうか。

現在のクリスチャンもまた、戦っているのです。何と戦っているのかというと、まさに「罪」となんです。日々、罪の誘惑にさらされ、そのとりことなってしまうことも多々あります。しかし、その時に悔い改めて神に立ち返る時、同じ誘惑に遭っても罪を犯してしまわないようになるんです。罪とは、さまざまありますね。最大の罪は、神を無視して人生を歩むことですが、他にも、好色や酩酊、偶像礼拝など、多々あります。人間は罪人であるがゆえに、それらをしたいと思う欲望が心から湧き上がってきます。

 旧約の多くの戦いは、罪の象徴ともなるべき人たちとの戦いなのです。エジプト人、ペリシテ人などは、まことの神をあがめず、偶像などを神として拝んだり、自分のしたいように罪を犯して歩んでいました。だから、神の民であるイスラエルに滅ぼされていったのです。

しかし、イスラエルの民も、神に頼って戦うのではなく、自分たちの力で戦おうとしたのなら、敵に負けてしまうのです。 現在のクリスチャンも、日々神を求めない生活を歩んでいると、罪なる事をしてしまうし、またそれが続くと、罪を犯してしまうことに慣れてしまって罪を罪と思わなくなってしまうのです。すなわち、罪との戦いに負けてしまうのですね。そして罪の奴隷と化してしまうんです。イスラエルの民も罪に罪を重ねてバビロンに捕囚されていくんですね。

 逆に、罪を犯さない生活をするのなら、つまり、日々神とともに歩むのなら、神からの栄誉を受けることが出来るのです。それは何かというと、神の大いなる愛をさらに味わうことが出来るのです。これがクリスチャン生活の特権とも言うべきすばらしい恵みなのです。世の中の娯楽などから受ける楽しみとは違った、安らぎというか平安なんです。それを知った時、神様を心から礼拝することが出来るのです。

 旧約のイスラエル人も、罪の象徴となる民族に勝利した時、様々な分捕り物が与えられました。またこのことから、イスラエル人は主なる神を褒めたたえたのです。 したがって、イスラエル人たちの戦いによって、私たちはその恐ろしい「罪」を徹底的に滅ぼし尽くさなければならないという教訓を知ることができるのではないでしょうか。

 私たちすべての人が罪人なんです。だから、情欲を持って異性を見てしまうこともありますし、人をねたましく感じたり、人の悪口を言ったり思ったりするんです。罪には必ず、罰があります。それは公正なことです。神様は、正しい方、正義なる方ですから、その罪を見過ごすことはできず、裁かなければなりません。そうなれば、すべての人が、裁かれる定めとなっていますが、神様は同時に愛なる方ですから、それでほっておくことが出来ない方なんです。そのためにあるのが、イエス様の救いの御業である十字架なんです。イエス様は、すべての人間の罪を背負って十字架上で死んだんです。私たちのいのちのために、十字架上で自分のいのちを捨ててくださったのです。それを信じて神に立ち返る時、その滅びの道から、いのちの道へと変えられるのです。





作者よりキャスバル兄さん

00年8月14日

エジプト人、ペリシテ人などは、まことの神をあがめず、偶像などを神として拝んだり、自分のしたいように罪を犯して歩んでいました。だから、神の民であるイスラエルに滅ぼされていったのです。

わかっててはいても、幼児殺人を含む神の殺人命令の正当化が、クリスチャンによって、このようにきわめて平然な態度で行われるたびに、わたしは神の殺人命のもつ問題の深さに考えさせられます。

キリスト教の世界宣教の成功は、まさに、この同じ神の殺人命令の論理によってなされました。アメリカ大陸の先住民たちは、この同じ論理によって、抹殺されて、キリスト教国家ができあがりました。そして、新約聖書(ヨハネの黙示録)によれば、同じ論理によって、未来の人類も殺されることになっていて、クリスチャンだけが生き残ることになっています。

もし、「オウムはあんな殺人を起こしたのだから偽宗教である」と考える日本人がいるとしたら、それは大きな間違いであることは、このお便りでもあきらかと言わねばなりません。「殺せ!と神が命じるとき」におけるわたしの結論を繰り返すことになりますが、

オウムの事件は単なる凶悪なテロではありません。それはまた単なる凶悪集団の問題でもありません。なぜなら、オウムの事件は

被告人として裁かれている信者・元信者たちには、私が知るかぎり、交通事故などの過失犯を除いて、ほとんど前科がない。オウムに関わる前は犯罪とは無縁であり、むしろ人を傷つけることを恐れるタイプだった彼らが、いくら教祖の命令とは言え、どうして殺人まで犯すことができたのか。

(江川紹子『オウム真理教 裁判傍聴記(2)』「はじめに」より)

という困難な問いをわたしたちに突きつけているからです。この問いは、「愛と赦しと平和」を説く柔和なクリスチャンが、いったいなぜ、聖書における神の殺人命令を否定できないのか、という問いとまったく同じものです。 そして、その答えは、これまで見てきたように、信仰の原理、すなわち、人間的な判断よりも上位にあると考えられている神の意思を先行させる考え方にあります。信仰者は、常に、自分の「人間的浅はかな判断」や「おのれの小賢しい知恵」を捨てて、信仰の対象としての超越的な権威(聖書や教祖の言葉)に従うことを正しいとするのです。だから、信仰者にとって、信仰者であるかぎり、神の殺人命令を否定することはほとんど不可能であると言えます。

信仰の原理に立つ人には、もしかしたら、悪が、神の名によって正当化されたにすぎないかもしれない、という視点への選択肢が、はじめから抜け落ちてしまっているのです。この意味において、オウム真理教とキリスト教は同種の宗教なのです。


(2)「罪を犯さない生活」?

