hirokuroと申します。

私はキリスト教の牧師をしております。

佐倉先生の「聖書の間違い」は、おそらく多くのクリスチャンの受け入れないところだろうとは思いますが、学問的には常識のところも多くあります。もちろん、八木誠一先生の著書を読んでおられるのですから、聖書学の現状はよくご存じの上で書いておられることと思います。

私の感想としては、「間違い」と先生のおっしゃるのは、ファンダメンタリストを念頭に置いているからであることは理解できますが、しかし、その点が読者にはなかなか伝わっていないのではないかと感じられます。先生は「はじめに」の中ではっきりと「ファンダメンタリストを念頭に置く」と宣言しておられるのですから、「聖書の間違い」という表現を使われることは、それはそれでけっこうなのですが、読者の中には誤解する人も出てくるのではないかと思われます。なぜなら「はじめに」を読まない人も多数いるはずだからです。

先生は次のような事例をどう考えますか。「日本人はすべて善人である。」という主張をする人が居たとしましょう。それに対して、反論する人が現れました。彼は「日本人善人論の間違い」という論文を書きました。それを読んだ多くの日本人が怒ったと言うことです。日本人がバカにされたと誤解したのです。さて、このトラブルの原因と責任はどこにあるのでしょうか?私は、この反論を書く人がやや安易に論文のテーマを決めてしまったことにあると考えます。「日本人善人論の誤り」という書き方は、その論文を読む前から「日本人は悪人である」との主張をしているように見えるからです。それは読者がその論文を読まないのが悪いと言えますが、現実はそうとばかりは言えません。すべての人が論文を読むわけではありません。タイトルだけで内容を推測してしまうのです。

先生の論題も似たような問題があるあるように感じられてなりません。先生の意図は、すでに論文に書いてあるように決して聖書の意義を否定することでもなく、キリスト教という宗教を云々することではないわけですが、読者というか、このタイトルを見る人は必ず誤解するのではないかと思われます。ですから、もう少し誤解の無いようなタイトルを選ぶべきではないでしょうか。つまり、先生の言いたいことは「ファンダメンタリズムの誤り」のはずです。まさにそれしか語っていないように読めました。ならば、なぜ素直にそのような題にされないのでしょうか。

おそらく、読者へのインパクトを考えて「聖書の誤り」とされているのだと想像しますが、それはそれでけっこうです。アピールすることも大切だからです。しかし、先生も勉強されているのでご存じのことと思いますが、聖書の意義についても言及していただけたらと希望します。「聖書に矛盾があるにもかかわらず、なにゆえ2000年にわたって影響を与え続けることができたのか」とか、「聖書に人の心を動かし、人生を変えるような素晴らしいところがある」とか、「聖書が時代を変える原動力となってきた」とか、いろいろいい点もたくさんあるのですから、それにつても触れていただけなければ、バランスが悪いと私は考えますが、いかがでしょうか。

ところで、初歩的な聖書の矛盾箇所が取り上げられていませんので、釈迦に説法かもしれませんが、指摘させていただきます。有名なのは、マタイとルカのイエスの系図の違いです。これはあまりに有名なのでわざと省いたのですか?また、マタイとルカでは主の祈りの言葉が少し異なります。また、マタイとルカでは荒野の誘惑の順序が異なります。その他、福音書の並行記事を比較してみますと、ありとあらゆるところで、記述の内容が異なっています。それらをいちいち矛盾だ、間違いだとすると表にして書くのが面倒になるほどです。ですから、すべてあげる必要はないでしょうが、せめて系図の矛盾くらいは挙げておいていいのではないでしょうか。

旧約では十戒の言葉が出エジプト記と申命記で、やや異なります。厳密に言えばどちらが本物かと言いたくなりますね。その他、たくさんあるのですが、あまり細かいと読者もいやがるでしょうから、十戒くらいはのせてもいいのではないでしょうか。

いろいろ不満もありますが、しかし、聖書研究の刺激にはなるでしょう。今後もこの欄を充実してくださることを期待します。

なお、「ユダの手紙の著者の無知」の記事は大変勉強になりました。感謝いたします。

(1)ファンダメンタリスト批判と聖書批判

もう少し誤解の無いようなタイトルを選ぶべきではないでしょうか。つまり、先生の言いたいことは「ファンダメンタリズムの誤り」のはずです。まさにそれしか語っていないように読めました。ならば、なぜ素直にそのような題にされないのでしょうか。
わたしの「聖書の間違い」シリーズの目的はファンダメンタリスト批判ではありません。この問題については「ただのひと」さんとのやり取りにおいて詳しく説明しましたので、そちらをご覧下さい。


(2)バランス

聖書の意義についても言及していただけたらと希望します。「聖書に矛盾があるにもかかわらず、なにゆえ2000年にわたって影響を与え続けることができたのか」とか、「聖書に人の心を動かし、人生を変えるような素晴らしいところがある」とか、「聖書が時代を変える原動力となってきた」とか、いろいろいい点もたくさんあるのですから、それについても触れていただけなければ、バランスが悪いと私は考えますが、いかがでしょうか。
「バランスが悪い」のは事実です。しかし・・・

