佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


  ホー   キリスト   聖書の 間違い  来訪者 の声 

K.M.さんより

99年12月16日

女の報告

マタイもマルコも女たちが恐れを抱いていたという点で共通しています。マタイ福音書は(マリア・マグダレネ以外の)女たちが「弟子たちに報告するために走った」と述べているだけで、実際にすぐ報告したとは述べていません。また、マルコは「記念の墓から逃げるようにして走った」とは述べていますが、途中で復活したイエスに会わなかったとは述べていません。「だれにも、何も話さなかった」とは、帰宅直後、弟子たちに何も話さなかったということです。しかし、ルカによると、女たちは「イエスの言われたことを思い出し」、弟子たちにことごとく報告します。ヨハネ福音書を考慮に入れると、マリア・マグダレネが一人で記念の墓に行って復活したイエスに会ったのを聞いて、残りの女たちも自分が見聞きしたことの重要性に気付いたのでしょう。詳しくは「“イエスの墓を見た女(復活2)”に対する反論(2)」をお読みください。


弟子たちの反応

ルカ 24:12は原文への書き入れ語句と考えられます。ベザ写本や古ラテン語訳は省いているからです。ですから、ヨハネによる書にあるようにペテロはヨハネと一緒にイエスの記念の墓に行ったようです。さて、マタイとルカとヨハネの記述の違いはこう説明できます。すなわち、まずベタニヤに行き、次いでガリラヤに行ったということです。マタイの記述は15節と16節との間にだいぶ時間差があるようです。ルカは「絶えず神殿にいて、神をたたえていた」とは述べていますが、ガリラヤに行かなかったとは述べていません。ヨハネは21章1節で「イエスはティベリアの海〔ガリラヤにある湖〕のところで弟子たちにご自身を現された」と述べているので、弟子たちがガリラヤに行ったことを示しています。



作者よりK.M.さんへ

00年1月16日

(1)「マタイもマルコも女たちが恐れを抱いていたという点で共通しています・・・

福音書の記述からわかるように、イエス復活の「目撃者」たちのつじつまの合わない数多くの証言の中から、わずかばかりの共通点をひろいあげて、それにすがろうとされる気持ちは、みずからの救いを聖書の約束に依存しておられる立場としては、わからないでもありませんが、わずかばかりの共通点だけに目を向けて、数多くのつじつまの合わない部分に目をつむることは、信仰者としては当然の態度としても、真理の探究者としては健全な態度とは言えないでしょう。

マルコとマタイの記述がいかに異なっているかについてはここでは繰り返しませんが、「恐れを抱いていたという点で共通しています」といわれる部分でさえ、同じ種類のものではありません。

マルコ:婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

マタイ:婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるため走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤヘ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる・・・。」さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。

マルコでは、女たちが「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。」という墓における記述と、「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」というその結末の記述とが一貫しています。そして、もともとのマルコはこここで終わります。

しかし、マタイの記述では、女たちの「驚き」の様子がまったくことなります。女たちは「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるため走って行った」ことになっているからです。

この二つを調和させるのは困難なだけではなく、マルコやマタイの報告に対する無礼でもあります。これを無理やり調和化させようとすれば、K.M.さんの「反論」のように、結局、「K.M.さんによる福音書」という、マルコともマタイとも異なる、まったく別の物語ができあがるだけでしょう。


(2)弟子たちの反応

ルカ 24:12は原文への書き入れ語句と考えられます。ベザ写本や古ラテン語訳は省いているからです。ですから、ヨハネによる書にあるようにペテロはヨハネと一緒にイエスの記念の墓に行ったようです。
これはひどい論理です。「ルカ 24:12は原文への書き入れ語句と考えられます。ベザ写本や古ラテン語訳は省いているからです」という前提から、「ですから、・・・ペテロはヨハネと一緒にイエスの記念の墓に行ったようです」、という結論は出てきません。ルカの24章12節がなかったことにして、その部分(赤い部分)を抜いて、ルカの記述を読んでみてください。
婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちはこの話しがたわごとのように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペテロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中を覗くと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。・・・。(ルカ24章10b〜12)
ルカの24章12節(赤い部分)がなかったとして素直にルカを読むと、むしろ、マタイやマルコのように、弟子はだれも墓を見に行かなかったことになります。始めから偏見をもって読むのでなければ、ここから、「ペテロはヨハネと一緒にイエスの記念の墓に行ったようです」を読み取ることはできません。

それに、もし、おっしゃられるように、ルカの24章12節は後代の加筆で、もともとなかったものとすれば、やはり、わたしたちの手元に届いた聖書の言葉は、聖霊によって守られたものではなかったことの、もうひとつの裏付けとなるでしょう。この部分が後代の加筆なのか、もともとあったものなのか、決めてがなく、学者の間で意見が分かれているようです。わたしたちは、他の写本間の相違をあらわす聖書の膨大な数のあやしげな部分と同じように、聖書に書かれているからといって、ただちに神の言葉であるとは言えないわけです。


また、

さて、マタイとルカとヨハネの記述の違いはこう説明できます。すなわち、まずベタニヤに行き、次いでガリラヤに行ったということです。・・・ルカは「絶えず神殿にいて、神をたたえていた」とは述べていますが、ガリラヤに行かなかったとは述べていません。
この解釈は不可能です。ルカによれば、
イエスは、そこ(エルサレム)から彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。(24:50〜51)
のです。このように、ルカによれば、復活のイエスは彼が弟子たちに顕現したエルサレムから弟子たちをベタニアの辺りまで連れていき、そこでそのままイエスは昇天してしまうのです。「まずベタニヤに行き、次いでガリラヤに行ったということです」などという解釈は不可能です。そして、このために、ルカの記述はマタイの記述と矛盾するのです。なぜなら、マタイによれば、女たちに最初に顕現した天使や復活のイエスは、次のように弟子たちへのメッセージをその女たちに託けるからです。
天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。あなたがたは十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体のあった場所を見なさい。それから、急いで行って、弟子たちにこう告げなさい。『あの方は、死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』確かに、あなた方に伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤヘ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる・・・。」さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。(マタイの福音書28:5-17)
このように、マタイによれば、イエスが弟子たちに最初(で最後)に顕現するのは「イエスが指示しておかれた」ガリラヤの山の上です。ルカでは、まだエルサレムにいる弟子たちのところへ、イエスは突然顕現してしまったのでした。(ルカはマタイの福音書の存在を知らなかった。)しかも、それだけでなく、「ガリラヤへ行け」と命じたマタイのイエスと違って、ルカのイエスは、「(エルサレムの)都にとどまっていなさい」(24章49節)とまったく異なることを弟子たちに命じます。ルカでは彼にとってきわめて重要な「イエスの昇天」と「聖霊の降臨」という神の主役の交代劇を中心に物語が造られているのに対して、マタイにとっては「イエスの昇天」や「聖霊の降臨」は何の意味もないからです。なぜなら、マタイの理解するイエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(28章20節)からです。(詳しくは「女の報告と弟子たちの反応」を参照して下さい。)

死からの復活というような、通常ありえない事柄が、実際に起こったなどというような報告は、わたしには当然だと思われるのですが、このように、いつも客観性の欠如したつじつまの合わない作り話でしかないないようです。聖書の記述も例外ではありません。

おたより、ありがとうございました。


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