罪を犯さない生活をするのなら、つまり、日々神とともに歩むのなら、神からの栄誉を受けることが出来るのです。それは何かというと、神の大いなる愛をさらに味わうことが出来るのです。これがクリスチャン生活の特権とも言うべきすばらしい恵みなのです。

本当に、クリスチャンが「罪を犯さない生活」をしているのなら、そのようなクリスチャンにお目にかかりたいものです。しかし、断言してもよいのですが、「罪を犯さない生活」をしているクリスチャンはいません。なぜなら、それが新約聖書(キリスト教)の狙いだからです。「罪を犯さない生活」が可能なら、かれらの教祖の存在価値が無に帰してしまうからです。


(3)キリスト教の本質

私たちすべての人が罪人なんです。・・・すべての人が、裁かれる定めとなっていますが、神様は同時に愛なる方ですから、それでほっておくことが出来ない方なんです。そのためにあるのが、イエス様の救いの御業である十字架なんです。イエス様は、すべての人間の罪を背負って十字架上で死んだんです。

まさにこのために、だれも「罪を犯さない生活」をすることができないような律法が、新約聖書(キリスト教)によって与えられたのです。ここにキリスト教の本質(罠)があると言ってよいでしょう。

律法がはいってきたのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

(ローマ人への手紙、5:20)

律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫[キリスト]が来られるときまで、違反を示すために、付け加えられたもの

(ガラテヤ人への手紙、3:19)

新約聖書には、徳の基準、完遂された律法の基準が挙げられている。だが、それは、不可能な徳の基準となるようにできているのだ。道徳的に努力している人々は、そのような基準に直面して、自分が目標になお遠いと感じる。彼らは徳に絶望し、ついには慈悲深いお方の胸に身を投ぜざるを得なくなる。こうした結末のゆえにのみ、道徳的努力はキリスト教徒にとってやはり価値あるものと見なされた。

(ニーチェ、『曙光』87、永井均訳)

ですから、クリスチャンであるこのお便りの主も、一応は「罪を犯さない生活」せよ(そうしなければ罰せられる)と勧めていますが、「罪を犯さない生活」を願ってではありません。そんなことはできないということをはじめから知っていて、わざと、「罪を犯さない生活」せよと勧めているのです。本当の意図は別にあって、実は、それを聞くものが「徳に絶望し、ついには慈悲深いお方の胸に身を投ぜざるを得なくなる」ことを望んで、不可能とわかっておりながら、わざと「罪を犯さない生活」せよ(そうしなければ罰せられる)と勧めるわけです。

基本的に、キリスト教会における礼拝の説教も、ほとんどこの単純な考えの繰り返しと言って過言ではありません。キリスト教の説教者は、神の律法と罰の厳しさに言及することによって、信者の罪悪感と絶望感を呼び起こし(落とし)、そんな罪人も教祖を信じることによって救われるのだと約束しては希望と感謝の気持ちを起こさせ(持ち上げ)、信者の教祖に対する従順(信仰)が堅持されているわけです。

こうして、落とされては持ち上げられ、また落とされては持ち上げられる、そんなシーソーゲームを生涯繰り返すのがクリスチャンに特徴的な精神的内面生活ですが、実際の生活においては、クリスチャンにはどこにも特徴的なものはありません。クリスチャンは普通の人間と異なって「罪を犯さない生活」を送っているわけではありません。イエスの十字架も、神の恩寵も、聖霊の導きも、クリスチャンを「罪の力」から解放する力がないのはかれら自身が告白するところです。

そこで、「クリスチャン生活の特権とも言うべきすばらしい恵み」とは、なにかと言えば、それは、死後、あるいは世の終わりに、クリスチャンは罪による罰(地獄)から免れている約束を取り付けている、ということだけだろうと思います。その約束は何によって保証されているかといえば、聖書にそう書かれているからだ、ということになります。ここに、クリスチャンが聖書に間違いがあることを、鼻から、認められない理由があるわけです。この約束が保証されていないとなると、「クリスチャン生活の特権とも言うべきすばらしい恵み」は何もなくなってしまうからです。

ところが、本サイトでも明らかになっていますように、実際は、聖書にはたくさんの間違いがあるわけです。そこで、聖書に書かれているからといって、それが正しいという保証はないことになります。すなわち、「クリスチャン生活の特権とも言うべきすばらしい恵み」は、実は、保証されていない約束であることになります。


おたより、ありがとうございました。


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