図書館でも、本屋さんでも、聖書に関する書物を調べてみてください。あるいは、インターネット上で聖書に関するサイトを探索してみて下さい。そうすると、それらのほとんどすべてが「聖書は素晴らしい」という主張で占められていることがわかるでしょう。そして、それらすべてが、聖書は鵜呑みにできないさまざまな誤謬を含んでいることのその可能性すら指摘していないことがわかるでしょう。

わたしは最近教会の礼拝に参加していませんのでわかりませんが、今日の教会では聖書に関するバランスのあるインフォーメーションが信徒達に与えられているのでしょうか。

どうなのでしょうか。もしわたしのサイトで、おっしゃるように、「バランス」ある情報を送るとしたら、全体のバランスはますます悪くなっていくのではないでしょうか。


(3)キリスト教2000年の歴史

聖書に矛盾があるにもかかわらず、なにゆえ2000年にわたって影響を与え続けることができたのか・・・
なぜいつまでも戦争や犯罪やキリスト教がなくならないのでしょうか。わたしにはわかりません。もしかしたら、それは<人類の愚かさ>ゆえなのかもしれません。人類がもっと賢哲であったなら、いつまでも、戦争や犯罪やキリスト教などやっていなかったかもしれません。

しかし、少なくとも、つぎのことは言えるだろうと思います。つまり、人類にとってキリスト教はあってもなくてもよいということです。たとえば、日本におけるキリスト教の歴史はすでに450年にもなりますが、いまでも、日本におけるクリスチャン人口はわずか1%にすぎません。わたしは、日本や日本人がとくべつに素晴らしい国とか素晴らしい人間だなどとはもちろん思いませんが、他国や他国人と比べて、それほどひどい国だともひどい人間だとも思えません。このことは、日本の450年に及ぶ歴史が、人類にとってキリスト教があってもなくてもよいことを、はからずも、歴史的実験によって示してしまったと言えるでしょう。

わたし個人のことに関して言えば、このことはもっと明らかです。わたしは長い間クリスチャンでしたが、やがて、キリスト教信仰を捨てることになりました。なにか特別のことがあって、意識的に捨てたのではなく、ある日自分は「クリスチャンではないなあ」と気づいた、という感じです。わたしの実際の生活は、キリスト教信仰を捨てる前も後も、ほとんど変わりませんでした。つまり、キリスト教信仰を捨てることによって、特別に、悪人になったようでもなければ、善人になったようでもありませんでした。これは今から考えると当然だったと思います。なぜなら、キリスト教(イエスへの信仰)には、もともと、人間を罪の力から自由にする力が無いからです。つまり、わたしは、はじめから、キリスト教信仰によって特別に善人になっていたわけではなかったというだけなのです。(詳しくは「めぐさんへ」を参照して下さい。)

このように、日本の歴史を考えても、自分の体験を考えても、人類にとってキリスト教はあってもなくてもよいものだ、というのがわたしの考えです。(もちろん、キリスト教によって壊滅させられた多くの文明のことを考えてみるとき -- わたしはアメリカ大陸に住んでいますのでとくに --- キリスト教はなかったほうがよかったのではないかともしばしば考えさせられます。「征服の踊り」や「高杉晋作の言葉」を参照して下さい。)

ところで、キリスト教を世界宗教にしたてあげた主要な歴史的原因をいくつか並べてみると

ローマ帝国主義
スペイン帝国主義
ポルトガル帝国主義
イギリス帝国主義
アメリカ帝国主義
があげられるでしょう。これらの帝国主義の世界戦略(植民地)合理化のために都合の良いイデオロギーを提供し、帝国主義の富と力に乗っかってその勢力を広げたのがたのがキリスト教であったと言えます。
普遍的価値観 + 他人を助ける善人意識 = 帝国主義のイデオロギー
という公式が世界史においては成立します。自分の価値観を普遍的なものと思い、かつ、世界にそれをひろめなければ世界は良くならない、というような種類の考え方が国家目標と結びつくとき、彼らはかならず自分の欲する形に世界を変革しようとします。
神は、われわれ全人類のなかからアメリカ国民を、神の選民として、最終的には世界の再生における指導者になるように運命づけたのだ。 (アルバート・J・ベバリッジ 、米国牧師)

[世界の悪は] 我々が、それに全力で反対するよう、聖書と主イエスに命じられている。 (ロナルド・レーガン、米国大統領)

[米国が日本に対して圧力をかける目的は]、日本の慣習をできるだけアメリカの慣習に近づけることである。 (ローラ・タイソン、米国経済学者)

最後に、統計的に言えば、両親がクリスチャン(ユダヤ教徒、イスラム教徒)の場合、その子供がクリスチャン(ユダヤ教徒、イスラム教徒)になるケースが多いことがよく知られています。逆に言えば、両親が、たとえば、ユダヤ教徒やイスラム教徒である場合、その子どもたちがクリスチャンになる可能性はとても少ないのです。つまり、クリスチャンがなぜクリスチャンなのか、という問いに対する統計的な答えは、たまたまその両親がクリスチャンであった(偶然)から、ということになりそうです。

このようにいろいろな事柄に思いを馳せてみますと、「聖書に矛盾があるにもかかわらず、なにゆえ2000年にわたって影響を与え続けることができたのか」という問いには単純な答えはないということになりそうです。