めぐ
体験からのとても貴重なお便りありがとうございます。
洗礼を受けるまでは、いろいろな疑問に答えてくれたり、あれこれと親切に応対してくれたりするものの、いったん受洗した後は、すべて「祈って聖書を読めば、必ず神様は答えてくださる」の一点張りで、他にすることと言えば、「救われた者の義務としての伝道」のみだということです。
これは、キリスト教の本質をつく、きわめて鋭い観察だと思います。新約聖書を注意深く研究してみますと、心深く悩み沈む者に救いの手を差し伸べ、イエスと十字架による贖罪を通して人が救われる、というところまでの物語は、世界の宗教文学の中でも第一級のものと言ってよいと思います。ところが、救われた者(救いを約束された者)がこれからどう生きるか、救われた者(救いを約束された者)がなおも抱える深刻な問題をどうするか、という物語になると、新約聖書は世界の宗教文学の中でももっとも貧弱なものとなっています。そのため、聖書至上主義を中心に据えてしまった福音派(ファンダメンタリスト)キリスト教には、その新約聖書の二面性がそのまま反映されることとなり、めぐさんはその事実を如実に観察することとなったのだと思います。
めぐさんは、救われてもなおも残るご自分の抱える問題を直視していて、それをいかに解決するかということに真剣に取り込もうとされたので、このような鋭い観察が可能となったのだと思います。多くのクリスチャンは、救いの約束の手形(死んだら天国にゆくとか、やがて世の終わりが来る、という約束)を受け取るだけで安心立命してしまい、これがいかに重要な問題であるかに気がつかないのです。救われたはずの人間が救われていないという事実は宗教的一大事のはずです。
わたしの考えによれば、問題の本質は、単にファンダメンタリズムの問題ではなく、キリスト教そのものの救いの限界にあります。つまり、イエスの十字架による救いとは、罪からの解放(罪の力からの自由)ではなく、その約束にすぎない、という事実にこの問題の本質があります。言い換えれば、クリスチャンは、救いを得るのではなく、救いの約束を得るにすぎないわけです。新約聖書を書いた初期のクリスチャンは、すぐに世界は終わりを迎え、イエスを信じて罪を許された自分たちは、天に引き上げられ、一瞬にして、新しい罪のない清い体に作り替えられるものだと信じていたので、新約聖書(キリスト教)には、イエスを受け入れ罪を許された者が、いかにして実質的に罪の力から解放されて自由な者となるかという具体的なプログラムが欠如しているわけです。
このため、「救われた者(救いを約束された者)は、聖霊の働きによって段階的に霊的成長をする」、というような教義が考え出されています。そこで、最初のうちは「祈りが足りない」「努力が足りない」と自分を責めながら必死に「正しい」信仰生活を送ろうとしますが、十年もクリスチャンの中で生活していれば、そのうち、「聖霊の働きによって」罪の力から解放され、罪の力から自由になることなど、実際には誰によっても実現されていないことに気がつきます。それどころか、偏見のない目でまわりを眺めてみると、クリスチャンも非クリスチャンも、その人間的実態は、大して変わらず、しばしば、クリスチャンよりもはるかに尊敬に値する非クリスチャンがいることを知るようになります。少なくとも、わたしの経験から言えば、そういうものでした。
十字架によって救われたはずの人間が、罪の力から救われていないとすると、いったいキリスト教には何が残るのでしょうか。結局、救いの約束を信じる信仰しかないのではないでしょうか。イエスを信じる者には、死後天国に行くとか、世の終わりが来るとき造り変えられるとかという約束が与えられている、ということを信じる信仰しか残らないでしょう。しかし、その約束の保証はどこにあるのかと聞けば、「新約聖書に書いてある」としか答えようがありません。すると、自分が救われるという約束を信じるためには、新約聖書の権威を絶対化せざるを得ません。聖書信仰の誕生です。こうして、
新約聖書信仰-->実質的救いの欠如(現実)-->救いの約束への信仰(希望)-->新約聖書信仰-->・・・という、そこから容易に抜け出すことのできない、悪循環がうまれます。これが(ファンダメンタリスト)キリスト教の本質と言えるでしょう。救済の約束への信仰とは、よく言えば「希望」ですが、実際の生活の中では、問題を先送りし続けることを意味します。おそらく、めぐさんは自己の問題を先送りすることなく、それを解決するために真剣に取り込んでおられたがゆえに、この(ファンダメンタリスト)キリスト教の実態が見えたのだと思います。
何か非常に歯切れの悪い表現ですが、佐倉様のなさっていることに、基本的には賛同しながらも、結局は堂々巡りではないかという一抹の不安が胸をよぎることを申し上げたくて、長々と書かせていただきました。
「聖書の間違い」シリーズの目的は、わたしにとって、聖書の問題(つまり、それは神の言葉だから誤謬はないという主張は果たして正しいのかという課題)にわたしなりに決着をつけることでした。そして、それを公表することで、わたしの聖書批判を皆さんに批判していただきたい、ということでした。わたしは、今のところ、聖書はやはりわたしの考えていた通り、人間の書いたものであり、間違いが沢山あり、「無誤謬の神の言葉」ではない、という結論に達しています。それは、上記の悪循環の一部(聖書信仰)が壊される事を意味していますが、そのことは、聖書の約束(希望)に保証がないということをも意味しています。
わたしはクリスチャンであることを止めましたが、それはわたしにとっては、まずなによりも、「他人の生き方を変えてあげよう」という姿勢を捨てることを意味しています。わたしは、二度と、「他人の生き方を変えてあげよう」などと考える人間にだけはなりたくないのです。したがって、わたしの「聖書の間違い」を読んで、「わたしはそれでも聖書を信じます、あなたのやっていることはわたしに何の影響も与えません」式のお便りは、まったく筋違いなわけです。
要するに、わたしは、他の人がファンダメンタリストであるかどうか、クリスチャンであるかどうか、そのようなことには興味がないのであって、ただ、「あなたもファンダメンタリストになりませんか、クリスチャンになりませんか」というお誘いに対して、自分はどうするかという問いに答えようとしているにすぎないのです。
とても貴重な体験からのおたより、ありがとうございました。